第2話 一日目 事の始まり 2
夜も遅いためか通りにも人はほとんどなく、途中、犬の鳴き声に驚きはしたものの、思っていたより早く目的地に着いた。日々ほぼ運動をしない範玲が理淑の足を引っ張っていたが、何とかついて来られたようである。
喜招堂の場所はすぐにわかった。屋敷から南へ下り、東へ折れた商店の立ち並ぶ通りへ出るとすぐのところだった。
目立つ構えの店自体は閉まっていたが、その隣の喜招堂が営む
理淑が恐る恐る戸を叩き、そうっと開けてみると、中は食堂のような部屋だった。そこには思いのほか人がいて、商売の話をしているのか賑わしかった。
下男と思しき人物が、その賑わいにもかかわらず戸の開いた気配に気付く。
「いらっしゃいませ! もう食事はできませんが……」
反射的に威勢よく声をかけたが、理淑とその背後に隠れている範玲を見て続きを口にするのを止めた。
どう見ても商人には見えないからだろう。
「何かご用でしょうか」
下男が戸口へやって来て、改めて声をかけた。
「遅くにすみません。梁彰高という人はいますか」
理淑が目的の人物の名を告げると、ああ、と合点がいったように頷き、店内の騒がしさに負けない音量で奥に声をかけた。
「どうした」
呼ばれて出てきたのは、予想していたよりも随分若い人物だった。鋭い目つきをした整った顔立ちの背の高い男で、歳は範玲よりもいくらか上なだけだろう。
「お客様ですよ」
下男に入口の方へ視線を促され、呼ばれて出て来た男が顔を向ける。
理淑と範玲をみとめると、ほんの少し青味がかった冷たい印象の黒い瞳が見開かれ、狼狽の色を
しかし、それも一瞬のことだった。
再び怜悧で感情を抑えた瞳に戻る。
「私が梁彰高ですが、何かご用でしょうか」
男は戸口にやってきて事務的な口調で言った。
「兄から預かったものを届けに来たんですが……」
理淑が答えて、後ろにいるの範玲に続きを引き継ごうと振り返った。
ところが目に入った光景に理淑はぎくりとした。顔を真っ青にして耳を塞いだ範玲が、今にも倒れてしまいそうなのを耐えていたのだ。
商談を重ねる熱の入った商人たちの声は、思った以上に大きい。ここは範玲にとっては騒がしすぎるのだ。
「どうした?」
範玲のただならぬ様子に彰高も気付く。
「姉は騒がしいところが苦手なんです」
理淑が狼狽えながら言うと、彰高は範玲を見ながら指で自分の背後の方向を指した。
「奥の部屋なら静かだ。移るか?」
青い顔をした範玲が頷くのを見てとると、彰高が、こっちだ、と先導するように歩き出した。耳を押さえて脂汗を浮かべた範玲が、その場から逃げるようにふらふらと彰高に従う。理淑もその後を追った。
騒がしい食堂を抜けて奥へ進み、宿の建物を出た。そして私邸らしき区域への中門をくぐり、中庭を左手に見ながら回廊を進んで奥の部屋に通された。
そこは質の良さそうな
「店から離れているから、音はましだろう」
確かに先程の騒がしい部屋とは段違いに静かだ。
範玲は椅子に倒れこむように座り、理淑が心配そうに見守る中、大きく息を吐いて何度か深呼吸をすると、ようやく落ち着きを取り戻した。
「大丈夫か」
「すみません。沢山の声が苦手なので」
彰高が抑えた声で聞くと、小さな声で範玲が詫びた。
「……いや。……何か飲むか?」
「いいえ……ありがとうございます。大丈夫です」
「そうか」
息を整えるの範玲を窺いながら、彰高は理淑にも椅子を勧めて、自身もその向かいに腰を下ろした。そして範玲が落ち着いたのを確認すると尋ねた。
「……それで、用件は?」
範玲は心配そうに見ている理淑に、大丈夫、と囁くように言って、帯の下に隠し持って来た包みを取り出した。
