世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹

ノエル

思考を持たないエレベーターが上昇し続けるように……。

エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた。


――と、こんな出だしで始まる小説を美味しいと思わないだろうか。

わたしは、この小説のどこに惹かれたかと言うと、まずはそのタイトルに惹かれたのだった。


わたしの若いころ、あれは17、8歳のときだったろうか、友人から借りたブレンダ・リーのレコードのA面かB面か、どっちがどうだったかは忘れてしまったが、そこには『愛の賛歌』と『The end of the world』があり、それを擦り切れるまで聴いたのだった。


そのころ、まだわたしはノストラダムスの予言を信じていて、ある程度の歳になったら、世界は滅びて自分も死ぬんだと思っていた。どうしてそれがわたしにとって真実に思えたのかと言うと、たまたま読んだゲーテの『ファウスト』にそれが書かれてあったからだ。


愚かにも、そのころからすでに頭がユルかったわたしは、それが本になっていたり、活字になっていさえすれば、それが真実であると思い込んでいた。わたしは、その当時のユルい頭で、なによりも世界の大偉人と称されるゲーテのことばを信じたのだった。


そんなわけで、わたしにとって「世界の終わり」がくるということは、来るべき「未知の恐怖」となって日々、私を強迫するようになった。つまり、世界に終わりがあることで、自分の未来がなくなってしまったのである。


Endには「終端」という意味もあれば「臨終」という意味もある。

平たく言えば、「最後」ということでもあろう。そうした難しいことばに思い至らなかったわたしは、「最後」という意味にそれを採った。つまりは、「世界の最後」がどうなるかを見届けたり、知りたかったりしたのではなく、確実にやってくるものとしてのそれを目にしたくなかったのである。


だから、若いときによくやる「早逝・夭折」のようなものに憧れた。

どの道、死ぬのであれば、そのときが訪れるまでに、世界が最後を迎えるときまでに死のうと考えたのだった。


が、だからといって、何らかの手を打ったかといえば、漫然と成人し、社会に出るようになり、いつかはそれに出遭ってしまう恐怖に内心おびえながら、虚勢を張って、どこかの書評にコメントしたような、若気の至りな、恥ずかしい詩のイメージを*引きずっていた。

  *

世の中よ、わたしが憎ければ

踏みつぶすがいい

このカマキリが醜いと

踏みつぶすがいい

それでもわたしはその鎌を振り上げて

お前に歯向かおうとするだろう

 

calmelavieさんの書評 L’etrangerに対するコメントより抜粋



だが、結局は長生きしても、なにも変わらない。1999年が過ぎても世の中は終わらなかったし、自分のなかでもなんら変わったことは起こらなかったのだ。


この主人公の「私」は、しばらくエレベーターの奇妙さについて述べたあと、「エレベーターは上昇しているはずだと私が便宜的に決めただけの話である」として、つぎのように茫洋とした口ぶりで語るのだ。

根拠というほどのものはひとかけらもない。十二階に上って三階下り、地球を一周して戻ってきたのかもしれない


つまりは、アインシュタインの理論のように動いていないエレベーターに乗っていても、壁が動いていれば、それが動いていることになる。われわれは、電車に乗っていて、同様の感覚を得る。つまりは、相手の電車がうごいているのに、自分の電車が動いていると「観じる」のである。


こんな風にわたしたち読者は、のっけから「終わりなきワンダーランド」に押し込まれる。いつの間にか、あなたはこの物語のなかの一員になっていることに気づくだろう。


そう、もうあなたはハルキワールドに入ってしまったのだ。

で、結局、あなたは「やれやれ、しようがないな。こんな物語と出遭ってしまった日にゃ」などとぶつぶつ言いながら、つぎからつぎへとページをめくり、ペニスの先が痛くなるまで、夜更かしをしてしまうのだ。


そしてときおり、一休みしては、禁断症状になった中毒患者のように、またページをしゃぶり始める。そのループはまるでこの小説のようだ。けれどもそこは、行けども行けども漆黒の闇。上を見上げても空など見えはしないし、月の光もない。主人公は言う。

人は暗闇の中にいると、ごく自然に星や月の光を探し求めてしまうものなのだ。(中略)暗闇が幾重もの層をなして、私の体にのしかかっているだけだった

――と。

そんなところに影はない。影は光のなかにあって初めて存在する。闇に影はない。

様々の苦労を重ねたあと、「私」ではなく、「僕」と自称するほうの主人公が、自分の影に別れを告げられるときがくる。

幸せになることを祈ってるよ。君のことは好きだったよ。俺が君の影だということを抜きにしてもね。


そして、「僕」は影に去られてしまったあと、ひとりつぶやくのだ。

自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じ(中略)、どこにも行けず、どこにも戻れ

――ないのを知る。そこは「世界の終わりで、世界の終わりはどこにも通じていない」し、「静かにとどまっている」に過ぎないことを認めるのだった。


カル・デュ・サック。まさに袋小路。影なくてはひとはどこへも行けず、脱出口はどこにも見つからないことを悟るしかないのである。この世にある限り、ひとはこの世でしか生きることはできない。逃げ道はないのだ。


かくて、わたしが17歳のときに思い描いていた「世界の終わり」は終焉を迎えた。わたしは、自分の行き先が、地球の最後ではなく、宇宙の辺土であり、シシュフォスの神話のように「ひとりあること」の繰り返しであることを悟ったのだった。思考を持たないエレベーターがひとり上昇し続けるように……。

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