1章-3

「聞きたいことはそれだけ? じゃあ、今度は私から質問させてもらうね」彼女は鍵をポケットにしまいながら言うと、不意に険しい表情になった。「あなた、このことをちくるつもり?」

「え……ちくる?」

「私が無断で作った合鍵を使い、頻繁に屋上に出入りしていることを教師に告げ口するつもりなのかって聞いてるの」

 その声は、これまでの穏やかさとはうって変わってとても冷ややかだった。

 さっきまでわたしの体全体を覆っていた火照りは一瞬にして冷却され、背筋にぞくりと悪寒が走った。彼女の口調は粗暴な男子のように感情むき出しではなったものの、じわじわと締め付けられるような息苦しさがあり、よっぽど怖いと感じた。

 本当なら〝ちくる〟べきなのだろう。彼女のしていることは明らかに校則違反であり、見つけたらすぐさま先生に報告するのが生徒の義務であるはずだから。

 でも、そう答えることはできなかった。面と向かってそんな言ったらどんな目に遭わされるかわからないという情けない理由もあるけど、それ以上に、そんなことをしたら絶対に後悔するに違いないと思ったからだ。……どうしてそう思ったのかは、正直自分でもよくわからないのだけど。

 わたしをじっと鋭い眼差しで見つめていた彼女は、やがてため息混じりに言った。

「あなた、よく人から真面目ないい子って言われるでしょ?」

 その唐突な問いかけに、わたしの胸がずきりと疼いた。頭から血がすっと引いていくのを感じた。異物が喉につっかえたかのように息が苦しくなった。天地がわからなくなるほど目の前がぐらぐら揺れ、よろめきそうになる。――彼女の発した何気ない一言は、それほどまでにわたしを動揺させずにはおかなかった。

 ど、どうして……。

「どうしてわかるのって言いたげね。そんなの簡単だよ。あなたの顔を見ていれば一目瞭然だもの」心底つまらなそうに彼女は言った。「真面目ないい子って、いつだって自分は正しくなくてはならないと思っているのよね。でもそれは、決して気高い道徳観念持っているからじゃない。ただ他人の視線が怖いってだけ。自分が人にどう思われているか常に気にしていて、評価が少しでも下がることを極度に恐れているのよ。もし人に嫌われでもしようものなら、もはや自分には何の価値もなくなってしまうのだということを誰よりもよく理解しているからね」

 わたしは彼女の言葉に何の反論もできなかった。なぜなら、それはすべて事実であったから。

 ……どうしてこの人はそんなにもわたしのことがわかるのだろう?

 愕然としているわたしに彼女は言った。

「だから、あなたは屋上に来たんでしょ」

「……えっ、それってどういう意味です?」

 彼女が何を言いたいのかわからず、わたしは聞き返す。

「私が屋上に出入りしていることに気付いたあなたは、犯行現場を押さえてやろうと思って屋上に来たんだろうって言ってるの。髪を赤く染めている軽薄な不良が禁止されている屋上に出入りしていると教師にちくったなら、きっといい点数稼ぎになるでしょうからね」

「そんな……」

 いくらなんでも、それは言いがかりがすぎると思った。

「だってあなた、自分がそういう真面目ないい子であることを誇りに思っているんでしょ。――違う?」

 彼女は嘲るような、でもどこか寂しげな目を向けてわたしに問い質す。

 真面目ないい子――それは昔からわたしが言われ続けてきた言葉。

 たしかに、以前はそう言われることが嬉しかった。両親や学校の先生、周りの大人たちにそう思われたい一心でわたしはこれまで生きてきたような気がする。

 だけど――

「違います!」

 気がついたらわたしは叫んでいた。それは普段のわたしからはおよそ考えられないような、激しい感情の発露だった。

 おとなしいと思っていた相手の思わぬ反撃に、彼女は虚を突かれたようにぽかんとしている。

 驚いたのはわたしも同様だ。不良の人に楯突いたりなんかしたら、どんな目に遭わされるかわかったものじゃないのに……。

 だというのに、わたしはこの先待ち受けているかもしれない最悪の事態などいっさい憂慮せずに続ける。

「……言いません。あなたが屋上の鍵を複製したことや、屋上に出入りしていること――それらを先生形に告げ口したりなんて、絶対にしません」

 わたし、いったい何を言ってるの!?