しかし、その包みの正体を思い出し、差し出そうとした手をふと止めた。
英賢は梁彰高という人物に渡すようにと言ったが、それが一体どういう人物かわからない。本当にこの人に渡して良いのだろうか。
範玲は顔を上げると、真っ直ぐに彰高を見た。
「夏英賢はご存知でしょうか」
「ああ。英賢殿には世話になっている」
「私共は英賢の妹です。兄からあるものを預かってまいりました」
「あるもの?」
彰高の眉根が寄る。
冷たい印象の瞳がさらに鋭くなる。
「はい。ですがその前に、貴方がどういった方なのか教えてくださいませんか。兄から頼まれたことではありますが、ことづかって来たものがものだけに、誰ともわからない……あ、いえ、あの……貴方がどのような方なのか……確認させていただきたいのです」
範玲が緊張のため僅かに震える声で言うと、彰高は口を僅かに歪めて皮肉な笑みを浮かべた。
「成程。蒼国の
「そういうつもりでは……」
「ならば先ずはそちらが名前くらい言ったらどうだ」
冷たい目で見られて範玲はきゅっと唇を噛む。
棘のある言い方に気持ちが萎えそうになる。しかし言い分は尤もだ。
「失礼いたしました。私は夏範玲、こちらは妹の理淑です」
眉間に皺を寄せて自己紹介をする範玲に、彰高が愉しげに微笑む。
「私は梁彰高。この喜招堂の主だ」
思わず範玲は彰高を目を瞬かせて見た。
都でも一二を争う大店である喜招堂の主人が、こんなに若い男だとは思いもしなかったからだ。しかし範玲は気を取り直して聞いた。
「……失礼ですが、兄とはどういったお知り合いなのか教えてくださいますか」
「商いの関係で英賢殿とは知り合ったが、個人的にも親しくさせてもらっている。私は周家の類縁でもあるから、周家経由での付き合いだ」
彰高が至極簡潔に説明した。
「梁……というと……陛下と藍公のご母堂様が梁氏でいらっしゃったけど…」
範玲は記憶の中から周家の家系図をさぐり当てる。
現王と周家当主の母である梁氏は、紅国の出身だったはずだ。
紅国というのは正式名を峯紅国といい、蒼国の隣の大陸一の大国である。
「……そうだ。その血縁にあたる」
梁氏の血縁ということなら彰高も元々紅国の貴族ということだろう。であれば英賢と親しくてもおかしくはない。
「そうでしたか。それは失礼いたしました」
範玲はとりあえず疑いの鉾を納めた。
二人のギスギスした会話を心配そうに見守っていた理淑がほっと胸をなでおろす。
と、部屋の外で彰高を呼ぶ声がし、誰かが足早にこちらにやって来たと思ったら、いきなり戸が開いた。
「邪魔するぞ」
「何だ。勝手に開けるな。来客中だ」
入って来たのは体格の良い若い男だった。いかにも武人といった風体ではあるが、全く無駄がなく引き締まった体躯からは無骨な感じは受けない。意志の強そうな深く落ち着いた縹色の目が印象的な整った顔立ち。それに勢いよく入って来た割には立てた物音は最小限で動きにも無駄がない。
勝手知ったる突然の登場にも彰高が警戒していない様子から、親しい相手であることが窺われる。
「
入って来た男を見て理淑が目を瞬かせながら声をかけた。
名前で呼ばれて男が驚いた表情で理淑を、次いで彰高をちらりと見た。すると、彰高が目配せをした、ように見えた。
「理淑か。どうしてここに?」
壮哲と呼ばれた男が、彰高から視線を移して理淑に応える。
「いえ、何というか、事情があって……」
理淑が言葉を濁すと、彰高が言葉を挟んだ。
「壮哲こそどうしたんだ。こんな時間に。今日は宿衛に顔を出すんじゃなかったのか」
先ほどからの彰高と壮哲のやり取りを、範玲は戸惑いを以て見ていた。
