宗鳳の記 −香雪の巻−
第27話 元年季冬 鵲始めて巣くう 1
冴えた空気が肌に沁みる早朝、蒼国王家の一つ、夏家の
「これで大丈夫かな」
範玲はいつも以上にきっちりと髪を結うと、妹の理淑を振り返り確認してもらう。
「うん。大丈夫だと思う」
理淑が右、左、後ろ、上、斜めから範玲の髪を点検する。
**
範玲には特殊な能力がある。
彼女の耳は異常に良い。聞こうと思えば隣の屋敷の会話も聞くことができる。
そのため、通常の音は騒音として聞こえてしまい、外の世界には馴染めなかった。
北の玄海に棲む玄亀の甲羅で作ったとされる耳飾りを着けると、聞こえすぎる音は和らぐ。ただ、それも今までは十分な状態とは言えなかった。だから、屋敷に引きこもり暮らしてきた。
しかし、最近得た新しい耳飾りは、以前着けていたものと比べて性能が格段に良くなったため、範玲は外へ出かけることが苦にならなくなった。そのお陰もあり、範玲は門下省下の史館へ勤めることができるようになった。
だが、範玲のもう一つの能力、人に直接触れるとその心の中を読んでしまうというものは、依然として解消されることはなかった。
だから史館に勤めるようになってからは、殊更念入りに人と触れないように注意をしている。うっかり触れてしまわないように、髪をきっちり結うのもその一環だ。
**
秦壮哲の第十一代青蒼国王即位の儀からひと月が経つ。
そして範玲が門下省の史館に勤め始めて半月程だ。
青公夏家の引きこもり
あまり表沙汰にせず、ひっそりと任官されたはずであったのに、初出勤の日にちは皇城中に知れ渡り、一目範玲を見ようと物見高い連中が、史館のある門下省の周りを用もないのにうろうろとしていた。
英賢に伴われて現れた範玲に注目が集まる。
俯きがちに歩いていた範玲に、英賢が何か話しかけて門下省の建物を指さす。範玲がその指し示す方を見るように面を上げた。
深い青色の亀甲形の耳飾りが陽を受けて煌めきながら揺れる。
顔を上げたため見えた夏家特有の碧色の瞳は吸い込まれそうに澄んでいる。長い睫毛に縁取られたその瞳は、期待に満ちて潤み、耳飾りよりもきらきらと光を受けていた。磁器のようにきめ細かく滑らかな頬が少し上気して、優美な中に愛らしさが見え隠れする。そして冷たい空気の満ちた朝、蕾が綻ぶように微笑んだ。
丁度正面の位置からその範玲を目撃した者は、見とれたまましばらくはぼうっと立ち尽くしていたという。
「おい……見たか? ……範玲様って……。……どこが醜女だって?」
「誰だよ! 角が生えるって言ってたの!」
その日のうちに範玲の容姿についての噂が皇城中を駆け巡った。
噂といえば、容姿についてのものの他、範玲が出勤する以前に皇城に出回ったものがあった。
昊尚は範玲を史館に入れるに際して試験を受けさせた。これまで引きこもって全く世間に出てきていなかった者を官吏に任命するのに、理由づけを示す目的だった。王族の
試験は太学の歴代の入学試験問題から、何問かを無作為に選び、口頭で出題して答えさせた。
結果は、昊尚が予想した通りほぼ満点であった。
この結果は史館の職員たちを問題なく納得させ、皇城でも驚きをもって迎えられた。
それから、もう一つ、意図的に流された噂があった。
それは、万が一範玲に手を出そうものなら碧公に抹殺されるというものだった。これについては、範玲の特殊能力の秘密を守るため、できるだけ人が寄ってこないようにする目的だと英賢は言っている。が、昊尚は英賢の妹へのただの溺愛感情によるものだと確信している。
**
史館には職員が範玲の他に四名いる。
史館では、今は再来年の建国二百年に合わせて周年史の発行を目指している。元々の定員が四名で、二百年史を制作するための増員ということで範玲が加わった形である。
この史館の責任者は門下省の長官である李元規が兼任しているが、実質の長は呉君山という老人である。
君山は蒼国の歴史の生き字引とも言われている小柄な白髪の老人で、好々爺という言葉がとてもよく似合う風貌の持ち主である。年齢不詳で、酒をこよなく愛する。
「おはようございます」
範玲は毎朝、侍従頭の士信に送られて史館へ出勤する。
士信はあの事件の際に傷を負った。病み上がりだからついてこなくて良い、と範玲が言っても、士信は、心配だから、と頑として範玲について来る。
士信に見送られ範玲が執務室に入ると、既に出勤している杜正宗が顔を上げた。
「おはようございます。いつも早いですね」
「正宗殿の方が早いですよ」
範玲はできるだけ人に会わないように、出勤時間より随分早く来ることにしていたが、史館にはいつも杜正宗が先に来ている。
