たった一人の少女

 いくら幾度と無く経験があるとしても、目が覚めたときに自らが裸体であれば誰であれ驚き、羞恥を抱くだろう。

 布団を捲る。白く柔らかい肌を晒す自身の躰を黒い瞳で以て見下ろした小幸は、そんなことを思った末に薄く息を吐いた。

 すぐ傍らには、やはり鴛花の姿もある。同性でも見惚れる美しさを持つ彼女もまた一糸纏わぬ姿であり、均整の取れた肢体は小幸を包み込むように寄り添った状態で横たえられていた。神の巫としての意識が顕現した後は決まって昏睡状態に陥るが、その度に昔から何度もこうして人肌の熱で介抱してくれている女性に、小幸はいつものように小さな声で感謝を述べた。

 掛布団を取り払い、未だ眠りに就く鴛花に優しく掛け直してから、小幸は裸身のままに立ち上がる。障子の隙間から差し込む光の加減を見るに今は朝方なのだろうが、早朝特有の澄んだ冷気は感じられない。それは自らの身体が限りなく低温になっているが故であると即座に判じて、少女は己の滑らかな柔肌をそっと掻き抱いた。


「……あれ? これ……」


 適当に襦袢を羽織ろうと衣装箪笥に寄ろうとした小幸の視線が、部屋の隅にポツンと置かれているお盆を捉えた。黒漆が美しいそれの上には白磁の器があり、冷粥のようなものが盛られている。儀が近付いた小幸は食物の一切を口に出来ないため、恐らくは鴛花に対して差し入れられたものなのだろう。

 そう結論付けて箪笥から白の肌襦袢を取り出し―――ふと、一つの疑念を抱いた。


「―――、」


 彼女の脳裏に〝最後〟の記憶が浮上する。胸の中央から止め処なく血を流し、いつ死んでしまうかも分からない少年の姿。彼に背を向けて歩む己の頬に、見えない涙が零れ落ちたのを感じたその瞬間から、少女の記憶は途絶えている。

 あれからどうなったのか。

 靖央は無事なのか。

 ……それ以前に、自分はどれだけの時間、眠っていたのか。

 素早く襦袢を羽織り、眠っている鴛花を気遣う余裕もなく部屋を飛び出す。開け放たれた障子の音に、庭の植木に止まっていた数羽の小鳥が一斉に飛び立った。澄み切った朝の空気を孕んだ風に小幸の黒髪が靡き、はらりと舞い落ちる。清冽な気を一つ吸い込んで誰か家の者を呼びつけようとした彼女は―――踏み出しかけた廊下の行く先に、一人の青年が立っているのを見止めた。

 その身に深緑の羽織を纏う衛正は、少女の姿を捉えるなりゆったりとした足取りで近付いてくる。薄い布一枚を羽織っただけの小幸は、襦袢の裾から白皙の柔肌を無防備に晒していることなど気にも留めず、迎えるように青年へと駆け寄った。


「衛正様……! あのっ、その……!」

「小幸」


 慌てる様子を見せる小幸に反して衛正はどこまでも落ち着いていた。発された声も決して威圧的なものではなく、どこか優し気な熱を宿しているように思えた。


「目が覚めたようで良かった。身体に異変はないか?」

「あ、はいっ……」

「それは何よりだ。取り敢えず、風邪を引かないようきちんと着替えてきなさい。新しい着物は箪笥に入れてある」


 そう告げるなり、衛正は踵を返して去ってゆく。

 遠退く広い背中に数瞬思考を停止させた小幸は、だがすぐさま我に返ると、廊下の曲がり角に消えつつあった青年の後ろ姿に声を飛ばした。


「あのっ、衛生様! 私はあれからどうなって……!」


 切迫した問いに衛正の歩みが止まる。応じる言葉はすぐに来ない。朝露を含んだ冷たい空気が満ちる中、耳鳴りがするほどの静謐が二人の間に流れる。

 やがて半身だけを振り返った青年はその整った貌に感情の窺えぬ不可解な色を浮かべて、そうして静かに口を開いた。


「お前が急く気持ちは分かる。心配せずとも全てをきちんと話すつもりだ。……着替えたら大広間に来なさい」


 穏やかに響く声を残し、衛正は今度こそ廊下の角へと消えていった。

 後に残ったのは、小幸の僅かに上ずった呼気と―――正体の掴めぬ嫌な不安感だけであった。




 白く染め抜かれた縮緬の着物に薄青の帯を締め、黒柘植の簪で髪を結い上げた姿の小幸は、胸中の靄を抱えたままに大広間へとやって来た。夕食時などではいつも下女が障子を開ける役割を担ってくれているのだが、今日に限っては見慣れた女性たちの姿が見当たらない。

