IF 聖女が悪魔に恋をしたら

枇杷アテル

第1話 悪魔ユーリ―

 薄暗い地下室の中に人の肉を焼いたような嫌な匂いが漂う。地下室の隅にある棚には血の付いた短剣、額に穴が開いた複数の髑髏、逆三角形に置かれた血の付いた鎖などが並べられており、東西南北の壁には部屋の中心に向け、魔法円が描かれていた。

 部屋の中央の地面にも魔法円が描かれており、その近くでは一つの影が何者かに呼びかけるよう呪文を繰り返し唱えていた。声から男性だと判断ができるが、その容姿は黒いローブに覆われていて年齢までは確認できない。

「呪の王にして剣の王、偉大なるユーリ。我がオッガスト・チェコスの名においてここに汝を召喚せん」

 オッガストと名乗った男が両手で印を組み、声を発すると部屋の魔法円が赤く光輝きだした。そして密閉されているはずの地下室に突如として風が吹き、棚の品々が音を立てて振るえ始めた。


「……ッ!」


 光と風が激しくなるにつれてオッガストの印を結んだ両手の震えも激しくなる。

 オッガストの視界を赤い光が覆いつくし、荒ぶる風が棚に置いてあった髑髏や短剣を床へと叩き落とした。

 光と風の激しさがついに最高潮に達した次の瞬間、地面の魔法円から円柱状に光が上がり天井の魔法円と繋がり、魔法陣が完成した。


「おぉ、おおっ!」


 歓喜するような男性の声が漏れたかと思うと、完成した魔法陣の中央にいつの間にか小さい黒い球体が現れていた。

 現れた黒い球体は成長するように少しずつ膨張していき、球体の一部が魔法陣に接触するとその部分に雷のようなものが流れた。


「くっ!」


 黒い球体が魔法陣の光に接触した瞬間、オッガストの身体が震え、苦悶の声が漏れた。黒い球体はそれから何度も膨張と収縮を繰り返し、魔法陣に何度か接触した後、ようやく膨張をやめ、出現した時と同じほどの大きさにまで縮小した。

 そして黒い球体から亀裂が生じたかと思うと内部から光が漏れだし、ガラスが割れたような激しい音とともに黒い球体が破裂した。

 オッガストは激しい光と音に視力と聴力を奪われた。

 光が収まり、視力の回復したオッガストがゆっくりと目を開けると魔法陣の中に黒いコートのようなモノに全身を包んだ青年が立っていた。


「私を召喚したのは汝か?」


 青年はゆっくりと目を開き、魔法陣の外にいるオッガストを見つめ口を開いた。

 オッガストは唾を飲み込んだ。普通の人間では決してできないことを達成した自分への優越感と魔法陣の中に現れた青年に対する畏怖の念が入り混じり、身体が震え、思わず叫び声を上げてしまいたい衝動に駆られながら、オッガストは必死にその衝動を抑えた。

 下手の事をして目の前の青年の機嫌を損ねることだけは避けたかったのだ。


「そ、そうです。偉大なるユーリよ。私、オッガスト・チェコスが召喚しました」


 ユーリと呼ばれた青年が軽く左右を見渡した次の瞬間、ユーリの全身を包んでいた黒いコートのようなものが左右に弾け、魔法陣に衝突した。


「ぐぁっ!」


 オッガストは苦痛の声を上げ、印を結んでいた手からは血が滲みだした。ユーリの身を包んでいた黒いコート、いや、背中から生えた蝙蝠のような翼が魔法陣の中で窮屈そうに広げられていた。

 悪魔。

 人は彼、ユーリをそう呼称する。大いなる人外の力を持ち、人々を堕落させ、神に仇なす存在。今、悪魔ユーリがオッガストの手により魔法陣の中に召喚されていた。


「それなりに……力はあるようだな」


 ユーリは翼の黒と同じ色のシャツとズボンをその身に纏っていた。無表情のユーリに対し、オッガストは歯を食いしばりながら必死に何かに耐えていた。見ると窮屈そうに広げられている翼がなおも魔法陣を破ろうと衝突を繰り返していた。その度にオッガストは苦痛の声を上げ、身体の数箇所からは血がにじみ出てきた。


