3章-2

「はい、次の人」

 石田先生がそう言うと、後ろに並んでいたクラスメイトがわたしを押しのけるようにして前へと進み出る。いつまでもここにいては邪魔になってしまうので、わたしはあわてて列から離れた。

 石田先生は女子生徒のスカートや髪に物差しを当てて違反がないか確認する。その手際のよさはまるで次々とベルトコンベアで運ばれてくる製品を素早く組み立てる工員のようだ。

 何だかやるせない気分になり、わたしは視線を外す。しかし、体育館の中はどこを見渡しても同様の光景が繰り広げられていた。黒や紺といった暗色系の制服を身にまとった生徒が列をなし、検査の順番を待っている。検査をする先生方が工員なら、生徒はさながら処理される製品といったところか。

 その製品には静音機能は付いていないようだ。検査中は静かにしているように言われてはいるのだけど、騒ぎたい盛りの生徒たちに黙って順番を待ていろというのは酷な相談というものだろう。最初の数分ほどは静粛にしていたものの、やがて誰もが休み時間であるかのように騒々しく振る舞うようになっていった。先生方も検査で忙しいせいか、列を崩して歩き回ったりしないかぎりはいちいち注意などしないので、騒ぎは収まる気配を見せなかった。その無秩序な有様に、わたしは校長先生の長い話以上にげんなりしてしまった。

「あ、やばい。わたし普通のソックス持ってくるの忘れた」「どうするの? 今履いているやつだと確実に検査に引っかかるよ」「げー、やだなぁ……。ねえねえ、あんたが穿いているやつ、検査が終わったら貸してよ」「い、嫌よ、そんなの!?」「いいじゃん、別に減るもんじゃなし。それとも何? 水虫だったりとかするわけ?」「んなわけあるかーっ!」「しょうがない。とりあえず裸足になって、登校途中でドブにはまって汚れたとか言って誤魔化すことにするか。それより、あんたのスカートの丈ちょっとやばいんじゃない?」「えー、問題ないでしょ。かろうじてだけれど膝にかかっているしさ」

 嫌でも耳に飛び込んでくるこの手の会話に、わたしは眉をひそめてしまう。

 最近になって気付いたのだけど、この学校には校則通りの格好をしていない生徒が思いの外多く見受けられた。それは髪がかすかに眉にかかっていたり、スカートが少し短かったり、ソックスが学校指定の物ではなかったりといった些細なものではあるけど、校則違反には違いない。厳しい規則に息苦しさを感じ、そこから逸脱したくなる気持ちはわからないでもないけど……。

 ただわたしが許せないのは、そういう人たちも検査の際にはちゃっかり校則に適った格好をしてくることなのだ。普段はそのままにしている髪をきちんと束ねたり、腰のところで巻いて短くしていたスカート丈を元に戻したり、あらかじめ用意していた学校指定のソックスに履き替えたり――そうして、月曜日の一時限目だけはさも真面目な生徒であるかのように装おうとするのだ。

 なんてずるいんだろうと思う。普段から真面目に校則を守っている人に対してすまないとは思わないのだろうか。

 わたしがいつものように卑怯な生徒に対して心の中で憤っていたところ、

「松永! きさまはいったい何を考えているんだ!」

 突如、体育館に怒声が轟いた。その声の大きさたるや、あれほどざわついていた体育館の中が一瞬にして静まり返ってしまったほどだ。

 この野太い声の主をわたしは知っている。ついさっきまで壇上で「ゴールデンウィークは終わったんだ。いつまでも弛んだ気持ちのままでいるんじゃないぞ!」とか、「もうすぐ中間テストだ。気合いを入れて勉強に打ち込めよ」と皆に喝を入れていた生徒指導の坂本先生だ。和凧に描かれている絵のような厳つい顔をしており、体育教師という仕事柄か常にジャージ姿を着ている。

 女子の体育担当ではないため、わたしは坂本先生について詳しく知っているわけではないけど、授業のある男子が口々に漏らすところによると、やたら厳しかったり、すぐに手を上げたりするため、評判はあまり芳しくないようだ。生徒の言い分だけで教育者としての資質を判断するのは早計かもしれないけど、小学校には坂本先生のようにあからさまに高圧的な先生はいなかったので、こういうところも中学校ならではなのかな、と思ったものだ。

 そんなことより、わたしが気になったのは坂本先生が怒鳴った相手だ。先生は〝松永〟と呼んでいた。その苗字の生徒が校内に何人いるのかわからないけど、わたしが知っている松永はただ一人だ。

 わたしはあたりを見回し、黒い群れの中から坂本先生と怒鳴られている生徒の姿を探す。その現場はすぐに見つかった。藍色のジャージを着た大柄の坂本先生と赤い髪をした女子生徒はとても目立っていたから。女子生徒は言うまでもなく松永京子先輩だった。

