結
透明な湯に浸かりながら、小幸はふと、己の躰を見下ろした。
余分な肉の無い均整の取れた体躯。
染み一つない透き通った膚。
しなやかに伸びる細やかな肢体。
それらは全て神に見初められるために在る純潔と無垢の体現だ。
可憐と美を同居させたその容姿はけれど、唐突に価値を失ってしまった。白く柔らかい肌を撫でる。ほんの少しのくすぐったさを伴って感じられたのは、人ではないものを思わす冷たさであった。
「……こんな風になっておいて、今さらどうしろって言うんだろ……」
ぽつりと零れた呟きは、浴室に小さく反響してやがて水面に落ちた。
とうにぬるま湯で満たされつつある湯船の中で、おもむろに膝を抱え込む。こうして穏やかな時間の流れに身を任せていると、記憶に新しい燎の者達との一件がまるで夢であったかのように思えてしまう。しかしそれは甘く拙い理想だ。片腕を喪った衛正の姿を脳裏に思い起こし、小幸は膝を抱く腕に自然と力を込めた。
「――、」
己の右手を見つめる。どう力んだところで何も起きはしない。
……自らの無力を嘆き、大切な者を救う術を求めて〝もう一人の自分〟に強く願った瞬間があった。
その願いが届いた結果として、神の巫としての意識が顕在化したのかは分からない。あの瞬間を切欠に自分の中で何かが変わったと言う自覚もなく、己の意思では神力が扱えない点も以前とは変わらない。
だが、それで良いのかも知れないと小幸は思った。
巫の少女が持つ神秘の力は人の手に余る超常の代物、使えばそれだけ人から遠ざかるとされている埒外の御業だ。もしも自由に扱うことが出来て、しかしそれが原因で自分が人でなくなる恐怖をこれ以上味わうのならば、この制約に溢れた現状のままで構わないと思う。
「……そういえば」
そこでふと、この皇国に存在する他の巫は、自身の持つ力とどう折り合いを付けているのか小幸は気になった。
自身の他に四名存在すると言われている巫の少女。
その中の誰かは、もしかすれば一昨日の神喚の夜に神供としての末路を迎えてしまったのかも知れない。
もしもそのような者がいたとして、その少女は己の境遇を受け入れたままに御役目を全う出来ただろうか。
――否、と小幸は首を横に振った。
神々の孤が満ちる冷たい暗闇の中で、彼女は感じたのだ。
あの世界を満たす泥濘の闇は、神が感じている絶対の孤独であると同時に、四百年と言う歳月の中で流され続けてきた神巫達の涙であるのだと。
巫の資質を持った少女はどの代にも必ず生まれてくると、かつて衛正に聞いたことがあった。まるで、贄として捧げられたことで消えた神供を補完するかの如く、神巫の系譜が途絶えることは決してない。
神聖皇国ハワグが神の恩寵に守られ、奇跡を希う人々の心で満ちている以上、あの闇は際限なく広がり続けるだろう。
自身の抱いていた苦悩や悲嘆もまた、あれを形成している要因の一つなのだと改めて理解して、小幸は瞳を伏せた。
(……この先も、神巫と言う奇跡の象徴は在り続ける。神に祈るハワグの気風が変わらない限り、どれだけの年月が経とうとも、私と同じような苦悩に苛まれる女の子は際限なく生まれてくる……)
衛正は言っていた。ハワグの民が奇跡に縋るのは、人々の心が弱いからではなく、謂わばそれが皇国の不文律になっているからであると。
超常の存在が寄り添うこの国は、他の諸外国と比べて奇跡や神秘と言うものが身近にある。
その事実が今の気風を形作るのは、当然の帰結だろう。
(……それでも)
それでも。
その常識は決して、歴史の裏で多くの少女たちが苦しみを堪え、涙を流してきた免罪符にはなり得ない。
誰よりも純真で、誰よりも健気に人のことを想える巫の少女達が消えゆくしかない今のハワグは、やはり何処か歪で、捩じれているように思えた。
(だとしても、私にはどうすることも……)
ただ一人の少女として起きてほしいと、衛正に言われた。他の何者でもない、だが他の者達と何ら変わらぬ普遍の日々を送ってほしいのだと。
そしてその望みは、ある美しい神から託されたものだとも。
紡がれ続けてゆく歴史の中で生まれるであろう巫の少女達の安寧を願った際、重なった声があった。
鈴の音の如く清廉で、聞く者にぬくもりを宿すような、そんな声音だった。あれは一体何だったのだろうと考えるが、不思議と記憶は朧に霞んでゆく。
