1章-2
そこには――空があった。
それは巨大な大陸が浮かんでいるわけでも、二つの月が見下ろしているわけでも、ましてや、この世のものならぬ巨大な生物が気持ちよさげに羽ばたいているわけでもない、いつでもどこでも軽く顔を上げさえすればお手軽に拝むことのできる、特筆すべきところなど何ひとつない、ごくありふれた、ただの青い空にすぎなかった。生まれて初めて瞳を開けた赤ちゃんならいざ知らず、今さらこんな当たり前の青空を目にしたところで何の感慨も湧きはしないはずだった。
だけど、わたしはこのなんてことのない空に衝撃を受けた。感動した。感激した。感嘆した。――どんな言葉をもってしても今の自分の心情を的確には説明できそうにない、それこそ言いようのない感情に襲われた。
わたしはたいして大きくもない瞳を見開き、他の景色など視界に入らなくなるほどその青空に見入っていた。
体を地上に縛り付けているすべての呪縛から解き放たれ、すーっと空の彼方へと吸い込まれてしまいそうな、そんなふわふわとした感覚に襲われる。
自分がどこに行ってしまうかわからない寄る辺なさ……。
少し怖かったけど、でも同時にそれは自由で、伸びやかで、とても気持ちがよくて――
「何そんなところでぼーっとしているの?」
だしぬけに女の人の声が耳に飛び込んできた。
襟元を乱暴に引っ張られるように無理矢理現実の世界へと引き戻されたわたしは、自分が屋上の入り口の前で棒立ちになっていることに気がついた。本当は少しだけ扉を開け、その隙間からこっそり屋上の様子を窺うつもりでいたのに、空に魅せられたせいで我を失い、扉を全開にして呆然とその場に立ちつくしてしまっていたようだ。
わたしは自分の顔が空以上に青くなるのを感じた。
声をかけてきたのは女の先生なのだと思った。クラスメイトの女子が発する耳障りなキンキン声とは違い、その声には落ち着いた大人の響きがあったから。
これからわたしはこの先生に怒られるんだ。なぜ立ち入りを禁止されている屋上にいるんだと叱責されるんだ。さてはお前は不良だなってなじられるんだ。
今更ながら屋上に来たことを後悔した。
妙な好奇心など持ったりするからいけないんだ。そんなの、全然わたしらしくないのに……。
声の感じが優しげだったので、あまりきつく叱られないことを願いながら、わたしは身を竦めて相手の反応を待ち構えた。
だけど、そんな覚悟は無意味だった。なぜなら、周囲を覆っているフェンスの前に立っていたのは先生などではなく、わたしと同じ制服を着ている女子生徒であったから。
少しほっとした。彼女が何者なのかは知らないけど、同じ違反をしている以上、わたしのことを責めたり先生に報告したりはできないはずだ。
しかしそんな浅ましい思惑は、不意に吹き抜けた一陣の風によってあえなく消し飛んでしまった。
その風は思いの外強く、わたしはたまらず髪とスカートを手で押さえた。舞い上がる砂埃が入るのを防ごうと細めた目に、学校という灰色の世界には場違いな鮮やかな色彩が飛び込んできた。
それはまるで、地平線の彼方に沈もうとしている夕陽のような、まぶしさと切なさを感じさせる赤――
それは、彼女の髪の毛だった。
手で押さえることもせず、風に吹かれるにまかせた赤い髪は、どこか異国の旗のように荒々しくはためいていた。
不良の人だ……。
わたしは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。ごくりと息を呑む。こんなことなら先生に見つかったほうがまだましだったかもしれない。
「ねえ、私の声聞こえなかった?」
赤い髪の彼女が言った。それは先ほど聞いたのと同じ大人びた声だった。
「あ……いえ、聞こえています」
待たせて相手を怒らせてはまずいと思い、わたしはあわてて返事をする。
「だったら、そこ閉めてくれないかな」彼女はストッパーがかかって開け放しになっている扉を指差す。「下がうるさいからさ」
「あ、はい」
あわてて従おうとするわたしに、彼女は待ったをかける。
「音を立てないようゆっくりとね。扉が閉まる音が下まで聞こえて、ここにいることがばれたら面倒だからさ」
「はあ……」
自分ではわたしに聞こえるような閉め方をしたくせに、人にはそうしないよう注文を付けるとはいったいどういう了見なのだろうと思いながらも、わたしは言われたとおり静かに扉を閉じていく。最後にボルトが壁を噛むかすかな音はしたものの、この程度ならたぶん下には聞こえなかったはずだ。