 嫌に静けさのある廊下を過ぎて広間の障子を開ければ、先日と変わらぬ場所に衛正は座していた。

 青年は身なりを整えて現れた少女を一瞥すると、傍へ来るよう促した。上座の位置に座る衛正のはすに腰を下ろした小幸の前に、彼自らが淹れたと思われるお茶が出される。僅かな濁りだけが漂う白茶に驚いたような視線を注ぐ小幸を見てか、衛正の口から軽い咳払いが零れた。


「まぁ、鴛花の腕には及ばないだろうがな」


 そう言って顔を逸らし、自身の湯飲みに口を付ける。その姿は小幸の記憶に擦り付けられた衛正の像とはどこかかけ離れており、ほんの僅か、気まずさを孕んだ沈黙が広間の中に満ちた。

 その空隙を埋めるように小幸もまた白茶の注がれた茶碗を手に取り、ゆっくりと味わうように傾ける。衛正が慣れぬ腕で淹れたらしい茶は、確かにいつも夕餉の際に出されるものと比べて僅かに薄い味わいがした。


「……まずは、事の顛末を話そうと思う」


 陶器が卓上に戻されたのを切欠にそう言われ、小幸は居住まいを正す。真剣な面持ちを向けてくる少女を衛正はほんの一瞬だけ見やってから、浅い息と共にゆっくりと口を開いた。

 ――あの月夜に起きた一連の出来事は、小幸が意識を失って昏睡している間に終息を迎えたらしい。

 そして案の定と言うべきか、事態の全てを終わらせたのは神の巫としての意識を顕現させた小幸であったらしい。あろうことに燎一族の長である燎祗までもが現れ、現場に駆け付けた衛正は死の危険に瀕したが、寸でのところで小幸の意識層が変じて事なきを得たとのことだ。

 衛正の語りを聞いている最中、青年の着物……その右の袖が中身を喪っているかの如くひらひらと揺らめいているのを小幸は見た。無言のままに息を呑む。そしてその原因が事態に彼を巻き込んだ己にあるのだと思い、小幸はそっと瞼を伏せた。


「お前が気にすることはない」


 少女の胸中を悟ったのか、衛正の口から落ち着いた声音が吐かれた。


「お前が助けてくれなければ私は今頃死んでいた。戦いの最中、この腕も含めて身体の傷が全て塞がった瞬間があったが、いま思い返せばあれはお前が私たちを守ってくれていたのだろうな」

「……ですが、一度喪ってしまった腕は、もう……」


 揺れて零れる言葉は今にも消え入りそうなほどだった。

 全ては夢の中で起きた出来事に過ぎないのだと、そんな不確定の楽観が何処かにあった。靖央に連れられて屋敷を出て、燎一族の男による襲撃を受け、その者の手によって泣き喚きたいほどの悲劇を見せられ。そうして次に目を覚ませば全ては終結していたのだから、そう思うのも無理はないだろう。

 けれど腕を喪い着物の袖を揺らめかせる衛正の姿に、自らの抱いていたものは甘い夢の如き希望だったのだと改めて思い知らされた。青年の外見には小さな傷すら一切として見受けられない。それでも片腕を喪失したその姿は、小幸にあの夜がどれほどの惨状であったのかを否が応でも理解させた。

 頭を下げて謝ろうとした少女の肩に、少しだけ腰を上げた衛正の手が触れた。


「腕の一本など易いものだ。お前が無事でいてくれたのだから、それ以上を望むのは傲慢と言うものだ」


 気慰みではなく、本心からそう言っているのだと分かる声音に小幸は瞳を震わせながら青年を見た。衛正の貌に笑みは無い。それでもゆっくりと頷いたその顔は険が取れたように穏やかで、小幸にこれ以上の自責を感じさせない為の配慮が伺えた。

