第86話 二年孟夏 苦菜秀でる 5



 翌朝、窓から差し込む陽の光で目覚めた月季は、暫くの間、ぼんやりと精緻な飾り彫が施された天井を見上げていた。清々しい朝の光と対照的に、昨夜呑み過ぎたせいで頭と身体がどんよりと重い。

 こめかみを押さえながら身体を引き起こすと、昨夜の自分の姿が頭をよぎった。


 月季は寝台の上で固まる。


 相当あれやこれやと壮哲にぶちまけてしまった気がする。壮哲の適度な無神経さがそれを許す雰囲気だったからだろう。

 それにしても、と月季は自分に呆れて溜息をこぼした。

 しかし、今まで誰にも言えずにいたことを吐き出すことができた。そのせいか、身体の重さとは逆に、気持ちは少し軽くなっているのも事実だった。


 月季は、今の状況を把握するため、動きの鈍くなっている頭の中の整理を試みる。


 壮哲には一応否定をしたが、彰高のことを好きだった、と思う。

 そうかもしれないと自覚し始めた頃、大雅に言外に釘を刺された。自分のことを心配してくれた故だったのだろう。しかし、そう簡単に切り替えることなどできなかった。夏家の県主ひめのことを聞いても、会ったこともないし、おまけに引きこもっているというから、実在するのか怪しいものだとすら思っていた。

 朱国で初めて夏家の県主ひめを見た時、ほんのり、違和感を感じた。でもそれは、本人ではなく身代わりだったからだ。

 昨日、実際に二人が一緒にいるところを見せられた時、大雅の刺した釘がようやく身中に深くめり込んで来た。自分で思っていた以上に、心臓の辺りに刺さったようだった。眉間の奥もぎゅうぎゅう押されているように痛んだ。

 壮哲に背中を叩かれていなかったら、もしかしたら自分にあるまじき醜態を晒していたかもしれない。

 もしそうなっていたら、自己嫌悪で立ち直れなかっただろう。二度と彰高の顔を見られなかったかもしれない。

 正直を言うと、まだ気持ちの整理がついたわけではない、と思う。昨日いためたらしい心臓が、時折しくしくと疼く。

 だけど、閉じた空間をぐるぐると周回していた気持ちは、出口を見つけたような気がした。

 そう思えるのも、認めるのは癪に障るが、壮哲のお蔭なのだろう。親しいわけでもないのに、いや、むしろ、自分の性格上、親しくないからこそ心のうちを晒すことができたと言える。忙しいだろうに自棄酒やけざけに付き合ってくれたことには、感謝してしかるべきだ。

 だとしても、次に壮哲に会う時に気まずいことは気まずい。


 そこまで考えると、はぁぁ、と大きく溜息をついた。

 月季は重く感じる身体をのろのろと寝台から下ろす。


 こんな状況でも、毎日欠かさず行っている朝の素振りを休むつもりはなかった。冷たい水で顔を洗い、幾分頭をすっきりさせると、一人で着替えて建物横の中庭に出た。


 中庭に出たところで、剣の鞘に付けていた琥珀の飾りがなくなっているのに気づいた。

 どこで落としたのだろうか、と記憶をさかのぼっていると、声が掛かった。


「何だ、起きられたのか」


 佑崔を連れた壮哲だった。


「起きていなかったら無理やり起こして、素振りでもさせようと思って来たんだが」


 昨晩、自分よりもかなりの量を呑んでいたはずなのに、この爽やかさは何だ。


 朝の陽を浴びて何事もなかったかのように笑う壮哲に、月季は幾分腹が立つ。


「余計なお世話」


 加えて自分だけ感じている気まずさが悔しくて、月季の口調がぶっきらぼうになる。


「ああ、あと、これを探してるんじゃないかと思って」


 月季の態度には頓着せずに壮哲が差し出した掌に、紐の切れた琥珀の飾りがあった。


「あ、それ」


 月季が安堵の息を吐いてそれを受け取る。


「探してたの。助かったわ」

「鍛錬場に落ちてたそうだ」


 月季が瞳の色と同じ石のついた飾り紐を大事そうに仕舞う。


「母上から貰ったものなの。私と母上の目と同じ色の石。唯一私が自分の顔の中で好きなところよ。母上が彰高に言って探してもらったんですって。探すのに苦労したみたいで……」