「汝を召喚者と認めよう」


 ユーリは言葉を放つと同時に魔法陣に触れないよう翼を折りたたんだ。そこでようやくオッガストを食い縛っていた歯から力ぬき、苦しそうに息継ぎを始めた。


「汝の願いはなんだ。我が名はユーリ、呪の王にして、剣の王。我が叶えるは争いのみだ」

「わ、我が願いは愚か者共の死。我を認めず、教団から我を追い出したもの達に死をっ!!」

「してその代償は……」


 悪魔に願いを叶えてもらうには願いに見合った代償を払わなければならない。大抵の場合、それは召喚者の魂が代償になる。しかし、魂が代償とするといってもそれは召喚者の死を意味するのではない。召喚した悪魔に忠誠を誓い下僕となり、死してなお代償となった魂で未来永劫召喚した悪魔に仕えるという意味だ。


「我が娘、コリカ・チェコスの魂を」


 オッガストは印を解き、脇においてあった籠をユーリの目の高さまで持ち上げた。ユーリは無言で眉をひそめ、籠の中身に視線を向ける。籠の中には生まれて間もない赤子が気持ちよさそうに寝息を立てていた。


「ひとつ、聞きたい」

「な、なんでしょう」


 オッガストの唾を飲み込む音が静かな地下室に響いた。

 悪魔の召喚に成功したとはいえ契約を正式に結ぶまでは悪魔の気まぐれで殺される可能性がある。だからこそオッガストは如何なる質問にも慎重に丁寧に答えるつもりでいた。


「愛とはなんだ?」

「は?」


 悪魔からの意外すぎる問いかけに驚き以外の言葉が出なかった。


「おまえにとって愛するということは何だと聞いている」

「……」

「どうした?」

「……私には理解しがたいものです。そもそも考えたことがありませんから」

「ではなぜ子が生まれた。子を産んだ女を愛したからではないのか」

「愛してなどいません。子は生贄にするために生ませたもの。産んだ女の名すらもう忘れました」


 オッガストが答えるとユーリは何かを考えるように瞳を閉じた。


「質問には答えました。悪魔ユーリよ、早く私の願いを叶えてください」

「…………」

「ユーリ!」

「……願いを叶えることはできない」

「なっ!」


 ユーリの返答に驚き絶句したオッガストは掲げていた籠が手からずり落ちた。籠が床に落下すると同時に籠の中から赤子の小さな呻き声が漏れる。


「なぜです! 召喚者として認められ、代償も捧げるというのに!」

「他者の命を奪う代償にはその子供の魂では足りん。今この場で代償となるのは汝の魂だけだ」

「っ!」

「それとも代償を支払わずに我を従える術を知っているか」


 相変わらず無表情のユーリの言葉にオッガストは思わず唇をかみ締めた。


(代償を支払わずに悪魔に願いを叶えてもらう方法を知っていれば、わざわざ子供を作るなどと面倒なことはしていない!! ファウストという人間がその術を知っていたというがその人物も結局は悪魔に魂を食われたそうではないか! それでは意味がないのだ! そもそもこの召喚に関しても、偶然見つけた魔本のとおりに実行しているだけだ! 考えろ! 考えるのだ! オッガストッ! 私はなんとしても奴らに復讐せねばならないのだ! 私の地位、名誉、資産、すべてを奪い、私に今、惨めな生活をさせている奴らにっ!!)


 オッガストが打開の策を考えている時、先ほど落とした衝撃で目覚めた赤子が大きな声で泣き始めた。


「おぎゃぁぁぁぁあ!!!」


 ただでさえ狭い地下室に赤子の声が反響して何倍もの音量になって響いてきたため、たまらずオッガストは耳を抑えた。同じように騒音を聞いているはずのユーリは魔法陣の中で平然としたまま瞳を閉じ、オッガストの回答を待っていた。