 自分の口から出た発言にわたしは愕然とした。そんな悪事を黙認するような真似は決して許されるはずないのに……。

 それでも、今の発言を撤回するつもりはなかった。たとえそれが、真面目ないい子の道に外れる行為であったとしても。

 豹変したわたしにしばし気圧された様子の彼女だったけど、再び冷たい視線を向け、

「……さて、どうだかね。口ではいくらでも調子のいいこと言えるから」

「お願いです、信じてください!」

「ふーん……」彼女は意地悪そうに口元を歪めた。「そこまで言うのなら保証くらいあるんでしょうね?」

「保証……ですか?」

「そう、あなたがこのことを絶対に誰にもちくらずに黙っているという保証。それを示してくれるというのであれば、あなたのことを信じてあげてもいいよ」

「そんなこと言われても……」

 なんて理不尽な要求だろうと思った。先生に告げ口をしないという決意をどうやって証明しろというのか。

 もしかするとこれは、いわゆる〝カツアゲ〟とか呼ばれる類の金銭を要求する行為なのかもしれない。毎月二千円のお小遣いでやりくりしている身としてはとても納得してもらえそうな額は支払えそうにないけど、それならまだ話はわかりやすいといえる。

 でも、彼女が求めているのはそんな卑しい要求などではなく、もっと真摯な想いであるように感じられた。わたしはその求めに誠意を持って答えなければいけないんだ。だからこそ適当にお茶を濁すような真似はできず、どうしたらよいかわからなくなってしまうわけで……。

 窮したわたしが宙を仰いだところ、瞳の中に空の青が飛び込んできた。

 あぁ、そうか……。

 そのなんてことのない、ありきたりな空を目にした瞬間、わたしは自分の想いに気がついた。

「……空があるから」

 空を見上げたままわたしは言った。その発言に彼女がかすかに身じろぎする気配がしたけど、かまわずわたしは続ける。

「ここの空は他の場所で目にする空とは違うように感じます。どうしてそう思うのかはわかりません。だってどう見ても、それはなんてことのない、ありきたりな空にすぎないんですから。でも、確かに何かが違うと感じるんです。その理由をうまく説明できないのがもどかしいですけど……。ただ確実に言えることは、今こうして見上げている空がわたしはとても好きだということで――」

 わたしは彼女の顔をまっすぐ見据える。

「ここはそんな好きな空を見ることができる場所です。でも、先生に告げ口したらきっとこの場所は取り上げられてしまいます。そんなのは嫌です……。だから、誰にも言ったりしません。――これがわたしの保証です」

 我ながらトンチンカンなことを言っているという自覚はあった。こんな意味不明な発言が彼女の求める保証に成り得るとはとうてい思えない。

 だけど、その言葉に嘘、偽りはなかった。わたしがここから見える空に心奪われてしまったのは紛れもない事実だったから。

 彼女はしばし黙り込んでいた。こんなわけのわからない保証を持ち出されて呆れているのだろう。

 あまりにも長い沈黙にわたしが不安になり始めた頃、彼女はふっと頬を緩めて笑い出した。それは先ほどまで見せていた静かな微笑みとは対極の、身をよじり、腹まで抱え込むような爆笑だった。彼女に対して抱いていたミステリアスなイメージなど一瞬で消し飛んでしまった。

 彼女が厳しい表情を崩してくれたことに最初ほっとしたわたしだったけど、ここまで大笑いされるとさすがに憮然とせずにはいられなかった。こっちは真面目に言ったのに……。

「ごめんごめん」わたしがむっとしているのに気付いたのか、彼女は手の甲で潤んだ目をこすりながら言った。「まさか、あなたがそんなことを言い出すだなんて思ってもみなかったものだからさ」

「別にかまいませんけど……。でもわたし、そんな笑えるようなことを言いましたか?」

「いや、別にあなたの発言がおかしかったわけじゃないのよ。ただ、私以外にも同じようなことを感じている変わり者がいるんだなって思ったらなんだか嬉しくなっちゃって、無性に笑いたくなったんだよね」

「え……?」

 思わぬ言葉にきょとんとするわたしをよそに、彼女はぐっと上体を後ろに反らして顔を真上へと向けた。

「私もあなたと一緒。この屋上から見る空が好きなんだ」

 彼女は眩しそうに目を細め、じっと空を見つめている。赤い髪が風に吹かれ、さらさらと頬を撫でる。心ここにあらずといった様子で空を眺めている彼女はすごく気持ちよさげで、なんだか自由で、とても素敵だった。

 わたしはその横顔にうっとり見とれていた。だから、彼女が不意にわたしの方を振り向いたとき、この上なくうろたえてしまった。

 あたふたしているわたしに、彼女はすっと右手を差し出した。

「三年の松永京子よ。よろしくね」

 混乱気味の頭のせいで何を言われたのか一瞬理解できなかったけど、どうやら自己紹介されたのだと気付き、わたしはあわてて差し出された手を握りしめた。

「わ、わたし、河村由佳っていいます! 一年生です! どうぞ、よろしくお願いします!」

 裏返った声で答えるわたしに、彼女は優しく笑みを返してくれた。


 こうしてわたしは、松永先輩と出会った。

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