 姿勢を戻して彼に向き直る。幼い頃から何度も見てきた端麗な貌が視線の先に映る。神巫としての覚悟と厳しさを常に問うてきた男の顔を、小幸はこのとき、初めて正面から見据えたような気がした。

 何故だろうと思い―――直後、彼の顔を見るのが嫌だったからなのだと悟る。

 神巫の責務から逃れたいと言う願望を小幸はずっと心の内に抱え続けてきた。けれど自分の心を騙し、人として当たり前の望みにすら蓋をして。そうして自分を捨てて巫の御役目を全うしようと尽くしてきたのだ。

 そして。

 その苦渋を小幸に与えていたのは他でもないこの青年であった。現況から逃れたいのに、この青年がそれを許さなかった。だから小幸は彼の顔を見るのが嫌だったのだ。神巫として背負うべき重責と覚悟を、常に植え付けてくる存在だったから。

 だが今は衛正の貌をちゃんと見据えることが出来る。それは彼の瞳に、小幸が昔からずっと感じ続けていた威圧のようなものが無い為だろうか。改めて見る青年の双眸は翠玉の如き澄んだ色を宿していた。記憶の中にある燎儀の泥濘を孕んだ虚の瞳とは違う。それを小幸は、ほんの少しだけ綺麗だと感じた。

 ……その瞳が、ほんの少しだけ揺らめいた気がした。


「小幸」


 青年が少女の名を呼ぶ。決して逸れる事なく真っすぐに向けられる視線に、小幸は思わず全身に緊張を走らせた。

 佇まいを直した少女を見る衛正は静かに口を開こうとして……けれど言い淀んだように口を噤むという動作を何度か繰り返した。その最中に目線が落ちる。卓上の湯飲みを見下ろした彼は、白茶の薄い濁りを見つめたままにようやく言を発した。


「―――もしもだ。もしもお前が成人することが出来たら、何かしたいことはあるか?」

「……え?」


 脈絡のない問いかけに、小幸は小さく瞠目した。言葉の意味が分からず衛正を見るが、僅かに瞼を伏せた青年は無感情に湯呑みを見つめるばかり。交わらない視線が沈むような静寂を生んだ。おおよそ数秒かけて衛正の問いを嚥下した小幸の瞳が、同じように湯呑みへと落ちる。


「……考えたこともありません」

「なら考えてみなさい」


 短い言葉の応酬。再びの沈黙が広間に満ちた。

 ……神の巫としての素質を見出されたのが齢七の頃。この屋敷で住み始め、自身の存在価値を教えられたのは齢十の頃だった。その時点で、七年後に来る神喚の夜に己が神への贄として捧げられることを知り、毎晩泣き喚いた記憶がある。

 少しずつ死に近づいてゆく感覚は、子供ながらに……否、子供だったからこそ怖くて堪らなかった。

 毎夜毎夜ひたすらに泣き続け。そうして泣き疲れて眠る当時の暮らしは、小幸の精神に否が応でも神巫としての宿命を刷り付けた。

 自分は一七歳のある夜に死ぬ。自分の人生はそこで終わる。

 その事実が、年頃の少女であれば誰であれ抱くであろう将来の願望すら彼女に与えなかった。

 故に、衛正の問いに小幸は答えられない。何故ならば、そのようなことを夢想したところで何ら意味は無いのだから。

 ―――その筈だった。

 不意に、広間の外に人の気配が現れた。音もなく障子が開かれ、質素な着物に身を包んだ下女が何やら器を乗せたお盆を持って入ってくる。


「お待たせしました、衛正様」


 下女は青年の許まで寄ると、卓上へとお盆を置いた。先ほど小幸の自室に置かれていたものに似た陶器には湯気の立つ汁物のようなものが入っており、仄かに漂ってくる良い香りが小幸の鼻孔を擽った。

 一切の足音を立てることなく部屋から去りかけた下女へと、衛正は落ち着いた声を掛けた。


「朝だけとは言え無理を言ってすまない。あとはもう大丈夫だ」

「かしこまりました」


 浅く腰を折ってそう言った彼女は今度こそ広間から出ていった。障子が最後まで締まり切るのを待ってから小幸に向き直った衛正が、下女の持ってきた椀を彼女の前へと滑らせた。