「松永、先週の検査の際にお前に髪の毛をちゃんと黒くしてくるように言ったはずだよな。いや、先週だけじゃない。先々週も、その前の週も、さらにその前にも同じことを言ったはずだ。それなのに……何なんだ、その髪は! ちっとも直っていないじゃないか! いったいどういうつもりなんだ?!」

 坂本先生は大きな身体を怒りでぶるぶる震わせて問いただす。

 一方、怒鳴られた松永先輩はいたって平然した様子で、

「お言葉を返すようですが、先週の月曜日は祝日で学校はお休みでした。先生は休みの日だというのに、わざわざ私の家まで足を運んで注意をしてくださったのですか? 遺憾ながら、私にはそのような記憶はないのですが」

「う、うるさい、そういう些細なことはどうでもいいんだ! 何度も言っているようにその髪は校則違反だから、早く黒く染めてこい」

「それはできません」

「なぜだ?」

「生徒手帳に記されている〈生徒心得 第四章 生活・服装について〉の項に、〈生徒は頭髪を染色してはならない〉と記されているからです。髪を黒く染めたりしたら違反することになってしまいます。生徒たるもの、学校が定めた校則には従わなくてはいけませんから」

「お前はすでに染めとるだろうが!」

「これは地毛です」

「……嘗めてるのか、お前?」

 怒りで頬を引きつらせる坂本先生に、松永先輩はしれっと言った。

「嘗めるわけがありませんよ、そんな汚い顔」

 その一言に周囲はどよめいた。

「き……きさまっ!」

 鬼のような形相で坂本先生は松永先輩に掴みかかろうとする。松永先輩が坂本先生に殴られると思い、わたしはたまらず手のひらで目を覆った。

 だけど、予想された事態は起こらなかった。若い先生が二人がかりで坂本先生を止めに入ったのだ。前から腰に抱きついている先生の名前は知らないけど、後ろから羽交い締めにしているのはわたしたちに数学を教えている水木先生だった。

「坂本先生、落ち着いてください!」「放せ水木! 放すんだ!」「駄目ですってば。今のご時世、生徒を殴ったりしたら問題になりますよ。ただでさえ最近のマスコミはこういった事件には敏感なんですから」「うるさい! 一度も殴られもせずに人間がまともに成長できるものか!」「この間、どこかの教師が生活態度を注意した生徒にナイフで刺される事件があったばかりでしょ。その二の舞になっても知りませんよ」「馬鹿野郎! 生徒が怖くて教師が務まるか!」

 暴れる坂本先生と、それを必死に宥めようとする二人の先生の様子を遠巻きに眺めていた他の先生方は「やれやれ、またやっているよ」と苦笑いしたり、「時間が押しているんだから大概にしてほしいよな」と言わんばかりに露骨に迷惑そうな顔をしている。

 そんな先生たちに対してもわたしは眉をひそめてしまう。生徒に手を上げようとした坂本先生を非難するのは当然だとしても、彼らは教師として、堂々と校則を破っている松永先輩に対して他に語るべき言葉や取るべき態度というものがあるのではないかと思わずにはいられない。

 多くの生徒が普段校則を守っていないことに驚いたわたしだけど、それに気付いてもとりたてて注意をしない先生方にはもっと驚いた。生徒にも人権があるのだから服装くらい自由にさせるべきだと考えているのか、融通の利かない教師だと生徒に嫌われたくないのか、それとも単に仕事が忙しくていちいち生徒の服装になどかまっていられないのか――その理由はわからないけど、先生たちにとって生徒を校則に従わせることがそれほど重要だと思われていないのは容易に想像がついた。

 毎週のように行われる服装頭髪検査も、規律を守れる立派な生徒を育てたいという意欲の表れというよりは、昔から行われていた儀式のようなものなので、とりあえず続けているだけにすぎないのだろう。それにちゃんと検査をしているという体裁さえ整えば、教師の責務は果たされると思っているのかもしれない。

 生徒側もそれがわかっているから、検査の際には先生の顔を立てて校則にかなった格好をし、その代わり普段は当然の権利であるかのように違反をする。先生も生徒を懐柔するためか、よっぽどの違反でもないかぎりは目をつぶってやる。――そんな馴れ合いのような関係がわたしにはとてもいやらしいものに思えて仕方がなかった。

 だからこそ、強権的すぎるきらいはあるものの真面目に検査を行っている坂本先生には感心するし、検査前の小細工では誤魔化しようのない違反を堂々とやってのける松永先輩の姿には潔ささえ感じたのだ。

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