けれど確かなものとして耳に残っているあの嘆願に、小幸は神としての慈愛を見た。
「……自分の幸せのために、か……」
零れた言葉に答えはなく、行き場のない疑問は絶えず巡り続ける。
すぐに結論を出せるようなものではないだろう。もしかしたら、答えなど見つからないのかも知れない。
それでも今の自分にとって最良の選択をするのならば、それは何であるか。
続く言葉は漠然と、けれど確かに、少女の中に存在した。
◆ ◇ ◆ ◇
それからひと月ほどは、衛正の屋敷で穏やかに流れゆく日々を過ごした。
神供として様々なことを強いられていた頃とは異なり、ただの少女として謳歌する一日一日はだが、小幸にとって非常に不慣れなものであった。
屋敷仕えの下女があれこれ世話を焼いてくれる点は変わらないものの、一人としての気儘な時間が途端に増えたからだ。
これまでは神儒舞の稽古や禊に充てていた時間が丸ごと空いてしまったが為に、寧ろ暇を持て余してしまう始末だった。
初めの内は一人で街の店々を見て回ることが多かったが、それも数日繰り返せば新鮮味も薄れてしまう。
なので、次は下女の人達の仕事を手伝うことにした。
最初は、小幸に仕事をさせては我々の面目が立たないと訴える下女の者達から酷く遠慮されたが、衛正の提言もあってか簡単な仕事ならばさせてもらえるようになった。
何事もそつなくこなす能力のあった小幸にしてみれば、経験のなかった料理や掃除と言ったものですら、少し教わるだけで相応の腕前を発揮できた。
そんなこともあり、衛正や鴛花と共にする食事に小幸手製のものが出るようになるまで、そう時間は掛からなかった。
「小幸の料理を食す日が来るなど、夢にも思わなかったな」
「小幸様には才能があるのかも知れませんね。皇都の料亭にも劣らぬ味です」
そう言って微笑みながら自らの作ったものを堪能してくれる衛正と鴛花を見て、けれど小幸はその都度、胸中に小さな痛みが走るのを感じていた。
自分を見る二人の目に、いつしか親としての愛が覗くようになっていたから。
子を見守る親の瞳。だがそれは空想の代物だ。子を成すと言う望みを神に祈り続け、けれどその奇跡の行方を唐突に失ってしまった者達が抱く、誤った互換の末に見出してしまった偽りの妄想だ。
私はあなた達の子ではない。
自分達が抱き続けた願いを、安易に杜撰に、私に重ね合わせては駄目だ。
何度もそう言おうとした。
けれど言えなかった。
自らを見つめる彼等の顔が、何処までも幸せそうに見えてしまっていたから。
だが模糊なる理想の果てに行き着くのは、現実との乖離によって生じる懊悩の沼であろう。
だからこそ、差し向けられたこの理想は切り捨てなければならない。
それもまた、神の国に生きる者が持つべき情と誠実なのだろうから。
故に少女は決断を下した。
他でもない彼等のために、彼等の許から去るという決断を。
◆ ◇ ◆ ◇
「本当に一人で大丈夫なのか?」
全ての説明をして、その全てを受け入れてもらうのに、少しだけ時間を要した。
あの血生臭い月夜の出来事からひと月以上が経過した、その末の頃。
屋敷の前に停まった馬車の荷台に自らの荷物を運び入れていた小幸は、唐突にそう言われて振り返った。
「問題ありません。目的の街まではまっすぐ進んでくださるとのことなので」
「そうではない。この街を出て、たった一人で暮らすことを案じているのだ」
門前で鴛花を並んで立つ衛正は、眉間にしわを寄せてそう言った。
自身の決意を打ち明けて以降、同じような問いを何度も彼は口にしてきた。だがそれは、かつて神巫としての覚悟を問うてきた時とは違う。その言葉裏に小幸自身を心配する心があることを、少女は知っている。
「それも大丈夫です。まったく伝手が無いという訳でもありませんし」
三者の傍らでは、御者の男が残りの荷物を積んでくれている。元々小幸の私物と言えるようなものは多くなく、大抵が衣類や化粧道具と言ったもので、それですら衛正によって与えられたものが殆どであった。
可憐な貌に微笑みを浮かべてそれらを見送る小幸を、衛正と鴛花は胸中を覆い隠した表情で以て見つめていた。