杜正宗は代々文学者を輩出している家系の出で、本人も歴史よりもどちらかというとむしろ文学を好む。史館では主に列伝の類を担当している。範玲よりも二十以上年上の男性で、物静かでいつの間にかそこにいる、といった感じの人物である。
まだ執務の時間までは間があるので、範玲はいつものように書庫に入り、読んだことのない書物に目を通す。
執務開始の時間に近くなった頃、残りの同僚二人が出勤して来た。
一人は陶志敬。殿中省の珠李の兄だ。珠李にどことなく似た面差しが人懐こい印象を与える。しかし、もしかすると彼も珠李と同様に、それを装っているだけなのかもしれない、と範玲は思っている。
もう一人は、周順貴。名前で分かる通り青家の血筋である。昊尚の従兄弟で、藍色の瞳の鋭い目つきは昊尚と似ている。業務は国史の編纂というよりも、発行するに際しての対外的な事務を一手に引き受けており、門下省の別の部署の事務も兼務している。目立たないがやり手である。年齢は英賢より一つ下とのことだ。
そして最後に、いつも執務開始間際に君山がやってくる。
ここは範玲にとって思った以上に居心地のよい場所だった。
蒼国の膨大な文献を整理し、記録と照合し、書き写し、まとめ、文に起こしていく。いずれこれらが一つの成果物になっていくと思うと、気分が高揚する。
一緒に働く四人とも物静かで必要以上に話をすることもなく、勿論接触する危険もない。
こんな満ち足りた生活を送ることができるなんて。
屋敷に引きこもって来た二十二年が嘘のようだ。
それもこれも新しい玄亀の耳飾りのお陰。
……そして、昊尚殿のお陰だ。
耳飾りをくれたのが昊尚でなかったとしても、史館に誘ってくれたのは彼だ。
それだけで十分感謝するに足る。
範玲はこの日常の幸せを実感する時、たまにひどく優しい顔をする、無愛想な男を思い出す。
*
二十五という若さで、しかもこれまで国政には関わってこなかった昊尚が藍公を継いだことは、皇城中でかなり物議を醸した。
「何もわかっていない若造に務まるのか」
面と向かっては言わないが、そう思っている連中が大多数であった。
そんな雰囲気の中で、昊尚は淡々と自分の足元を固めた。
かつて神童と言われ、また天才仙人文始先生の愛弟子である昊尚の、政治、経済、文化諸々についての知識量は、他の官吏を黙らせた。また、商人として周辺国にも出入りをしていたことから、諸外国の要人にも顔が広いのは皆を驚かせた。
昊尚は先制攻撃で奇襲を仕掛けたようなもので、あっという間に官吏たちに藍公としての地位を認めさせてしまった。
突如として颯爽と現れた、容姿端麗で血筋の良い有望な未婚の男子に、都の女子たちは色めきだった。未婚の娘をもつ官吏たちも、昊尚への我が娘の売りこみに躍起になった。
しかし、昊尚は表面上、言葉穏やかに対応をするが、決して隙を見せない。それどころか、縁談の話を持ってきたはずの者は、いつの間にか話がすり替わり、仕事を仰せつかって帰されることもしばしばある。
喜招堂の主の粱彰高として知り合った人々も、彰高が実は青家の者だったと知って動揺した。
その最たる者は殿中省の央凛であったろう。
しばらくは昊尚と顔を合わせないように避けていた。
しかし、内廷にも足繁く通う昊尚と殿中省の央凛が顔をあわせる機会はままある。
ある日、偶然回廊で央凛を見かけた昊尚が、己から挨拶をした。央凛は僅かに顔を引き攣らせたが、意を決したように歩み寄ってきた。
「お人が悪いですわ。藍公様」
央凛が身分を黙っていたことを詰り、昊尚を上目遣いで睨む。いつもの仕草だが、若干表情が固い。
「そういうつもりはなかったんだが。まあ、すみませんでした」
ははっ、と昊尚が軽く笑う。
その笑顔を見て央凛の頬が少し緩む。そして今度は眉根を寄せる。
「残念です。私、喜招堂の彰高殿がお気に入りでしたのに」
「その節はいつもご贔屓いただきありがとうございました」
昊尚が少し戯けてお辞儀をする。
「もうっ! 憎らしい」
央凛が吹き出しながら文句を言う。
「喜招堂からはまた別の者を寄越すので、引き続きよろしくお願いします」
昊尚がにこりとして言うと、その以前と変わらない態度に央凛も安堵したように笑い返した。
「もう喜招堂の方はお辞めになるのですか?」
「いや、頻繁には関わることができなくはなるが、辞めませんよ。でも、信頼できる者にしばらくは任せようと思っています。品質はこれまで通りなのでご安心を」
「よかった。それを聞いて安心しましたわ」
昊尚は喜招堂の顧客の手当にも抜かりがない。
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