本当に、風船には指環がくくりつけてあった。


「あのばかやろう」


 この指環。たぶん、安物、だと思う。見つけられなかったときのことを考えて、ダミーのはず。四桁万円の指環なんて。


「四桁万円の指環か」


 実は、買ったことがある。

 勇気がなくて、彼女に渡せなくて。部屋の引き出しに眠っていた。四桁万円。


「はあ」


 一度部屋に帰り、その指環をポケットに雑に突っ込んで。彼女がいるであろう場所に向かった。

 長く、彼女と過ごしているから。彼女が考えていることは、だいたい分かる。そういう、間柄になった。そしてそれが、どうしようもなく、こわかった。

 人に言えない、内偵という仕事をしている。だから、彼女にも話せない。ひとりで墓場に持っていかなければならないものばかりで、パンクしそうだった。

 だから、彼女のことも。踏み出せない。そうやって、人知れず一生を終えるのだと、思っている。いまも、思っていた。

 それでも。

 足は、彼女のところへ向かう。

 街外れ。教会の。扉。


「おっ。きたきた」


 彼女が、自分を見て驚く。


「うそ。風船捕まえたの?」


「取ってこいって言ったの、おまえだろ」


 指環。彼女に投げる。ナイスキャッチ。


「いいのに。これダミーだから」


 やっぱり。


「そうか」


 もうひとつ。彼女に投げる。それも彼女がナイスキャッチ。


「なにこれ」


「本物」


「本物?」


「四桁万円の指環」


「え」


「プレゼントだよ」


 目を見開いた彼女。

 そして。

 その目から、ぼろぼろと、涙。


「えっこわいこわいこわい。四桁万円の指環。こわい」


 手が震えている。


「ねえこわいよお。こんなのはめられない。ねだんたかすぎるってば」


「四桁万円がご所望なんだろ?」


「いやっそれとこれとは話が違っ」


「欲しいものは」


 彼女が、欲しいものは。


「欲しいものは。結婚、でしょうか?」


 彼女。

 走ってくる。あっ意外と速い。

 ぶつかってきた。抱き止めるが、慣性でかなり吹っ飛ばされる。無意識に受け身。彼女が容赦ないので、見事に5回転半。新記録かもしれない。


「結婚。します。よろしいですか?」


「よろしいですいだだだだ」


「あれ。指環はまんないんだけど。おらおらおら」


「違う違う。あなたの指環。俺の指じゃない」


「えっ。いやこわいこわい。四桁万円を指にはめるのはむりでしょ倫理的に。金銭感覚がばがばなるよ」


「金はあるんだよ、俺」


 彼女。何かに気付いたように、抱きついてくる。


「じゃあ。お金の代わりに。あなたの背負ってるものを。半分ぐらい、肩代わりしようかしら」

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