マルアジ
刻々と赤色を濃くしていく夕暮れの教室。
開いた窓から飛び込んでくる野球部員の野太い叫び声、吹奏楽部の練習の音、何かを訴える女子生徒のヒステリックな声。
心臓が急に激しい運動を始めて、気持ちを静めようと努める。
わたしはベビーブルーのペンポーチから、カッターナイフを取り出した。
右手でカッターナイフを握って、左手首に刃を押し当てる。
思いきり深く切り込み、財布の口を開けたようにパックリと皮膚が裂け、赤い肉が覗いた。
「かわいそう」
ふゆくんは自分の愛する美術品を鑑賞するかのように目を細める。
赤い雫が溢れる新たな傷口に触れないように、塞がった傷痕でボコボコの左手首を指の腹でやさしく撫でた。
「依未ちゃんってマジでどうしようもないくらいメンヘラだな。こんな切るか?フツー」
「うん。わたしってメンヘラだよ。ふゆくんがいないと生きていけないの。きみに依存してる」
「かわいそう。なんかちょっと怖えわ」
「えへへ。ふゆくんがいっとう大好きだから」
「ふーん……」
つまらなそうに目を逸らしたふゆくんに、心臓の辺りがくさくさする。
なんでなんでどうして?もっとちゃんとわたしを見てよ。
踏み込むことを辞められたのだなと手に取るように分かってしまう。
「ふゆくんは、わたしのこと好き?」
「……」
ほんの一瞬の暗い沈黙の後、ふゆくんはおかしそうな笑い声をあげた。
「そんなこと聞かれてもさぁ……じゃあ、依未ちゃんはどうなんだよ。僕になんて言われたいんだよ。僕も好きだよォとか上っ面だけでも言われたいのか?」
「うん」
わたしは食い気味に短く答える。
「あっそう」
ふゆくんは不快そうに顔を顰め、ぺろりと舌を出した。
熟れた苺みたいに真っ赤で、平均よりも長い舌は蛇を思わせる。
「きらいだよ、って言ったらあなたはどうする?」
思わず、ビクッと肩が震えてしまった。
ふゆくんはエメラルドの双眸を細め、小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべている。
過去の選択の正しさも、これからやるべき行動すらもわたしにはよくわからない。
ただ確信できているのは、甘い匂いを纏う目の前の男こそが、まぎれもなく、わたしの運命だということだけなのだ。
きみに見捨てられたら、生きていけない。
わたしはギュッと目を閉じた。
緊張のせいで、ドキドキと鼓動が早くなる。
叱られるのを怖れる小さな子供の様に、膝の上で両手を握り締めて俯いてしまう。
「はあ……馬鹿じゃねーの。大丈夫だよ。僕はちゃんと好きだよ」
おそるおそる顔を上げる。
片腕を伸ばされて、わたしの頭を軽く撫でてくれた。
「依未ちゃんって、やっぱり怖いね。一緒にいるとマジで頭おかしくなりそう。授業中ずっと見つめてくるし、正直不気味だわ。そのくせ束縛は思ったよりしてこないし、他に男でもいるのか?」
「……いないよ?わたしはふゆくんだけを愛してるから」
ふゆくんはにこりともしない。
わたしを映す深緑の瞳の中に、憎悪の昏い光を見たように思い、ドキリとした。
わたしの胸の内に込み上げるこの感情は、どんな言葉で表せば適切なのだろう。
依未ちゃんにとって僕は都合の良いぬいぐるみなのかな、とふゆくんが言ったことがある。
どういった経緯だったかは忘れてしまったけど、大型台風が通り過ぎた直後のことだ。
台風がすべてを攫ったのか、前日の豪雨が嘘のように、風もなくて、雲もなくて、少しばかり冷たい澄み切った空気の中、抜けるような青空が頭上に広がっている。
わたしは中間試験の疲労のために焦点の合わない視界で、学校の屋上からぼんやりと街を眺めていた。
子供はだいたい一度はぬいぐるみが友達だった時期があるよね。
おもちゃ屋で山のように積まれた量産型のぬいぐるみを吟味して、子供は目についたお気に入りを掴み取る。
泣きながら売り場に座り込んで、親にどうしても買って欲しいんだと必死にねだったりしてさ。
ぬいぐるみって、表面はふわふわしてて抱き心地が良くて、プラッチックの眼球は撫でるとツルツルしてる。
掴むと中の綿がみっちり詰まって、意外と硬かったりするよね。
子供はぬいぐるみを連れて歩いたり、都合の良い話し相手にしたり、抱きしめて一緒の布団で寝たりする。
きちんと手入れをしたら長持ちするらしいけど、大半の人間は大人になると昔の思い出として捨ててしまうんだろう。
ぬいぐるみは一人じゃどこにも行けないのに。
持ち主に所有されて、肉体を連れ回されて、何度も感情を弄ばれるってどういうことだろう。
なあ、あなたにぬいぐるみの気持ちが分かるかな。
いや、あなたには分かんないだろうね。
あなたにとっての僕はぬいぐるみなのかな。
ふゆくんの筋張った指が煙草へと伸びる。
ためらいがちに人差し指を立てると、ひしゃげた開封口はこちらを向いた。
一本のタバコを抜き取って咥えれば、銀色のライターを渡される。
ふゆくんは試すような目つきでわたしを見ていた。
もたついた手つきでライターを鳴らし、火をつける。
わたしの吐き出した煙は、ペンキを零したような青空へと溶けていく。
ふゆくんの横顔にはかすかな苛立ちが覗いていた。
「依未ちゃんはさ、なんで僕の言うことなんでも聞くの?自分の意思とかねーの?」
「ふゆくんが好きだから……それに、ふゆくんの言うことっていつも正しいもん」
「はぁ?何されても嬉しいですーってか?依未ちゃんってマゾなの?」
「わん!」
「うわ、キッショ。何それ、犬の真似?引くわー……」
「わんっ、わんわん!わん!」
「ああ、もう。はいはい……」
ふゆくんはライターをしまうと乱暴にわたしの頭を撫でる。
低い声は、甘ったるくて優しかった。
空中に霧散する気だるい煙と、きちんと締められたネクタイがアンバランスで似合わない。
腕にもたれかかると、自然に肩を引き寄せられる。
目を閉じて、ふゆくんの身体にまとわりつくタール混じりの甘い匂いだけを大きく吸った。
すきすき、ふゆくん、あいらぶゆー。
わたしがにへにへと笑いながら頬をすりつけると、今度は大きな溜め息を吐かれる。
「でもさぁ。依未ちゃんは、依存できるなら誰でも良かったんだろ。そんな薄っぺらい感情を、僕は愛とは思わない」
「なんで?わたしはふゆくんが大好きだよ。世界一愛してるんだ」
「どうかな……」
ふゆくんは眉間に皺を寄せて、ちょっと不機嫌そうな顔をしながら、タバコを地面に落としローファーで執拗にもみ消した。
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