第15話 余韻と魚料理

店の閉店作業を行いながら凜は昨夜のことを思い出していた。一緒に食事をしたあの時間、高校生の頃には壊すことが出来なかった壁が消えてなくなったかのような時間だった。それがたまらなく嬉しかった。その上、帰り際にはまた食事に誘っていいかとも聞かれたのだ。勿論、答えはOKだ。

「どうしよう、このまま付き合おうなんてことになったら・・・」

どうしようと口にしながらも1ミリも困ってなどいない。どうしよう、と思うのはむしろ、付き合ったら田丸

に触れることになるであろう日を想像して、欲求不満が加速しそうだということくらいだ。


 正直言えば凜は浮かれていた。高校生時代ずっと想っていた田村と急に距離が縮まったのだ。あの頃の気持ちが蘇るのに時間はかからなかった。

「ふぅ、終了っと。今日はなんか楽しく仕事したなー。ありがとうございました!!」

いつも通り頭を下げるとメールの着信を告げる音が鳴った。


【昨日はありがとう。楽しかった。25日に近くまで行くからまた一緒にご飯でもどうかな?】

メールの内容を読めば意識せずとも顔が綻んでしまう。直ぐに返事をしようとして躊躇った。返信スピードが速すぎれば、凛の気持ちが透けてしまうような気がしたからだ。

「もう少し経ってから返信しよう」

部屋に戻ろうと階段を上っている途中でまたメールの着信音が鳴った。


【魚買ったんだけど、調理法がよくわからなくて。これからそっち行っていい?】

魚?私も魚の調理、そんなに得意なわけじゃないんだけどな・・・。でも、ハルトよりは数段マシか。

【いいよ。今から10分後、PC起動して準備しておくね】



きっかり10分後。

「これ魚です」

画面から手と頭を生やしてハルトが渡して来た魚を凜は両手で受け取った。

「でかっ!」

焼き魚にする程度の大きさを想像していたがハルトが持ってきた魚は40センチはある。料理できない人がなぜにこのサイズを買ったのか、と疑問に思う程だ。

「刺身が食べたくて」

無表情に見えるが目の輪郭がいつもより丸みを帯びている。猫が上目使いに飼い主を見る時の様な雰囲気だ。こんな顔をされるとやはり凜は甘くなってしまう。

「ブリか。私も捌き方はよく分からないから、ネットで調べるよ!共同作業だからね。魚臭くなるときは一緒だ」

ふんっ、と鼻息を荒くするとハルトが微笑んだ。



「うぎゃっ、鱗、顔に飛んだ!」

「こっち向いて」

ハルトが凛の顔をテッシュで拭く。その姿は外科医と看護師のようだ。

「次はえら蓋のところに包丁の先を入れてくるっと回して鰓を切り離す」

「え、なにそれ、どういうこと?」

ハルトが凜の目の前に携帯電話を差出し、凜が動画を見やすいようにした。

「なるほど。こうね。げ、血が跳ねた」

文字通り悪戦苦闘して半身を刺身に、ぶりのカマは塩を振って冷凍、他の部分は切り身に、粗はブリ大根用に冷凍した。食卓にはブリの刺身とワカメと豆腐の味噌汁、キャベツとキュウリの浅漬けに牛蒡のサラダが並ぶ。

「美味しそう」

ハルトが呟いた。目が少し細くなっていたから喜んでいるのだろう。無表情ながらも微妙に変化する表情を凜は読めるようになってきていた。

「そういえばこの間の件だけど・・・何もしてないよね。一緒に寝ようって誘ったけど、それ以上はしてない」

凜には確信めいたものがあった。

「ちゃんと考えたんだ」

「うん、まぁ。酔っ払ったからと言って私は人を襲ったりしないし、ハルトも酔っぱらいを襲うようなことはしない」

私を襲う程女の子には困って無さそうだし・・・とも思ったが、声には出さなかった。


「ふぅん、そうかな。キスくらいはしたかもよ?」

思わずハルトの唇に視線がいき、ドキッとして目を逸らした。

「もう、そんなこと言ってからかわないでよ。そうだ、残りの魚どうする?家に持ってく?」

「凛の家に置いておいて。食べに来るから」

「いいけど、仕事は忙しくなくなったの?」

「うん、俺の部分は大概撮り終えたから、一般的なサラリーマンよりも時間あるかも」

「ドラマいつから放送されるの?」

「来月からかな。あ、でも凜は観なくていいから。恥ずかしいし」

「そう言われると観たくなるんだけど」

「・・・・・・」

ハルトは無言でご飯を口に運んだ。凛の言葉を無視したわけではないことは凛には分かっていた。ほんの少し、一瞬だけ眉間に寄った皺が言葉を探して見つからなかったという事なのだろうと察しがついていたからだ。

