8章-2

 体育の授業は嫌いだ。理由は簡単。運動音痴だからだ。鉄棒の逆上がりやマット運動の後転で失敗する度、情けなくて穴があったら入りたくなる。

 体操着も嫌いだ。垢抜けない小豆色のジャージはまだ我慢できるにしても、ブルマは太股がむき出しになるし、お尻の形がくっきり露わになるしで恥ずかしいことこの上ない。どういうこだわりがあるのかわからないけど、他の学校ではすでに短パンになっているのだから、うちの学校も早いところ切り替えてほしいものだ。

 今日の授業で行ったバレーボールも嫌いだ。レシーブする度に手が痛くなるし、サーブをしてもネットにすら届かないし……。沢田さんには悪いけど、わたしはこの競技を好きになれそうになかった。

 でも、バレーボールならまだよかったのだ。来週からは水泳の授業が始まることになっていた。その現実がさらにわたしを憂鬱にさせた。

 自分の名誉のために言っておくけど、わたしは決して泳げないわけではない。むしろ泳ぎは人並みにこなせる数少ない運動のひとつだ。そのせいもあり、以前は泳ぐことが好きだった。夏休みにはよく近くの市民プールに泳ぎに行ったものだ。

 でも、今は嫌いだ。なぜって、水着姿になるのがこの上なく恥ずかしいから。身体にぴっちりとまとわりつく紺色の布は、胸のふくらみが気になり始めた体を隠すにはあまりにも心許なく感じられた。

 水泳の期間はできることなら体育には参加せずにすませたいところだけど、もし休んだりしようものなら男子に「お前、生理だろ」なんてからかわれ、不快な思いをさせられるに決まっている。どうして男子ってこうも馬鹿でスケベなんだろう。ほんと嫌になる。

 気持ちが塞いだまま体育の授業は終了した。まぐれでサーブが一本入ったくらいではこの鬱々とした気分は解消されることはなかった。

 わたしたち当番はバレーのネットやボールを体育用具室に片付けた後、制服に着替えるため更衣室へ向かおうとした。そのとき、パトカーか救急車のものと思われるサイレンの音が聞こえてきた。その音はどんどん近づき、最後にはけたたましいまでの音量になったところで唐突に止んだ。

「ねえみさき、もしかしてこの学校に来たんじゃない?」

「そうみたいだね。校庭で体育の授業をしている男子が怪我でもしたのかも」

 わたしの前を歩いていた矢島さんと沢田さんはそのようなことを話している。

「ねえ、河村さんはどう思う?」

 沢田さんはわざわざ後ろを歩いていたわたしに話を振ってきた。

「さあ……どうなんだろう?」

 そんなことわかるわけもないので、わたしはそう答えるより仕方がなかった。こちらとしては救急車よりも、沢田さんの隣でわたしを睨みつけている矢島さんの方がよっぽど気になるのだけど。

 更衣室に入ったわたしたちを出迎えたのは、むっとするようなぬるい空気と、酸っぱい汗の臭い、そしてかしましい女子生徒たちの声だった。次の授業が控えているときはあまりゆっくりしてはいられないのだけど、今日はこの後は昼休みということもあり、みんな着替えもそこそこに、のんびりとお喋りに花を咲かせているようだ。

 話をするならこんな狭くて汗くさいところでせずとも、教室に戻ってから好きなだけすればいいのに。だいたい女同士とはいえ、どうして人前で下着姿のままで平気でいられるのだろう。だらしないったらありゃしない。

 心の中でそんな不平をぶつくさ呟きながら、わたしは制服に着替えようとした。

 そのとき、更衣室のドアが勢いよく開け放たれた。中にいた女子生徒が一斉に悲鳴を上げる。男子の悪戯だと思ったのだ。だが、更衣室に飛び込んできたのは制服を着た女子生徒――クラスメイトの安達紀子さんだった。

「みんな大変! 事件よ!」

 荒い息を整えるのもそこそこに安達さんは言った。

 安達さんはどこのクラスにも必ず一人はいる情報通を自称する女子生徒だ。テレビタレントのゴシップやテレビドラマの今後の展開、ネットで仕入れた怪しげな豆知識といったネタはもとより、X組のAさんがBくんと付き合っているだの、C先生が十回目のお見合いに失敗しただのといった学校ローカルな噂などを仕入れては、休み時間にまるで見てきたかのように披露しているのをよく目にしていた。わたしは彼女とは話をしたことはないけど、正直あまり好きにはなれそうにないタイプだと思う。

 安達さんはまた新しいネタを入手したらしく、それを披露するためわざわざ一度出ていった更衣室に舞い戻ってきたようだ。

 しかし、聴衆の反応はいたって冷淡だった。

「紀子にかかればどんなしょうもない出来事も大事件ってことになるからね」「この前の水木先生が事故ったって話も、小学生が乗っていた自転車の補助輪に足を踏まれたってだけだったし」「それは事実に即しているからまだいいわよ。この子の場合、ガセも多いから」「その最たるものといえば、〈坂本、ついに結婚か!?〉ってやつよね」「あの時は天地がひっくり返るかってほどびっくりしたけど、結局は誤報だったし」