 最後まで言う前に生温なまぬるい目で見ている壮哲に気づき、月季がじろりと睨む。


「……何よ。母上から貰ったものだから大事にしているだけよ」

「何も言ってないが?」


 壮哲は笑いを堪えるように言うと、じゃあ、と背中を向けた。

 月季は迷った挙句、去っていくその背中に向かって言った。


「……夕べは、迷惑をかけて悪かったわね!」


 怒っているような言い方になってしまったが、月季にとっては渾身の礼の言葉だ。

 壮哲は振り向くと月季を見る。月季は壮哲と目があうと、バツが悪くて顔を背けた。

 とても礼を言っている態度ではない。


「いや。私は話を聞いただけだ」


 それでも壮哲は鷹揚に笑うと、軽く片手を上げて去って行った。


 やけに陽の光が眩しい。


 月季は目を細めて見送った。







 月季は早々に帰り支度をした。そのまま昊尚に会わずに帰ろうかとも思ったが、それも負けた気がして悔しいので、挨拶だけはして帰ることにした。

 取次に案内されて執務室を覗くと、時間前にも拘らず、昊尚は既に仕事をしていた。


「ああ、月季。早いな。夕べは陛下に迷惑をかけなかったか?」


 昊尚が保護者のような心配をしながら顔を上げた。


「何それ」


 思い切りがつかず、月季は入口付近に立ったままで、昊尚と目線を合わせることができない。


「今日、帰るわ」


 壁にある飾り棚を見ながら月季が続ける。


「何だ。もっとゆっくりしていけばいいじゃないか」

「そうそう私も暇じゃないの」


 相変わらずの月季の口調に、昊尚が苦笑する。廊下には、月季に撒かれた供の兵士が昨日のうちに追いついていて控えていた。


「せっかく来たのに、付き合ってやれずにすまなかったな」

「別にいいわよ」


 横を向いたままの月季に昊尚が聞いた。


「何か相談でもあったんじゃないのか」


 月季は一瞬言葉につまる。蒼国に来た本当の目的など言えるわけがない。


「……大丈夫」


 月季は慎重に言った。

 その言葉は、昊尚に言ったものであると同時に、自分に対しての言葉でもあった。


 今までどおり接することができた。だから、大丈夫。


 月季は、ふう、と息を吐いて、ようやく昊尚を見た。


「じゃあ、もう行くわ」

「そこまで送る」


 昊尚は書類を机で揃えると立ち上がった。

 来なくていい、と言う月季に、昊尚は笑いながら、見送りくらいさせろ、と並んで歩く。


「理淑殿はいつ頃出勤なの?」


 皇城の門まで来たところで、月季が聞く。

 流石にこのまま挨拶もせずに帰るのは気がひける。

 少し待とうかと月季が迷っているところに、登城して来た理淑と範玲に出会った。


「ええっ!? もう帰っちゃうの?」


 駆け寄ってきた理淑が眉を下げて残念そうな顔をする。そんな理淑に月季が和まされる。


「ごめんなさい。でも、帰る前に会えてよかった。今度は貴女が紅国へ来なさいよ」

「わかった! 今度行きますね!」


 二人の様子を微笑ましそうに昊尚が見る。


「よかったな。友達ができたみたいで」

「人を友達がいないみたいに言わないでよ」

「ほう。いたのか。知らなかったな」

「うるさい」


 月季が楽しそうに笑う昊尚を睨む。

 睨むふりをしながら、やっぱりこの笑った顔が好きだ、と月季は思った。同時に、釘が刺さった後の心臓がしくしくと痛んだ。

 昊尚が月季を選ぶことはない。しかし、月季のことを、妹分としてだろうが、大事に思ってくれていることは、月季自身にも分かっていた。もし、月季の気持ちを知れば、少なからず昊尚は痛手を負うだろう。


 だったら。


 傷は自分が受けるだけで済ませよう、と月季は決めた。


「じゃあ、気をつけて帰れよ」

「ええ。わかってるわよ」


 月季は昊尚を見上げた。そして一度きゅっと唇を噛むと、横を向いて言った。


「じゃあね。……昊尚殿」


 昊尚は、おや、と目を合わせない月季をまじまじと見る。


「珍しいな」

「何が?」


 月季はとぼけると、昊尚に次の言葉をかけられる前に範玲に向きなおる。


「範玲殿も、良かったら今度、理淑殿と紅国へ遊びに来てください」


 珍しく月季は、笑顔、を作る努力をした。作り慣れていない笑顔は、どこかぎこちない。しかし、好意を示したい、というその気持ちは伝わった。


「はい。是非」


 範玲は嬉しそうに微笑みを返した。

 月季は眉間を指で撫でると、再度範玲に笑い返した。


「じゃあ、また」


 月季は見送ってくれる三人に手を振って紅国へと帰って行った。


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