くすくすくすっと凜が笑うとハルトは不服そうに頭に手をやった。

「・・・明後日、残りのブリを食べに来てもいい?」

「明後日はちょっと、用事があるんだよね」

「用事?珍しいね」

「私だって友達とご飯行ったりするんですー」

凜が田丸を思い出して無意識に頬を緩めていると、ハルトが「ごちそう様」と食器を重ね始めた。

「その友達って男?」

「え?あ、うん、まぁ」

ハルトは凜を見ようともせずに「そう」と言った。

「くれぐれもお酒は飲まないようにね」

そう言って凜を見たハルトは出会った頃に凜が見たような何も読めない無表情だった。





ハルトが帰った後、凜はお茶を飲みながらテレビをつけていた。観ていたのではなく、音寂しくてなんとなくつけていたのだ。テーブルの上にはコピー用紙と鉛筆。お正月用にプチケーキのセットでも期間限定販売しようかと思い、そのデザインを考えているところだ。

「9個のうちあと1個なんだけどなぁ」

お正月、家族が揃う。家族が揃ったらお正月だしケーキでも食べようか、となる。もしくは、友達同士で年越しパーティー。きっとケーキが苦手な人もいるだろう。ならば一つくらい、ケーキが苦手な人が食べられるようなものがあってもいいのではないか。そんなことを考えて、あと一つをなかなか決められずにいた。


「ゼリーっていうのも面白みがないよなぁ」

うーっと声を漏らすとテレビから軽快な音楽が聞こえ視線が画面を捉えた。

【ほら、あーん、して】

「あ・・・」

凛の口があんぐりと開いて固まる。画面いっぱいに映し出されたのはハルトの笑顔だった。

【美味い?】

【でしょ】

でしょっと言った時にはハルトの笑顔は得意げで、不敵な笑みに代わる。

「チョコレートのCM・・・。ハルト、CMにまで出るようになったんだ。すごい・・・」

画面に映るハルトはドラマの康太の真っ直ぐな若さとも違い、凛の家に来る無表情のハルトとも違い、少し俺様な現代版の王子様のようだった。


王子様・・・。

「そうか、立体のアイシングクッキーはどうだろう。立体的なやつ。生クリームは使わないから生クリームな苦手な人は食べられるだろうし。小さなウエディングケーキみたいなイメージ」

ザザ―と脳内に映像になってクッキーの姿が下りてきて凜は慌てて鉛筆で書き留めた。




「ちょっと宜しいですかの?」

一通りケーキのデザインを書き殴り大きく伸びをしたところで、リックの声がした。

「いいけど。珍しいじゃん。夜ご飯はとっくに食べ終わったよ」

携帯を見ると時間は21時だ。

「ちょっと緊急事態でして」

「緊急?どうしたの?」

「私ではどう慰めていいのやら・・・。相談者を連れてきておりますが宜しいですか?」

「うん、いいけど」

リックは凛の許可をとると鏡の中に頭だけ突っ込み、「さぁ、おいで」と優しい声を出した。


リックに次いで現れたのは長い耳のウサギ、リックと同じ姿をした女の子だ。

「私の娘でございます。人間で言うと二十歳になりましょうか・・・」

なるほど。娘だから特別待遇なのね、と凜は思った。普段はもう少しビジネスライクなリックが娘には甘いのだと思うとほっこりとした気持ちになる。

娘はワンピースをぎゅっと掴み、時折天井を仰いだ。涙を我慢しているのだ。

「凛様、話をどうかきいてやってください。私は少し離れた所におりますので」

リックの言葉に凜は頷いた。


「とりあえず、お茶でも飲む?」

娘は目を押さえながらもコクリと頷いた。



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