初夏色ブルーノート
えーきち
喫茶店
――どうして私の人生は、いつも土砂降りなんだろう?
幾何学模様の白いレンガタイルの歩道に、暗いシミがポツポツと斑に浮かび上がった。
見上げると、空には私を覆うように真っ黒な雲が広がっていた。
突然勢いを増した強風が私の髪を乱し、新緑の萌える街路樹を大きく大きく揺らしている。
ゴールデンウイークもすぎ人通りの落ち着いた軽井沢の旧道を、私はひとり走った。ペンとメモ帳をギュッと握り締めながら。
軽井沢駅の左右に大きく湾曲した白い階段をグルリとくだったあの時、あまりの懐かしさに思わず辺りを見て回りさえしなければ、きっとこんな事にはならなかったのに。
駅に娘を残してきてしまった。いくらしっかりしているとは言っても、娘はまだ高校生。おまけに、娘にとっては初めての土地。きっと不安に違いない。そんな後悔も、今さら後の祭りだった。
私は軽井沢銀座へ入る前の、まだ店もまばらな街並みの、小さな喫茶店の軒下へ息も絶え絶え飛び込んだ。
間髪入れず、大粒の雨が初夏の軽井沢を瞬く間に霞ませる。
黒とオレンジの、ストライプ柄の庇を叩く激しい雨音が耳に障る。
どうしてこんな時にまで、私は冷たい雨に降られているのだろう?
ここにだけは来るつもりはなかったのに。
僅かに濡れた髪とジャケットにハンカチを滑らせながら、私は煤けた木枠のガラス張りの扉を手前に引いた。
コロンコロンと、カウベルの奏でる陽気な音が却って憎らしい。
カウンターの奥にいたマスターが、咥えていたコーンパイプを口から離し、私を見てすぅっと目を細めた。
十五年――十六年? いや、十七年ぶりに見たマスターは、白髪まじりの頭もだいぶ薄くなり雰囲気のある口髭を蓄えていた。
「いらっしゃい」
私はきつく口を引き結び、静かに店内へ足を踏み入れる。
三つ並んだ四人掛けのテーブルとカウンター席だけの、本当に狭い喫茶店。
繁忙期からはずれた軽井沢の、まだ肌寒い季節の店内には、ひとりもお客はいなかった。
店内をフワリフワリと漂う古めかしい洋楽。
滝のような雨音に負けない、胸に染み入るメロディアスな歌声。
気づけば久しく歌と向き合っていなかった。
目まぐるしい毎日が、私を歌から遠ざけていた。
忙しくて、慌ただしくて、とにかく一日一日を生きるのに精一杯で。
そんな生き方しか選べなかった自分が、何の因果かまたこの店に戻ってくるなんて……
ガラス窓を除いた壁の至る所、三角天井を横に走る梁にまで、写真や定期券、チラシ、名刺などが所狭しと貼られている。それは、来店したお客に『思い出を残していきませんか』という、粋なマスターの計らいだった。
天井近くに貼られたどこかの誰かの思い出が薄茶色く変色するほど、昔からここにある喫茶店。
あの頃のまま。私はこの、誰かの思い出を眺めているのが好きだった。
今一度、グルリと店内を見回して、カウンターの奥の席をフッと振り返る。
見計らったように、雨音と曲に混じってコツンと音を立てるグラス。
あの頃の、私の指定席……
探るようにジッとマスターを見て、私はグラスの置かれた奥のカウンター席についた。
手にしたままだったメモ帳をカウンターに置き、ペンを指先で弄ぶ。
チラリとマスターに視線を移し、少し考えてからペンとメモ帳をバッグの奥にしまい、私は三角錐のメニュースタンドを指差した。
マスターは無言で頷くと、すぐに慣れた手つきでケトルのお湯をフラスコに注ぎ、底を布巾で丁寧に拭ってアルコールランプに火をつけた。
カウンターの向こうで、山吹色した小さな炎が揺れている。
セットしたロートにフラスコのお湯が汲み上げられていくにつれて、立ちのぼる薄い湯気と共に香ばしい香りが広がった。
カウンターを越えて、マスターの無骨な手がのびてくる。白いコーヒーカップとソーサーがカチャリと小さな音を立てる。
目だけで「どうぞ」というマスターに向かって私は小さく頭をさげ、コーヒーカップを口へ運んだ。
モカベースのブレンドの、少し酸味のある懐かしい苦味が口いっぱいに広がって、消えていく。
まるで、店内に流れる曲のように。
曲が変わった。
胸がざわつく、ブルージーな味のあるフレーズ。酒焼けしたようなしゃがれ声が、スローテンポの曲に乗って私の胸をかき乱す。
初めてこの店に来た時に流れた曲。
時の流れに霞んでしまった感情が、一気に胸に込み上げてくる。
セピア色した遠い記憶が鮮やかに蘇る。
そうだった。あの日もこんな天気だった。
どうして私の人生は、いつも土砂降りなんだろう?
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