3章-3

 そんな二人のいがみ合いはまだ続いていた。もっとも坂本先生が一方的に噛み付いているだけで、松永先輩の方はいいかげんうんざりしているようだけど。

「坂本先生、ひとつお尋ねしてもよろしいですか?」

 松永先輩が坂本先生に尋ねた。

「なんだ? どこに行けば髪を黒く染め直してくれるのか教えてほしいのか?」

「いえ、そうではなくて。なぜ、服装頭髪検査なんてする必要があるのでしょうか?」

「何を寝ぼけたことを言っているんだ、お前は。そんなのは校則で定められた服装や頭髪をしているかどうか調べるために決まっているだろうが」

「そもそも、なぜ校則で服装や頭髪を定めなくてはならないのでしょう?」

「それは……そう、服装や頭髪の乱れはすなわち生活の乱れだからだ。身なりがきちんとしていないようでは勉学にも集中できないし、なにより悪い仲間と付き合う原因にもなりかねんからな。だから学校では生徒に対して正しい服装や頭髪を校則で提示しているのだ」

「なるほど。服装、頭髪の乱れがすなわち生活の乱れであると……」

 坂本先生の説明に松永先輩はさも納得したように頷いた。

「わかったなら、さっさとその髪を――」

 その坂本先生の言葉を遮って先輩は言った。

「それでは、先生の生活は乱れに乱れているのですね」

「な、何を言っているんだ、お前は!? どうしてそんなことになる」

 思わぬ反撃にたじろぐ坂本先生に、松永先輩は指摘する。

「先生は昨日もそのジャージを着ていましたよね」

「う……」

「昨日だけではありません。一昨日も、その前の日も、そのまた前の日も同じジャージ姿だったはずです。それは服装の乱れではないのですか?」

「い、いや、これは……」

「それと先生の頭髪ですが、そこ寝癖がついています」

 松永先輩に指差され、坂本先生は反射的に自分の頭に手を当てた。わたしたち生徒はさっき坂本先生が壇上に登っていた時から気になっていたのだけど、当の本人は今さらながら自分の後頭部の髪が逆立っていることに気付いたようだ。

「それは頭髪の乱れに該当しますよね」

「ま、待て。これはだな……」

 坂本先生に釈明する間を与えず松永先輩は容赦なく断ずる。

「先生は服装も頭髪も乱れています。それはすなわち、先生の生活が乱れている証拠だと思われます。さっき自分で仰ったのですから否定はしませんよね?」

「…………」

 周囲からくすくすと笑い声が漏れる。普段口うるさい坂本先生が松永先輩にやり込められている状況がおかしくて仕方がないのだろう。

 当の松永先輩は自分のしたことに満足するでもなく、いたって悠然としていた。

 坂本先生はぶるぶると首を振ると、開き直ったように言った。

「いや、否定する!」

 その言葉に松永先輩はかすかに眉をひそめる。

「なぜですか? 先生の服装や頭髪が乱れているのは明らかであるというのに」

「いや、その認識からして間違っているのだ。俺の服装や頭髪には、なんの乱れもない」

「ではお尋ねしますが、先生の恰好のどのへんが乱れていないと仰るのですか? 説明してください」

「そうだな……。例えばこのジャージ、お前は何日も同じものを着ていると言ったが、それは間違いだ。俺はこれと同じジャージを何着も持っていて、毎日取り替えているのだ。いつだって俺のジャージは洗い立てだ。つまり俺の服装に乱れはない」

 見るからによれよれのジャージ姿で坂本先生は強弁する。

「頭髪はだな――そう、これは整髪料などいっさい使わない、自然な仕上がりのヘアスタイルなのだ」

 坂本先生が力強く語る度にナチュラルな寝癖がぴょこぴょこ揺れた。

「以上、俺の生活には何の乱れもない。どうだ、参ったか?」

 何がどう参るのかはわからないけど、坂本先生は勝ち誇ったように言った。

 その坂本先生の発言に真っ先に反応したのは、当事者二人を除くその場にいたほぼ全員だった。体育館は爆笑の渦に包まれた。坂本先生の子どもじみた弁明を聞いて誰もが笑わずにはいられなかったのだ。日頃、坂本先生をよく思っていなかった生徒たちは馬鹿にするように、味方であるはずの先生方も呆れたように仲良く笑い合っている。わたしもつい口元を弛めてしまった。

「あ……」

 自分が笑い者になっているという現実に坂本先生は愕然としていた。

「坂本先生に謝らないといけないことがあります」申し訳なさそうに松永先輩は言った。「私は先ほど、先生が昨日も同じジャージを着ていたと言いましたが、本当はそんなことは知りません。なぜなら昨日は学校が休みで、先生とは会っていませんから。適当な発言をして、まことに申し訳ございませんでした」

「…………」

「それとも、私が言ったことは図星でしたか?」

 呆然としていた坂本先生の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

「松永ーっ!」

 またしても松永先輩に飛びかかろうとしたものの、例のごとく側に控えていた先生二人に抑え込まれてしまう。

「検査はもうよろしいでしょうか?」

 何事もなかったかのような涼しさで松永先輩は尋ねた。興奮してまともに返事できる状態ではない坂本先生に代わり水木先生が答える。

「そ、そうだな。坂本先生がこんな状態じゃとても続けられそうにないしな」

「そうですか。では、私は教室に戻らせていただきます」

「あ、松永」水木先生があわてて呼び止める。「できることなら、次の検査のときまではその髪を何とかしてきてくれよ。じゃないと、坂本先生の怒りが治まらないだろうからさ」

 苦笑いしながら言う水木先生を松永先輩はつまらなそうに一瞥すると、背を向けて歩き始める。

「松永っ!」

 その背中に坂本先生が怒鳴りつけた。松永先輩の足がぴたりと止まる。

「きさま、こんな勝手な振る舞いをして許されると思っているのか? このままだとどうなるかわからないわけじゃないだろ! 俺は他の事なかれ主義の教師たちとは違うからな! そのことを忘れるなよ!」

 松永先輩は坂本先生の怒声を黙って背中で受け止めた。わたしの位置からでは、その言葉を聞いた先輩が何を思ったのか窺い知ることはできなかった。

 松永先輩が再び歩き出すと、進行方向にいた生徒たちはまるでモーセを前にした海のように左右に分かれていく。先輩はそのぽっかり空いたスペースを素早い足取りで進み、そのまま昇降口をくぐって体育館から出ていった。

 松永先輩がいなくなった後、体育館はこれまで以上に騒々しくなってしまった。先生がマイクを使って静かにするよう促してもいっこうに治まる気配をみせない。そんな状況下でもなんとか服装頭髪検査を続けようとする先生もいたものの、生徒の中には注意されると「先生もそうとう生活が乱れていそうですね」などど松永先輩の真似をする者まで現れる始末だ。もはやまともに服装頭髪検査などできる状態ではなくなってしまった。

 わたしはわたしで、体育館の隅で教頭先生にくどくどとお説教されている坂本先生の丸まった背中を見て気の毒に思いながらも、先ほどの松永先輩の颯爽とした姿にほれぼれしていたのだった。

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