「腹が空いているだろう。ゆっくりでいいから食べなさい」

「えっ……いえ、ですが食事は……」


 差し出された椀には小さく切られた野菜や豆腐の入った吸い物がよそわれていた。透き通った出汁からは優しい香りが立ち昇り、小幸にほんの少しの空腹を感じさせる。

 けれど今の自分は断食の最中である。いくら汁物と言えど決して口にしてはならない筈だ。そのことを衛正が理解していない訳がないだろう――そう思って青年へと向いた小幸は、だが直後に告げられた言葉に息を詰まらせた。


「お前はもう神供の御役目から解放された。だからもう断食は必要はない」

「――――、」


 今度こそ、小幸は声を失った。

 瞬きすら忘れて青年の顔を凝視する。耳にした言葉を理解出来なくて固まる少女を、衛正もまた決して視線を逸らすことなく見据えていた。自らの発した言葉が偽りでないことを理解させるために、翠玉の瞳に真摯の色を込めてひたすらに見つめる。それが今の己が少女に対して見せることの出来る最大の誠実であると、そう衛正は思ったからだ。

 しばらく、静謐の時間が流れた。あるいはそれは、たった数秒ほどの時間であったのかも知れない。あるいはそれは、半刻をとうに過ぎるほどの時間であったのかも知れない。何にせよ、ただ無音の中で過ぎ去った時間の最後に、ぽつりと零れる声があった。


「……どうしてですか」


 掠れて消えかけた弱い声音。黒く澄んだ瞳がけぶるように揺れる。

 短い問掛けは如何な事実に対して投げられたものか。少女の胸中を隅に至るまで把握することは出来ない青年にとって、それは与り知らぬ疑問である。ただ何にせよ、応じる言葉は既に彼の中にあった。


「神喚の夜はとうに過ぎているからな。一連の騒動が収束して、既に三日が経過している。あれだけ力を使っていたにも関わらず、昏睡状態がたった三日であったのは驚いた」

「………私が意識を喪っていたとしても、儀を行う上で何ら問題はない筈です。なのにどうしてわざわざ儀式の夜を見送ったりしたのですか」


 はぐらかすような衛正の言葉に、小幸は何かに冒されたように意識を浮つかせて言った。


「私が衛正様のお言いつけを破って屋敷を抜け出したからですか? 衛正様からいつも覚悟を問われてきたのに、本当は何も心に決められていなかったからですか? そんな不安定で曖昧な心を持っていた私が神巫として……神供として相応しくなかったからですか?」

「……、」

「もしや私が意識を喪っている間、燎の者に処女を奪われでもしましたか? 巫の少女がどれだけ清廉な心を持っていようと、純潔でなければ神は見初めて下さらないですものね……申し訳ありません。全ては私が衛正様のお言葉に背いたばかりに――」

「違う」


 強くも弱くもない声で青年は小幸の言葉を遮った。低くて静かな言に少女は口を閉ざす。茫洋と虚空を見据える瞳が焦点を移し、衛正を見据えた。

 感覚が麻痺したような表情を浮かべる彼女に青年は努めて穏やかな声で続ける。


「小幸、お前は何も悪くない。確かに眠り続けているお前を神供として捧げ、神儀を執り行うことは出来たかも知れない。だがそれを行わなかったのは私自身の選択だ。私と、鴛花の二人で話し合って決めたことなのだ」

「どうしてですか」


 先ほどと同じ問いを、少女は口にした。


「お二人は私を贄にして神々を招聘し、絶えず抱き続けてきた願いを聞き届けて貰うことを何よりも望んでいた筈です。その望みを現実のものとする為に、私を神供として育ててきたのでしょう? なのに、どうして儀式の夜を見過ごしたりなどしたのです。衛正様がご自身で仰っていましたよね、この機を逃せば次は六〇年後になると」