一仕事終えほっと息をついたところで、はたと気付く。もしかしてわたしは、自ら退路を断ってしまったのではないかということに。不良の人の言うことなんか聞かずに、一目散に開け放たれた扉から逃げ出せばよかったのに……。
己の迂闊さにわたしが愕然としていると、彼女がこちらに向かって歩いてきた。
わたしはいったい何をされるのだろう? 因縁とかつけられてしまうのだろうか? 火の点いた煙草を手の甲にぐりぐりと押し付けられたりするのだろうか? 胸ぐらを掴まれて往復ビンタをされてしまうのだろうか? それとも、もっとひどいことを――
漫画などで知っている不良のイメージが頭の中を駆けめぐり、恐怖で足がガタガタ震え出す。今からでも遅くない、逃げなきゃとは思うものの、すくんだ体はまるで自分のものではないかのように自由になってくれなかった。
ついに彼女が目の前までやって来た。わたしは固く瞳を閉じ、これからされるであろう仕打ちに備えようとした。
しかし、何も起こらなかった。どうやら彼女は、そのままわたしの横を素通りしていったようだ。
恐る恐る目を開けると、屋上の隅に鎮座しているずんぐりとした貯水タンクの前でしゃがみ込んでいる彼女の姿が見えた。タンク下の隙間に手を差し入れ、そこから幾重にも折り畳まれたビニールのようなものを取り出した。
彼女は屋上の中央まで歩いて行くと、手に持ったそれを豪快に宙に広げた。赤・黄・緑といった鮮やかな色合いの線が空の青をバックに軽やかに舞う。それはカラフルな格子柄が描かれたレジャーシートだった。彼女は広がったレジャーシートをコンクリートの床に敷くと、上履きを脱いで上がり込み、そのままごろんと寝転がった。
不良の人とレジャーシートというなんとも不釣り合いな組み合わせに、わたしは呆気にとられてしまった。
「いつまでそんなところに突っ立っているの? こっちに来なさいよ」
彼女は横になったままわたしに言った。
「あ、は、はい……」
その誘いを断ることができず、わたしは吸い込まれるように彼女のもとへと歩いていく。
「そこ、空いているから座りなさいな」
彼女はレジャーシートの空いているスペースをぽんぽんと叩く。
「失礼します……」
わたしは上履きを脱いでレジャーシートに上がると、おずおずと彼女の隣に正座した。レジャーシートを敷いているとはいえ、下は固いコンクリートだ。お世辞にも座り心地がいいとはいえなかった。
彼女は横目でわたしが座ったことを確認すると、視線を上空へとむけた。そのまま何も喋ろうとしない。その沈黙がとても息苦しく感じられ、コンクリートの床どころか針の筵にでも座っているような気分になってしまった。
気分が落ち着かず、視線をあちこちに漂わせてしまう。
コンクリートの床はところどころ亀裂が走り、そのわずかな隙間から雑草が這い出すように生えていた。網フェンスが周りをぐるりと取り囲んでいるものの、あまり高くない上に、あちこち錆び付いて綻んでしまっており、命を預けるにはいささか心許ない。野晒しになっている扉の外側は薄汚れていて、内側から見たとき以上に貧相に感じられた。――屋上は、いかにも顧みられることのない場所といったうらぶれた雰囲気を醸し出していた。
そんな殺風景な世界の中にあって、行楽気分全開の派手なレジャーシートと、その上に寝転がっている彼女の鮮やかな赤い髪はこの上なく場違いな存在だった。
さっきは光の加減で錯覚しただけなのではないかと思ったりしたものの、こうして間近でまじまじと見ても、やはり彼女の髪は赤以外の何色でもなかった。もしかすると外国の人、もしくはハーフで、赤い髪は地毛なのではとも考えたけど、顔の造型を見るかぎり生粋の日本人に間違いなさそうだ。やはりこの赤い髪は不良の証なのだろう。
そんな不良の彼女は、とびっきりの美人だった。わたしを含めた他の女子とは骨格の構造からして違うんじゃないかと思えるほど小さな顔や、すっきり通った鼻筋、利発さが窺えるきれいに整った眉、物憂げに見える長い睫毛に、切れ長で涼しげな瞳をしていた。――もしこれで長い黒髪であったなら漫画に出てくるミステリアスな美少女そのものだったけど、軽薄な赤い髪がそんな素敵なイメージを無惨にもぶち壊していた。
「ん、どうかしたの? 私の顔をじっと見て」
わたしのぶしつけな視線に気付いた彼女がこちらを振りむいた。自分の置かれている状況をわきまえず相手を品定めしていたわたしは慌てふためいてしまう。
「ご、ごめんなさい!? あなたがあまりにきれいなものだったから……」
狼狽するあまり、ついそんなことを口走ってしまった。たしかにそれは本心ではあったけど、知らない相手にいきなり言うようなことではないだろう。
