かわいいあの子はウオノエ系

ハビィ(ハンネ変えた。)

本編

サヨリ

奪うことは与えることだと言った人がいた。

与えることは奪うことだとも。

世界がキラキラと白く光って、同時に破裂するような音がした。

窓は網戸で、水色のカーテンが風にあおられて、ひらひら踊っている。

網戸から、雨が振り込んでいた。

窓を閉めなければいけないのに、身体は一塊の土くれみたいで、指一本動かせない。

お父さんが部屋に入ってきて、窓とカーテンを閉める。

無精髭のせいだろうか、昨夜見た時とは見た目の雰囲気がちょっと変わっていた。

少し、老けている?

おとうさぁん……。


何故だろう、声が上手く出せない。

気配を感じたのか、お父さんはわたしの方を振り返った。

お父さんは目を皿のようにして驚く。

それから、お父さんは二本の電話をかけた。

一本は病院で、もう一本は誰かの家だ。

ぼんやりと天井を眺めていたら、わたしは今いる場所が自室だと気づいた。

外は激しい嵐になっている。

玄関の方からバタンガタンと騒がしい音が聞こえて、やがて一人の青年が部屋に入ってきた。

走ってきたのか、彼の息は弾んでいる。

高そうなスーツはずぶ濡れで、雨粒で湿った黒髪は頬に張り付いていた。

彼はわたしの元にまっすぐ向かってくる。


フローリングの床に膝をついて、がくがく震えながら浅い呼吸を繰り返していた。

濡れた瞳で、意識すべてを伝えようとするかのようにじっとわたしを見て、言う。

「依未(えみ)ちゃん、依未ちゃん依未ちゃん依未ちゃん依未ちゃん。愛してる、依未ちゃん愛してるよ、愛してるよ、愛してる。愛情を試したりして悪かった。意地悪を言って、暴力を振るったことも間違ってたと思う。僕がもっとちゃんと大切にすれば良かった。依未ちゃんは何にも悪くない。許してなんて言えない。これからは僕があなたの面倒を見る。誓うよ。ずっと、ずっとずっとずっと愛してるよ」

頭の中はぼんやりとしていて、思考が上手く働かない。


ただ一つ、わかることがあった。

わたしは、賭けに勝ったということだ。

「世界はね、依未ちゃんが眠っている間に七年の月日が流れたんだよ」

次の日の朝、外の空気は澄んでいた。

半開きの窓から吹いた生ぬるい風が、頬を撫でさする。

ベッドに腰かけて、カレンダーを見ると年号は令和という見慣れないものに変わっていた。

彼はしゃがんで自分の腿の上に、わたしの足首を乗せ、膝下全体を支える。

壊れ物を扱うような手つきで、この上なく丁寧にわたしに触れた。


窓から差し込む光で、爪切りの金属部分が白く輝く。

ぱちんぱちんと音を立てながら、わたしの爪を切った。

彼はひどく優しい顔をしている。

「依未ちゃんは可愛いね。大好きだよ」

甘い風のような昔の記憶が脳裏に蘇って、突然大きな手のひらで、乱暴に掴まれたかのように呼吸が苦しくなった。

なぜだか、自分でもわからないのだけれど、涙が溢れてしまう。

彼は不思議そうにわたしを見た。

「痛かった?ごめんね……」

骨ばった指先で、わたしの足の甲を撫でる。

わたしは七年間もの間、遷延性意識障害……いわゆる植物状態だったらしい。


千九百七十六年、日本脳神経外科学会は、遷延性意識障害の診断基準として六つの項目と、さらにそれら六つを満たす状態がいついかなる医療努力によってもほとんど改善されずに、三ヶ月以上持続した患者を遷延性意識障害者と定義した。

植物状態の診断基準は以下の通りである。

その一、自力で移動ができない。

その二、自力で摂食ができない。

その三、屎尿失禁状態にある。

その四、眼球はかろうじて物を追うこともあるが認識できない。

その五、声を出しても意味のある発言は全くできない。

その六、目を開け、手を握れなどの簡単な命令にはかろうじて応ずることもあるが、それ以上の意思疎通は不可能である。


遷延性意識障害は数ヵ月継続した場合、回復の可能性は皆無に近いと言われている。

わたしの場合は屋上からの飛び降りで入院になってから、ちょうど三ヶ月経過した辺りで退院を迫られたらしい。

家族一丸となって転院先を探したが受け入れ先は中々見つからず、最終的にわたしは自宅療養に移ることになったのだ。

お父さんとお母さんは在宅介護の孤独や不安と必死で戦っていた。

国外問わず回復した症例のブログやニュースを心の支えにしていたという。

極わずかな確率ではあるものの、長い眠りから目を覚ます人間もいる。

わたしも、その一人だった。


今のわたしの肉体の世話は、とにかく手間がかかる。

目が覚めたあとも、全身は重く痺れているようで満足に動かすことができず、移動には車椅子が必須だ。

流動食を飲み込むことはなんとかできたので、食事の時間になると誰かが食べさせてくれる。

父親と母親と時々親戚の人、加えて休日になると目の前の男がわたしの世話をしていた。

垂れ下がったまなじりが優しそうで、甘ったるい綺麗な顔をしている。

彼の名前は舟橋雪緒(ふなはしゆきお)。

わたしこと、魚野依未(うおのえみ)の高校時代の同級生で、恋人。

わたしは彼を「ふゆくん」と呼んでいた。


ふゆくんに、わたしのぜんぶあげる。

七年前の秋、ふゆくんへの愛情を証明する為にわたしは高校の屋上から飛び降り未遂をした。

どれだけ理不尽な目にあっても、甘ったるい夢に犯された脳髄では奴隷に堕ちるのが相応しい。

わたしにとって、恋はそういうものだった。

魂の根までとろとろになって、ぴったり隙間なくくっついて、混ざり合えたら良いのに。

きみがいるから此処が最果て、運命みたいでうつくしいでしょ。

七年の時を経て大人になったふゆくんは、とても幸せそうに見えて、ちょっと不思議だ。

「ふ、ゆくん……」

「なあに、どうしたの?」


低い声は、なにか面白がっているように、少し震えていた。

ふゆくんは、いつも上機嫌そうに笑っている。

その豹変ぶりはわたしを安堵させるより、わずかな不安を煽り立てた。

だってわたしの知るふゆくんは、わたしの前ではいつだって不機嫌そうな顔をしている。

今とはまるっきり雰囲気が違っていたのだ。

「わたしのこと、殴らなくていいの」

自分でもおどろくほど心細そうな声になった。

ふゆくんは傷ついた顔をして、うなずく。

「もう殴ったりしないよ……するわけない、できるわけない……」

わたしの爪を切り終わると、ふゆくんはわたしの肩に腕を回してやさしく抱き寄せる。

「依未ちゃん、結婚しよう。死んで骨になっても、ずっといっしょにいようね」

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