「……そうだな」

「ずっと待ち続けてきたのですよね? お二人の願い……衛生様と鴛花様の間に子を成すという願いを果たす為に。だからこそ幼い頃の私をこのお屋敷に引き取り、神巫としての厳しさを強いて、清純で無垢なる神供になるよう育ててきたのですよね? その十年と言う歳月を、何故こうも簡単に放棄してしまわれたのです。衛正様が渇望し、常に最上の願望として抱き続けてきた悲願と言うのは、それほどまでに軽々しく、浅く、薄っぺらなものだったのですか‼」


 切なる感情の籠った声が広間に響いた。一度決壊した岩垣から波浪が絶え間なく流れ込むかのように、小幸の口から絞り出すような何かが迸る。

 現況を全て理解した訳ではない。それでも衛正から告げられた言葉が、少女の心裡に溜り続けてきたありとあらゆる負と泥濘の感情の蓋を一瞬にして取り去った。十年もの月日の中で苦悩や葛藤、悲嘆、懊悩を積み重ねてきた小幸の精神は、あと一滴でも雫を垂らせばそれだけで溢れ出してしまう甕の如く、余剰な領域をとうに喪失している。

 それを衛正も十分に理解しているからこそ、叫ぶ少女に沈痛な面持ちを返すしかなく。


「……頼まれたのだ」


 やがて小さな呟きがあった。


「ある美しい神に」


 その言に、小幸は薄く怪訝な表情を浮かべた。

 細められた黒瞳の先で男の静謐な声が続く。


「神巫の宿命に苛まれ続けてきたお前を、他の何者でもないたった一人の少女にしてほしいのだと。お前にとって、ただ一つの倖せを得るその為に」

「……私の、ただ一つの倖せ?」


 小幸の口が独りでに動き、その言葉を反芻する。だが直後に少女は何か細い糸で吊られるような弱々しい動作で首を横に振った。


「……それは違います、衛正様。それは私にとっての、ただ一つの倖せなどではありません」


 艶を蓄えた長い睫毛を震わせながら、小幸は言う。


「私にとっての倖せとは、衛正様と鴛花様の願いを叶える為の神供として神にこの身を捧げること―――ただそれだけなのですから」

「違う。……違うんだよ、小幸」


 そこで初めて。

 小幸の目の前で、衛正の言葉遣いや物腰から厳格さや峻峭さと言ったものが取り払われたような気がした。

 整った貌を僅かに歪ませ、翠玉の双眸を震わせながら小幸を見据える衛正は、一言一言を噛み締めるように言葉を連ねた。


「そんなものは齢一七の少女が抱いていい望みではない。お前は本当なら、全くの赤の他人でしかない私達の為に身を賭す必要なんてないんだから」


 自らを顧みる行為は、過去の己と対峙することに他ならない。

 小幸を見つめて言葉を紡ぐ衛正は、自身の吐いているものがどれほど軽く薄い代物であるかを嫌と言うほどに自覚していた。


「……私はな」


 それでも、と。

 己の胸中を苦しめる嫌悪に逆らいながら、


「ひたすらに目を背けてきたんだ」


 青年は少女に訴える。


「お前の心の裡から……自身が押し付けていたものの重みから」


 そうして身体ごと小幸の方を向き、揺らぎ続ける少女の瞳と真正面から臨む。

 ―――人が神と相対するならば、その者は心の全てを誠実で染める。それはハワグに生きる者であれば誰であれ尽くさなければならない神に対する返礼としての行為だ。その本質を知るに至った青年は、未だ何をも知らぬであろう目の前の少女に向けて、静かに、深く頭を下げた。