彼女は一瞬きょとんとしたものの、やがてすっと目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。そういうあなたもかわいいわよ」
その言葉に、わたしは自分の顔が火照るのを感じた。
……何を動揺しているの? そんなのお世辞に決まっているでしょうが。
相手は毎日鏡で自分のきれいな顔を見ているのだ。そんな人がわたしごときを本気でかわいいだなんて思うわけないじゃない。そんな社交辞令をいちいち真に受けるほどわたしは身の程知らずではないはずだ。
きっとこの人はわたしに甘い言葉をかけて誘惑し、よからぬ道へと引き込もうと企んでいるに違いにない。気をつけないと……。
そう警戒しながらも、彼女が向けた優しい微笑みによってわたしの顔が発する熱は酷くなるいっぽうだった。オーバーヒートして冷静な判断ができなくなってしまった脳味噌は、彼女のことを「髪の色のことさえ気にしなければ、この人は大人びた雰囲気を持った優しい先輩なのかも」と錯覚してしまったようだ。
「あの……つかぬ事を伺いますけど、どうしてあなたは屋上にいるんですか?」熱に浮かされたわたしは自分から話しかけていた。「ここは生徒は立入禁止のはずなのに」
その問いに、彼女は呆れたような顔をする。
「そういうあなただって、その立入禁止の場所にいるじゃないの」
「それはそうなんですけど……。でもわたしの場合は、屋上のほうから扉の閉まる音が聞こえたものだから、それが気になって見に来ただけであって――」
「そんなの言い訳にならないよ」ぴしゃりと彼女は言った。「理由がなんであれ、ここまでやって来てしまった以上、あなたは私と同罪だよ」
「ですよね……」
まったくその通りだ。わたしには人の行いを非難できる権利などありはしない。わたしも不良の人と同様、いけない人間になってしまったのだ。
どんよりするわたしをよそに彼女は「そっか、扉を閉めた音が下に聞こえていたのか。迂闊だったな。気を付けていたつもりだったのに……」と深刻そうな顔で独り言を呟いていた。
「でも、鍵はどうしたんです?」よせばいいのに、さらにわたしは話しかけてしまう。「屋上の扉って普通、施錠されているものだと思うのですが」
「鍵? ああ、これのことね」
彼女は上半身を起こすと、制服のポケットに手を入れ、銀色の鍵を取り出した。寄木細工のキーホルダーを指で摘まれた鍵は宙でぷらぷらと揺れ、その度にいろんな角度から陽の光を反射してとてもきれいだった。
彼女が屋上に出入りできたのは鍵を持っていたからにすぎなかったわけだ。不思議なことは何もない。
でも、それならそれで気になることがある。
「これってちゃんと許可をもらって借りたものなんですか?」
屋上にかぎらず、学校で使われている鍵は職員室と用務員室で保管されており、管理責任者の許しなしには持ち出せないことになっているはずだ。失礼ながら、彼女は先生や用務員さんの許可をもらえるようには思えないのだけど。
「許可? もちろんもらったよ」当然だとばかりに答えた彼女だったけど、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべ、「もっとも、それは半年前の話だけどね」
「半年前!?」
わたしは絶句した。それってつまり、借りてからずっと返していないということなのだろうか。いくら屋上があまり使用されていないとはいえ、そんな長期間鍵が無くなっていることに誰も気がつかないだなんて、そんなことありうるのだろうか。
「別に驚かなくてもいいよ。借りたのはたしかに半年前だけど、その日のうちにちゃんと返したからさ」
「え……? じゃあ、これは――」
「これは合鍵」
「合鍵?」
「以前借りた際に、近く合鍵屋に持ち込んでスペアキーを作っておいたの。その後、マスターキーの方はちゃんと返却したから、誰も不審に思ってはいないはずだよ。以来、わたしはこの合鍵を使って度々屋上に足を運んでは、こうしてのんびり寝転がっているというわけ」
そう言うと、彼女は〝不敵〟という単語がよく似合う笑みを浮かべた。
わたしは二の句が継げなくなってしまった。髪を赤く染めているだけでなく、学校の鍵を無断で複製し、レジャーシートを持ち込んで立ち入りが禁止されている屋上に出入りしたり……。
つい気を許しかけたけれど、やはりこの人は垣根なしの不良だ。――改めてそう実感した。
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