壮哲といえば、王族青家の一角である秦氏の嫡男だ。さらに壮哲は若くして禁軍の左羽林将軍となったことでも名高い。そのような高位の貴族に対して、彰高の態度はあまりにも遠慮がない。紅国の貴族の出だとしても、気安すぎる。
英賢の知り合いであるだけでなく、壮哲ともかなり親密に見えるこの彰高という男は一体、何者なのか。
ぽかんと目の前の状況を見ていると、壮哲が範玲に目を向けた。
「理淑、こちらは?」
理淑は秦家の当主である縹公に懐いており、幼い頃から武術の
「姉上です」
「え」
壮哲が縹色の瞳を見開き、まじまじと範玲を見た。
「……話とは随分……。あ、いや、失礼。初めてお目にかかる。秦壮哲だ」
言いかけて爽やかに挨拶をし直したが、話とは随分、とは何なのだろう。
思わず範玲の眉根が寄る。
そもそも人が話をしていたところに、いきなり入って来るとは不躾である。
「夏範玲です」
範玲は軽く会釈すると、抗議のつもりで壮哲を見上げた。
「突然割り込んできて申し訳なかった」
しかし壮哲は謝りはしたが、そのまま彰高に向きなおって話を続けた。
「ああ、それでだな、さっきまで北門の詰所にいたんだが、突然右羽林軍が私を捕縛に来たんだ。理由がわからないのに捕まるのは不本意だし、かといって抵抗したら怪我人が出るからな。仕方がないから逃げて来た。ちょっとここで待たせてくれないか」
話に割り込んできた壮哲に眉を顰めていた範玲だったが、内容を聞いているうちに不満が不安に変わる。
これは部外者である範玲たちの前であけすけに言っていいものなのだろうか。随分と不穏な話だ。
「構わないが、一体何をやらかした」
彰高が事も無げに承諾した。
え、構わないの?
内容も内容だが、それへの彰高の対応も側で聞いている範玲の方が心配になる。
「心当たりがないから、今
佑崔というのは壮哲の私的な侍従で、侍従と言っても、壮哲の従兄弟にあたる。ちなみに佑崔の父親の斉公謹は百官を統括する都省長官だ。
彰高は、そうか、と少し考えたが、範玲たちの話が中断されていたのを思い出したように、訝しげな顔をして話を聞いていた範玲に向きなおった。
「すまない。こいつのせいで話が逸れたな。知ってはいるだろうが、これは秦家の嫡男だから身元だけは確かだ」
壮哲を同席させたまま、範玲の話の続きを聞こうというのだろう。
壮哲は話が飲み込めない顔で三人を見比べているが、範玲はこれ以上時間を無駄にするのを避けるために話を続けることにした。
「……これを。兄から預かりました」
包みを差し出すと、彰高が受け取り、油紙を開いて中のものを広げた。
紙面に視線を注ぐ彰高の反応を見逃さぬよう、範玲はその顔をじっと見つめた。しかし、わずかに左眉が動いたのみで、さほど表情は変わらなかった。
「英賢殿はどうされた?」
広げたものをたたみ直すと、彰高はまっすぐに範玲を見た。
「夕刻に急いだ様子で登城しました。私たちが屋敷を出た時には、まだ帰ってきていませんでした」
それを聞いて彰高は考え込む。何か心当たりがあるように見える。
「……あの……、これのこと、ご存知なのですか?」
「これを見たのか?」
問いに、逆に質問で返され、範玲はつい言わなくてもいい言い訳で答える。
「……本当は侍従頭の士信に届けさせるようにと兄は言ったのですが、士信があまりにも帰ってこないので中身によっては早く届けた方が良いかと思って……」
「そうか」
彰高は呟くように言うと、やり取りを大人しく見守っていた壮哲を振り返った。
「……壮哲、お前が捕まりかけた理由は、これが関係しているかもしれないぞ」
そう言って文書を渡した。
英賢が彰高に届けさせたもの。
それは現王の罷免を求める文書だった。
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