「……すまなかった。お前が神供の責務から逃げたいと思っていることに、私達はずっと気付いていた。気付いていながらに、それでも自身の願を優先していた」


 深い悔恨を覗かせる声が小幸を僅かに瞠目させる。硬直した視線の先で、男の静謐な声が続く。


「だがこれからは、お前自身の望みの為に生きてほしい。何にも縛られることなく、何をも強いられることなく。……謂わばそれが、今の私達にとっての最上の願望なのだから」


 かつて。

 ここではない何処かの世界で、神の孤独に包まれながら小幸は願った。

 悲惨を極めた神巫という宿命の中に生きる少女たちを想い、出来る事ならばその宿命に縛られず、自分の幸福の為に生きてほしいと。

 それと全く同じことを、衛正は小幸に言った。

 だけれど小幸は自身の幸福とは何であるかを知らない。彼女の生きてきた過程に、そんなものを考える余地など無かったから。

 故に衛正の言葉には答えられない。

 まるで心に大きな穴が穿たれたかの如き空虚な感覚が嫌に冷たい風となって胸中を吹き抜けた気がした。無意識に己の胸へと手をやり、着物の上からぎゅっと握り込む。


「……私自身の、望み……」


 無意識に呟けど、答えは自らの何処にも無い。己の人生は己の責任で謳歌すると言う普遍的で当たり前な、誰もが平等に持っている権利をも小幸には無かったが故に。

 揺らめく双眸を押し留めて視線を上げる。翠玉に煌めく光の奥に慈しみの念を覗かせて見つめてくる青年へと、ぽつりと零すように問うた。


「……お二人は、どうなさるのですか」


 その言葉を受けて、衛正が不意に片眉を吊り上げた。


「私たちか?」

「子を成すと言う願いを、本当に捨ててしまって宜しいのですか……?」


 窺うような問いに衛正は沈黙し、だがすぐ後に微苦笑を見せると瞼を伏せながらに応じた。


「……確かに、ハワグの民であればここで全てを投げ打つのだろう。奇跡に縋り神秘を欲するこの国の人間は、切望した神変が己の手許には来ないと知れば途端に願いの尽くを棄却する。それは皇国に生きる者の心が弱いからではなく、そういうものだと植え付けられてきたからなのだと思う訳だが」

「……、」

「だがな、小幸。私は皇国を覆う奇跡が決して清らかな代物ではないことを知らされた。それで神々に対する信仰が消える訳もないが、これまで奇跡に縋るその努力しかしてこなかった己を、ほんの少しだけ顧みた」


 瞼を伏せていながらに、青年の瞳は翳を帯びることなく定まっていた。


「きっと、神々に希うその心は決して捨てられないと思う。それでも、一人の少女の命を切り捨ててまで得られる幸福には、手を伸ばさないと決めた。例えハワグが多くの人身御供によって歴史を紡いできたにせよ、その史実が形作る気風には流されないようにしようと決めたのだ」


 そこまで言ってから、衛正は翠玉の瞳を持ち上げて小幸へと向ける。

 険の無い微笑を口元に覗かせ、歪でありながらも十年と言う歳月を一心に注ぎ込んできた少女に向けて、努めて優しい声音で続けた。


「だからお前が気にすることは何もない。例えそれが如何な道であろうと、お前はお前の選んだ道程を歩んでほしい。そうして下された選択こそが、私達がお前に出来る唯一の贖罪ともなるのだから」


 それだけを告げて、男はおもむろに立ち上がった。彼の動きに合わせて揺れる中身の無い袖に、小幸は嫌な虚しさを抱く。過ぎ去るものを見送る際の締め付けられるような虚しさだった。不意に感じたその寂寞が、沈むような静謐が染み込む広間を横切り部屋を後にしようとした男の名を反射的に呼ばせた。


「衛正様」


 掛けられた声に、青年ははたと立ち止まる。半身だけを振り向かせ、穏やかな瞳を小幸へと差し向ける。


「どうした?」

「あっ……いえ、その……」


 続く言葉は見当たらなかった。思わず視線を外して俯いてしまう。自らの心の機微に従って口にしたものの、ただそれだけだった。一抹の気まずさを孕んだ空気がゆったりと流れる。

 だが、ふと。

 最も聞きたくて、けれど何故か今の今まで意識の外から外れていた問いが途端に脳裏へと浮上した。

 ばっと顔を上げ、少しだけ驚いたような顔を見せる衛正へと小幸は訊ねる。


「―――靖央は無事なのですか?」


 その。

 言葉を聞いた衛正の貌が数瞬、強張った。それは傍目から見ただけでは決して悟れぬほどの些細な硬直。当然、小幸はそれに気付かなかった。

 投げられた問いに幾許かの沈黙を置いた衛正は、己を見上げる少女の清廉で無垢なる容貌を見据えながら。

 そうして応じる言葉を、口にした。


「……よく聞いてくれ、小幸。あの少年は―――」

 

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