「ええいっ! うるさいっ! だまれ!! だまらんか!!」


 オッガストは赤子に向かって叫ぶが、それで鳴きやむはずもなく赤子は泣き続けた。

 耳を手で塞いで耐えていたオッガストだが、急に後ろを向き棚の方に歩き出すと床に落ちた短刀を手に取った。振り返り籠の中で鳴いている赤子を見るオッガストの顔は怒りで真っ赤になっており、息づかいも先ほどより荒くなっていた。


「うるさいやつめ。代償にもならず、私の邪魔をするか!!」


 オッガストは激しく震える手で短刀を大きく振りかぶる。


「せめて、私の怨みを少しでも和らげる糧となれぇ! このゴミがぁぁぁ!!」


 叫び声とともにオッガストは短刀を赤子、自らの子に向かって振り下ろした。


「――っ!」


 肉を貫く音が地下室に響く。

 赤子の泣き声は止み、ただ肉を貫く音だけが壁に反響して響いた。そしてしばらくすると小さなうめき声が聞こえてきた。


「うっ……あ、がぁ……」


 オッガストの手から短刀が落ち、床で跳ねる。床にはまるで赤いじゅうたんのように血が広がっていた。


「な、なぜぇ……」


 絞り出したかのように声を出し、オッガストは口から大量の血を床に吐き出した。

 オッガストは自身の腹部に突き刺さっている槍のように変化したユーリの片翼を見た。

 魔法陣を一瞬にして突き破ってきたユーリの片翼がオッガストの体を深く貫き、致命傷を与えていた。


「な、なぜです……ユ、リー」


 ユーリはオッガストを貫いていた片翼を戻すと翼に付いた血を払うように大きく一度羽ばたかせた。翼から発生した風はオッガストの身体を勢いよく後ろに飛ばし壁に激突させた。風に煽られオッガストの足元にあった籠も同様に飛ばされる。壁に激突したオッガストは前のめりに倒れこむとそのまま動かなくなった。

 ユーリはオッガストが倒れると同時に消えた魔法陣の中から足を踏み出すと、動かなくなったオッガストを横目に飛ばされた籠を持ち上げた。


「…………」


 籠の中の赤子は壁に激突したショックで気を失っているのか、声も出さずに動かない。ユーリはゆっくり赤子を気遣うように手を赤子の胸に当てると、暖かい体温とともに確かな生命の鼓動がユーリに伝わってきた。ユーリは赤子が生きていることを確認すると籠を持ったまま地下室の扉を開けた。


     ※


 同時刻。教会の聖堂に二人の男女の姿があった。二人とも初老といえる風貌で何度も手で空に十字を切っては手を合わせては、目の前の聖マリア像に祈りを捧げていた。


「主よ。どうか私たちの願いをお聞き届け下さい。私たち夫婦は、いまだ子に恵まれておりません。どうか私たちに子をお授け下さい。主より受けし愛を子にも捧げると誓います。どうか、どうか……」


 夫婦はこの数十年、毎日のように神への祈りを捧げていた。雨の日も、雪の日も必ず祈りを捧げていた。

 既に二人が夫婦となり二十年以上が経つというのに、一度も子が恵まれることはなかった。もちろん医者にも相談したが、別段二人の体に異常はないと言われた。運がないだけ、いずれ必ずと夫婦の周りの人々は優しく言ってくれるが、夫婦の不安は少しも無くなることはなかった。

 夫婦はいつものように祈りを捧げ、教会の扉を開け外に出ると目の前にある階段の下になにやら籠が置いてあった。夫婦が来た時にはなかったものだ。夫婦はなんだろうと疑問に思っていると、籠の中から大きく元気よい赤子の声が聞こえてきた。その声を聞いた瞬間、夫婦は我先にと籠の元に駆け寄って籠の中を覗き込んだ。籠の中では赤子が自分はここいるということを知らせるように大きな口を開けて泣いていた。


「ああ、主よ。ありがとうございます……」


 夫婦は赤子を抱き上げ、優しく抱きしめると天に向かって感謝の祈りを捧げた。

 歓喜の表情を浮かべる夫婦の背後、教会の屋根から何かが飛び立つ音がしたが元気な赤ん坊の声を聞いている夫婦の耳には届かなかった。

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