 安達さんの情報媒体としての信頼性はこの程度のものだった。

 みんなのつれない反応に安達さんは不機嫌そうに頬を膨らませ、「今度ばかりは本当に本当なのよ!」と力一杯訴えた。

「じゃあ、その大事件とやらを話してみなさいよ。とりあえず聞いてあげるからさ」

 女子生徒の一人に促され、安達さんは待ってましたとばかりに言った。

「自殺よ! この学校の中で人が死んだの!」

 安達さんのその一言に更衣室がどよめいた。相手をせずさっさと着替えようとしていたわたしも思わず手を止めてしまった。

 一方的な愛情を押し付けたあげく、自分の気持ちに答えてくれないとして相手を刺し殺した男。自分の腹を痛めて生んだ子どもを虐待して死に追いやった母親。神の名の元に自らの体に巻き付けた爆弾で罪のない人々を巻き込んだテロリスト。――テレビを付けさえすれば、この世界が死で満ち溢れているという現実に嫌でも気付かされる。

 でもその一方で、わたしは死というものを実際に目の当たりにしたことがなかった。小学校四年生の時、学校で飼っていた兎が何者かに無惨に殺されたという事件があったけど、それも生徒が登校する前に早々に片付けられてしまった。おばあちゃんが亡くなった時も、死に目どころかすでに火葬されていて、小さな木の箱に入った灰しか拝むことができなかった。登場人物を殺せば聴衆の涙を誘えるという安易な目論みで作られた映画を見たところで、当然それは死に立ち会った内には入らないだろうし。

 まだ十二年ほどしか生きていないわたしたちにとって、死なんてしょせん現実味のない他人事でしかなかった。それゆえに、死という事態が自分の通っている学校という身近で起こったことに誰もが色めき立った。興味津々で安達さんにさらなる情報を要求する。

 安達さんは自分がみんなに求められている状況に酔っているようだ。詰め寄るクラスメイトに「まあまあ、そう慌てなさんなって」ともったい付けて言った。

「死んだのが誰なのかはわからないけど、なんでも三年の女子だって話だよ。現場の状況から見て、おそらく屋上から飛び降りたんじゃないかってさ」

 ――三年の女子。

 ――屋上。

 それらの単語を聞いた瞬間、わたしは自分の顔から血の気が引くのを感じた。

 この学校では生徒が屋上に上がることを禁じている。屋上へ通じる階段はプラスチック製の鎖によって封印されており、たとえそれをくぐり抜けたとしても、屋上へ通じる扉は鍵がないと開けることはできない。よって、生徒が屋上から飛び降りるような事態は本来なら起こりえないはずだった。

 だけど、唯一それを行うことが可能な生徒をわたしは知っていた。

「屋上から飛び降りたってことは、落ちた場所はとんでもないことになっているんじゃ……」「その通り。地面に激突した衝撃で身体がぺちゃんこにつぶれて、脳味噌や内臓が辺り一面に――」「うわぁ……」「――というのはあくまでわたしの想像なんだけどね」「ちょっと、やめてよね! お昼が食べられなくなるでしょ」「ごめんごめん。実のところわたしも人が飛び降りて死んだという話を聞いただけで、実際に現場を見たわけじゃないのよ。どうやら中庭に落ちたらしいんだけどね。うちのクラスの男子が何人か野次馬しに行ったようだから、気になるんなら行ってみたら?」「馬鹿な男子じゃあるまいし、死体を見に行くだなんて悪趣味な真似するわけないでしょ!」

 女子更衣室の中は死んだという女子生徒の話題で持ちきりになっている。わたしには、それらの会話がまるで安物のスピーカーを通したようにくぐもって聞こえていた。

 頭の中をある推測がぐるぐると駆けめぐる。

 三年生。――ありえない。

 女子生徒。――そんなこと。

 屋上。――あるはずかない。

 死。――嘘に決まっている。

 次々とわき上がる疑念を必死に打ち消そうとするわたしの脳裏に、体育館に行く前に聞こえた音が響いた。

 ――それは、扉が閉まる音。

 瞬間、わたしの中で何かが爆ぜた。

 手に持っていた制服を投げ捨てた。

 たむろしている女子生徒をかき分けながら更衣室のドアへと向かう。

 ドアの前では安達さんが得意気に喋っている。

 邪魔。

 わたしは彼女の体を押しのけた。

 たまらず尻餅をつく安達さん。

 わたしに向かって何やらキイキイ文句を言っている。

 相手にしている暇はない。

 わたしは勢いよくドアを開け放つ。

 女子生徒が一斉に悲鳴を上げる。

 かまわず更衣室の外へと飛び出した。

 ちょうど更衣室の前を通りかかった男子と衝突する。

 わたしの体は跳ね飛ばされ、尻餅をついてしまう。

 男子は戸惑いと苛立たしさの入り交じった声で何事か怒鳴っている。

 聞いている余裕はない。

 すぐさま立ち上がって駆け出す。

 さっきまでバレーボールのネットが張られていた体育館の中央を突っ切る。

 行き先は西側非常口。

 その先にある中庭。

「河村さん!」

 誰かがわたしの名を叫んだ。

 たぶん沢田さん。

 無視する。

 内履きのまま非常口から外に出る。

 中庭へとひた走る。

 確かめなくては!

 わたしの推測が間違いであることを、自らの目でしかと確かめなくては!

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