脳裏に巡るのは当然、十年もの歳月の中で共に時間を過ごしてきた小幸との記憶であろう。
だがそれらに思いを馳せることはしない。
自分達にはその資格が無いことを理解しているからだ。
「……くれぐれも、お身体にはお気を付け下さいね」
小幸に一歩だけ近付いて、鴛花はそう告げた。
「ひとまずは、郭乃を目指すのでしたか?」
「はい、そちらに母の知己がいますので、暫くはそちらを頼りにさせて頂くつもりです」
それに、と。
少しだけ緯線を下に落として、小幸は続けた。
「あの街は皇都と程近い距離にありますから。
「……そうですか。何はともかく、お怪我だけはなさらないでください」
その言葉に小幸は頷く。
衛正から聞いた話では、燎一族との一件で重傷を負った靖央は、皇都で名を馳せる医師の許へと運ばれたのだそうだ。
辺境の街に過ぎないこの江鷹には彼を処置出来る町医はいなかったのだろう。ただ何にせよ、幼馴染の少年が無事と聞いて安堵の息を吐いたものだ。
加えて、近迦で捕縛されていた彼の両親もまた、江鷹の家を引き払って皇都へ居を移したらしい。靖央の療養を身近で見守る為なのだろう。このひと月の間に靖央の生家へ足を運んだことがあったが、確かにそこは無人の家屋と化していた。
無事ならばそれでいい。
他には何も望まない。全てが落ち着いたときに、皇都見物も兼ねて彼の見舞いに行こうと彼女は考えた。
「――小幸」
鴛花の横合いから、衛正が歩み出た。
彼は左手に
「馬車の中か、郭乃に着いたら読みなさい。伝えるべきかどうか迷ったが………お前についてのことを、ここに記しまとめてある。読んだ後のことは、全てお前の判断に任せる」
「私のこと、ですか?」
首を傾げながらその文を受け取る。
中に何が書かれているのか皆目見当もつかないが、衛正の言葉に従い、ひとまずはそれを着物の内側にしまい込んだ。
その動作を見止めてから、青年は一つ息を吐いて小幸の貌を正面から捉えた。
「……そろそろ、行かねばならぬだろう」
言葉を合図として、衛正と鴛花は一歩、少女から距離を取った。
ほんの僅かな後退に、けれど小幸の貌は寥々とした色を浮かべる。たった数歩踏み出せば埋まる距離がこの瞬間、決して超えてはならぬ隔絶の壁を思わせた。その不可視の壁に、少女は胸が締め付けられる感覚を味わった。
それを人は、別れと呼ぶのだろう。
自分達の関係に、離別に際しての言葉や触れ合いは必要ない。全てを笑顔で終わらせることが出来るほど、築かれた関係は尊いものではなかったが故に。
だからこそ、何も口にしない。
交わす瞳が、唯一の手向けだろう。
小幸は浅く頭を下げた。十年と言う歳月を共にした記憶が、刹那、彼女の肩に圧し掛かった気がした。
やがて。
少女は踵を返して、馬車へと乗り込む。
振り返ることはない。
胸中の尽くを置き去って、その末に少女は進むことを誓ったのだから。
後を引く思いを乗せ、そうして吐かれた息は――――少女の寂寞を孕んでか、いつかの時よりも白く棚引いて見えた。
◆ ◇ ◆ ◇
◆ ◇ ◆ ◇
「……よろしかったのですか、衛正様」
ふと、鴛花は訊ねた。
「何がだ? 小幸を引き留めることなくあっさり見送ったことか」
「いいえ、そうではありません。お分かりの筈でしょう」
痛みを堪えるかのように細められた目。
どこか責めるようなその声に、衛正は傍らの女を見下ろした。
「あなた様がつかれた嘘は、いずれ小幸様を破綻に導きます」
「分かっているとも」
端的な返答があった。
だが、と。
青年は続く言葉を口にする。
「その破滅が小幸に追いつくよりも早く、彼女自身が強くなってくれることを私は願うだけだ」
両者の視線は交わらない。
二人だけにしか分かり得ない会話が淡々と流れる。
青年が少女についたと言う嘘。
その内辺を知る者は当然の如く、彼等のみである。
二人の視線の先で、少女を乗せた馬車がついに見えなくなりつつあった。
その姿を最後まで見送りながら、衛正はふと、こびり付いて離れない一つに記憶に意識を忍ばせる。
この記憶は恐らく、今後一生、彼の中に付き纏うのだろう。
けれどその覚悟は、とうに出来ていた。
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