悪魔の囁きとNの喜劇

深静晴信

第1稿 悪魔の囁きと奇妙な男(1)

「うーむ……。むむむ……。あぁ、くそっ」

 場面は大学の推理小説研究会部室。床のあちこちに、読みかけの推理小説や原稿用紙、ボールペンやパイプ椅子などが転がっている。部屋の中央には、会社のミーティングで使われそうなT字脚仕様の大型テーブル。パイプ椅子も右に3つ、左に3つの計6つが並べられている。窓際には会長のポケットマネーで購入した32インチのテレビ。右側の本棚には推理小説が全段にぎっしりと敷き詰められている。本の重さで、そろそろ棚が壊れそうだ。いかにも大学の部室という感じの部屋である。

 現時点での登場人物は俺。周りの人間からは「N先輩」と呼ばれている。就活を控えた三回生で推理小説研究会の会員。黒いジーパンと黒Tシャツを着ている。他は特筆すべき点はない。

 現時刻は12時50分。丁度、昼休みが終わる頃だ。この時間帯の大学生という生き物は様々な状態に陥る。満腹になって眠くなる者、三限の講義に備えてブラックコーヒーで目を覚ます者。はたまた、講義に多少遅れることを覚悟で食堂で話に花を咲かせる者。そんな奴等がいる中で、俺は部室で雪景色のように真っ白な画面のパソコンを前に頭を悩ませていた。

 何故、俺が真っ白なワードの前で頭を抱えているのか? 答えは明白。我が研究会の会誌である「謎迷宮」に掲載するために執筆している小説の締め切りが明日までなのだ。アイデアは夢の島に溜まった産業廃棄物の如く脳内に溜め込んでいるのだが、それを文章にするとなると苦労する。大抵の作家はプロットをまとめてから、数日から一週間かけてじっくりと構成を練る。一方、無精な俺はノリに乗って見切り発車で書き始めるタイプだ。で、結果はこの通り。

「畜生! 上手くいかねぇ! もう、喉の辺りまで文章が出かかってんだけどなぁ。なかなか書き出せねぇ!」

 と俺が心の叫びをあげた瞬間、部室の扉がバタンと開いた。茶髪、黒のテーラードジャケット、タイトなジーンズといった服装で、いかにも大学生という感じの好青年が、コンビニの袋を持って現れる。

「N先輩、また悩んでいるんですか? 前回、あんなに苦しんで『次はちゃんとプロット書いてから始めます! 神と仏に誓います! だから、もう俺を苦しめないでくれぇ! 締め切り様!』って叫んでたじゃないですか。また、行き当たりばったりの執筆ですか?」

 入室するや否や、先輩である俺に嫌味な台詞を吐いてくるのは、一回生の後輩、七条葵である。此奴こいつは初対面の時も、

「実家が老舗の料亭で享保の頃から続いているんですよ! 市内にあるので、先輩も機会があれば是非食べに来てください!」

 などと嫌味な台詞を平気で言ってくる奴だ。時々、腹が立つ言動をすることもあるが、何だかんだで憎めない奴で俺が忙しい時に差し入れでカールのチーズ味をコンビニで買ってきてくれる。自己紹介の時に話した俺の好物をちゃんと覚えてくれているようだ。今日もカールの黄緑色の袋を食べやすいように開き、俺の傍らに置く。さらに、カールを食べたときの口内のパサパサ感を緩和する為の飲み物として、キャップが閉まるタイプの缶のブラックコーヒーも置いてくれた。生意気な所を除けば、本当によく出来た後輩だ。

「おう、サンキュー。それで、創作の話だが。今回はちゃんと書こうとしていたんだよ! だが、プロットを書こうとしている最中に、また新たな作品のアイデアが閃いてきてな。その時、俺の中に存在している小説の悪魔が囁いたのだよ……。『お前はこんなに多くのアイデアを閃くことができる選ばれた天才なのだよ! 天才には、わざわざプロットを書くという面倒な過程など必要ないのさ! そうは思わないかい?』とね……」

「アホか、あんたは」

 俺の芝居じみた台詞に、七条君はジトっとした目でこちらを見る。俺も負けじと睨み返す。

「何か言ったか?」

「いえ何も。それで、その悪魔の言葉に耳を貸したんですか?」

 俺の追及を逃れるべく、七条君は唐突に話題を逸らす。

「あぁ、貸したとも! その結果がこのザマだよ! あぁ、畜生! もう二度と! あの悪魔の囁きには耳を貸すまい! 今度という今度は反省したぞ!」

 俺の台詞に、再びジトッとした目が向けられる。

「その台詞は前回も聞きましたね。また、その変な悪魔に騙されたんですか? 先輩は将来、確実に詐欺師や地面師に騙されるタイプです。きっと羽毛布団を高額で買わされたり、電話口で『オレオレ』言う人に大金を振り込んじゃう運命にあるんですよ。可哀想に……。今のうちに全財産をユニセフや赤い羽根募金に突っ込んだ方が、先輩の為にも世の中の為にも良いですよ! よし、今から先輩の財布の中身全部、慈善団体に寄付してきますから、財布を僕に寄越してください!」

 そう言って、ちゃっかり手をこちらに差し出す。

「おう、じゃ頼むわ。ってなるか馬鹿! どうせ、俺の財布の中身がお前の懐に入るだけだろうが! 俺だって、そこまで馬鹿じゃないぞ!」

 俺が自信満々に放った台詞に、七条君は溜息をつく。

「その台詞そのものが馬鹿の台詞じゃないですか……。ってか先輩。こんなコントやってる暇ないんじゃないですか?」

 その言葉で唐突に、現在の自分の状況を思い出した。明日までの原稿!

「おぉ、そうだった! ってか、時間をロスしたのはお前のせいだ! この野郎!」

「人のせいにするなんて最低な人ですね! もうカール買ってきてあげませんよ!」

「それは困る! 分かった、もう人のせいにしないから許してくれぇ!」

 好物を引き合いに出されてはたまらない。俺が平身低頭して謝り倒すと、七条君はまたもや哀れな生き物を見るような視線を向ける。きっと、「チョロい先輩だな」などと失礼なことを考えているのだろう。

 こんなやり取りが数分続いたところで、七条君は突然、何かを思い出したようにポツリと呟いた。

「そういえば、先輩。さっき、ヤバイことがあったんですよね」

「ヤバイこと? 何か事件でも起きたのか?」

 推理小説研究会の一員として、奇妙な話にはとても興味がある。俺は咄嗟に椅子ごと彼の方へ振り向き、身を乗り出した。そんな俺の様子に引き気味になりながらも、七条君は話を続けた。

「え、えぇ、先刻さっきの昼休みに起きたことなんですけど……」

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