8章
8章-1
体操着でぱんぱんに膨らんだ巾着袋を手に教室から廊下に出たわたしを出迎えたのは頭が痛くなるほどの喧噪だった。
オンボロのスピーカーから流れるひび割れた呼び出しの声、仲間を連れ立って廊下を駆けていく男子のせわしない足音、授業中ずっと黙していた鬱憤を晴らすかのような女子生徒の甲高い話し声――校内は三時限目と四時限目の間の休み時間という狂騒の真っ直中にあった。
目の前で繰り広げられている騒々しい光景に、わたしは眉をひそめてしまう。休み時間なのだから多少うるさくなるのは仕方がないのかもしれないけど、それにしたってもう少し限度というものをわきまえてほしいものだ。
……って、今はそんなことに立腹している場合じゃない。早く体育館に行かないと。今日はわたしたちの班が用具係になっているから、授業が始まる前に準備を済ませておかないといけなのだ。
そう思い、下りの階段にむけて足を踏み出そうとした、そのときだった。
――――。
わたしは思わず足を止めてしまった。今、何かが聞こえたような気がしたのだ。
――それは、扉が閉まる音。
松永先輩?
一瞬先輩の顔が頭に浮かんだものの、すぐにそれはありえないと思い直す。先輩が屋上に向かうのは放課後と決まっていた。今日はこれから四時限目の授業があり、昼休みを挟んでさらにあと二時間も授業が残っているのだ。こんな早くから屋上に行っているはずがないじゃない。
……そもそも、松永先輩は学校には来ていないはずだし。
階段の前で立ちつくしているわたしの肩を誰かが後ろから叩いた。振り返るとそこには沢田さんが立っていた。
「河村さん、どうかしたの? こんなところでぼーっとしてさ」
「ううん、何でもない」
わたしは首を振って答える。
「しっかりしてよ。体育の時間にぼんやりしていたら怪我の元だからね」
「……うん」
わたしは煩わしく思いながらもうなずいた。
渡り廊下で言い争いをした後も沢田さんは変わらずわたしにちょっかいをかけ続けてきた。てっきりあれで気まずくなり、距離を置くものと思っていたので、ちょっと意外だった。どうやら彼女は、わたしが想像している以上にお節介な性分であるようだ。
わたしの方はといえば、これまで以上にぞんざいな態度を取るようになっていた。沢田さんの厚意はわかってはいるけど、それを素直に受け入れる気にはどうしてもなれなかった。
それに――
「みっさきーっ!」
沢田さんを呼ぶ声が聞こえてきた。
わたしたちが同時に声がした方を見ると、矢島さんが教室から出てきたところだった。彼女は二つに分けたお下げをぱたぱた揺らしながら駆けてくると、沢田さんの胸に飛び込んだ。沢田さんは驚きながらも易々と矢島さんの小柄な体を受け止める。
「ちょっとエリカ、危ないでしょうが」
友人のとっぴな行動に沢田さんは文句を言おうとしたものの、矢島さんは聞く耳を持たず、逆に諭すように言う。
「みさき、のんびりしてちゃ駄目じゃない。わたしたちは当番なんだから、早く体育館に行って準備しないといけないんだよ。みさきはバレーボール部なんだから、ネット張りとか率先してやってくれなきゃ」
「はいはい、わかってるって」沢田さんは矢島さんの体を引き剥がしながらそう答えると、わたしに言った。「わたしたち先に行っているから、河村さんも早くしてね」
「早く早く!」
わたしが返事をするよりも先に沢田さんは矢島さんに腕を引っ張られるようにして階段を降りていく。そのとき矢島さんと目が合った。彼女は沢田さんに対する際の無邪気さとはうって変わって、憎々しげにわたしを睨んでいる。
どうもわたしは矢島さんに敵意を持たれているようだ。わたしに大好きな沢田さんを取られるとでも思っているのだろうか。
取り越し苦労もいいところだ。わたしには沢田さんと矢島さんの間に割って入る意志も資格もないのだから。
沢田さんたちの背中を見送ると、わたしは屋上に向かう階段を見上げた。相変わらずそこはプラスチックの鎖と注意書きのプレートによって封印されている。ここから見るかぎりでは普段と何ら変わるところはなさそうだ。
さっきの音が気になったけど、沢田さんに急かされていることもあるし、今から確かめに行くわけにもいかない。
……きっと空耳だったんだ。
今は授業前の休み時間で、教室の移動やら何やらでとても騒がしいのだ。そんな中、屋上の扉が閉まるごく小さな音を聞き取ることなんてできるわけがないじゃない。
そう自分に言い聞かせると、わたしは階段を降りていった。
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