第2話 美織スピードダッシュ(3)

[3]

 翌日から、悦子お姉さんたちの研究が始まりました。

 研究室には、美織の骨格だけからなる模型が置かれ、頭部にジャイロとCPUが取りつけられました。

 エンベッド方式です。

 もちろん、それだけでは美織と同じにはなりませんから、各部には重しをつけて重量分散を再現しています。

 美織は、もちろん、シミュレーションでも、模型実験でも、きちんと立って歩ける事が実証済みです。

 そして、今回も、エンベッドに想定される力を加えても、十分な安定性があるのでした。

 悦子お姉さんは、ガクンと膝を折りました。

「モデルが現実を再現していない‥‥。ううん! モデルに余裕がないんやわ」



 次に、悦子お姉さんたちは、エンベッドに、さらに二つのジャイロを追加しました。

 元々あった両耳のジャイロに加えて、前頭部と後頭部です。

 CPUの処理にも十分な余裕があります。

 もちろん、エンベッドはしっかりと立っています。

「これで、ええんやない?」

 悦子お姉さんは、狩野さんらに言いました。

「そうですねぇ」

「ええと思いますで」

 プロジェクトのクルーたちも口々に言います。

「よし! 狩野君、この方針で美織の改造プランを立ててくれる?」

 悦子お姉さんが言った時、ドアが開き、数人のおじさん達が入って来ました。

「最近、調子が上らんでねえ!」

「でも、課長は250は飛びますやろう?」

「いやあ、パットがどうにも沈まんで」

 口々に話しながら、手にしたフラットファイルで扇いだり、丸めて素振りをしたりしています。

 そうして、彼らがドスンと椅子に腰掛けた時、エンベッドがグラリとバランスを崩したのでした。

「うそオ!!」

 悦子お姉さんは、ほとんど反射的にエンベッドの頭部を抱き止めましたが、エンベッドは、その腕の中で正体なく崩れていました。

「嫌やあ!! 美織、倒れんといてぇ!!」



 その次の日の夕暮れ、悦子お姉さんは、机でうつ伏せになっていました。

 その日、机では、いくつもの図面が、描かれては破かれ、描かれてはくしゃくしゃに丸められしたのでした。コンピュータの画面には、数え切れないほどのウィンドウが開いていました。

 そうして、夕方、悦子お姉さんはヒラメになっていたのでした。

 一体のロボットが、すーっと近づいて来ました。

「浪江主任、お疲れですか?」

「そうやなあ。わたし、疲れて見える?」

 悦子お姉さんは、机に突っ伏したまま、顔だけロボットに向けて言いました。

「はい。とっても」

「なら、良かったわ。あんたの目ぇは正常やわ」

「お茶でもお持ちしましょうか?」

「ううん。今はええ。向こうに行っててええよ」

「分かりました」

 ロボットは、そう言って、すーっと下がって行きました。

 悦子お姉さんは、髪をクシャクシャにかきむしりました。

「あのスムーズさが、美織にも欲しいんやー!!」

 与えられない理由は明らかです。美織の足が小さいためです。二足歩行をしなければならない特殊事情のためです。

「二足歩行でも構へん。美織の足が40センチあれば、ううん、せめて30センチあれば。けど、おばさまが許してくれへん!」

 腕に顔を埋めてしまいました。

 ふと気配を感じて顔を上げました。

 机に、一枚のチラシが置かれています。「村越製作所」の文字が目に入りました。

 体を起こして振り返ると、部長が、身じまいをして帰るところでした。

 村越製作所は、日本で最高性能のジャイロセンサーを製造する会社です。

 チラシはその新製品のパンフレットでしたが、でも、大きさがコブシ大もあるのでした。

「これでは、美織の耳には入らへん‥‥」

 でも、悦子お姉さんは、それを見ている内に、次第に生気を取り戻して行きました。

 昔聞いたバカらしいような格言が脳裏に甦ったのです。

「『足してダメなら引いてみ』や!!」

 悦子お姉さんは、電話機に手を伸ばして、番号をプッシュしていました。



 次の日、悦子お姉さんは、研究室にデザイナーの飯森さんを呼びました。

 美織に、村越製作所のジャイロセンサーが搭載できないかを検討するためです。

「ジャイロを増やすんやない。大きなジャイロを一つ搭載するんや!」

 美織の頭部には、様々な制御装置やセンサーが搭載されています。でも、それらの一部を胴体に移せば、大きなジャイロが搭載できるはずでした。

 しかし、端末に設計図を呼び出して検討した結果、飯森さんは、

「ダメですね」

と言いました。

 大きなジャイロを頭部に積めば、その分、頭が重くなります。却って不安定で倒れやすくなるかも知れないと言うのでした。

「まあ、ひっくり返りますね、間違いなく」

 悦子お姉さんは、ストンと椅子に崩折れてしまいました。



 それでも、その日、悦子お姉さんは、村越製作所のチラシをぼんやりと眺めていました。

 村越製作所のトレードマークは、意匠化された飛行機です。

 それは、単純に図案化されているため、紙飛行機のようにも見えます。

 はたと、脳裏に閃きました。

「狩野君!! 『風立ちぬ』や!!」

 叫んで立ち上がっていました。

「は?」

 別の作業をしていた狩野さんが振り返ります。

「堀越二郎さんや!! 知らんの? ゼロ戦を作った時、機体の軽量化のために、骨格に穴を開けたやろ? あれや!!」

 ただちに、美織の骨格に穴を開ける検討に入りました。

 コンピュータに美織の頭部骨格図を呼び出します。

「でも、主任。穴開けたら、強度が落ちますやろ?」

「だから、強度は残して開けるんや。まずは、ここや」

 悦子お姉さんが指示したのは、側頭部です。

 コンピュータ上で穴を開けて、同時に強度計算をします。強度を落とさない範囲で穴の大きさを決めます。

 次は、後頭部の左右2箇所、頭頂部を囲むように4箇所、更に、冠の様にぐるりと16箇所。左右の頬骨にそれぞれ大小2箇所。

 穴の位置を考え、強度が落ちない事を確認します。

 そうして、もうこれ以上、穴を開けられる箇所がないとなった時に、悦子お姉さんは尋ねました。

「で、どれくらい軽うなった?」

「えーと‥‥。2グラムです」

 狩野さんが答えました。

「に、2グラム?」

「はい。正確には2.017グラム。美織たちの骨格は、元々軽いですから」

 悦子お姉さんの目の前で、床と天井がぐるりと回りました。

「わーっ、主任!! しっかり!!」

 狩野さんが悦子お姉さんを抱きかかえ、ロボットが飛んで来て、扇子でパタパタと顔を扇ぎました。



 翌日は、祝日でした。でも、近江工業の工場には、悦子お姉さんの姿がありました。

 だけど、机には向かっていても、悦子お姉さんの脳裏には、何の思考もありませんでした。

「万策尽きたワ」

 ただその6文字が、脳裏に浮かぶだけでした。

 午後、もう一つの言葉が、脳裏に浮かびました。

「事後処理をどうするえ?」

 美織を、おばさまのところから回収して、それから?

 分解して廃棄するの? あの可愛い美織を?

 それで、あんたは、どうするの?

 話題性に飛びついた、あんたの敗北や!!

 悦子お姉さんは、ぼんやりと、机の引き出しから事務便箋を取り出しました。

 ペンを取って、便箋に書きつけます。

「退職届」

 でも、手が震えてあとが続きません。

 ペンを机に転がしました。

 机の隅に、一本の扇子が置かれていました。

 少し大きい男物の扇子です。誰のかは分かりませんが、なぜそこにあるのかは分かりました。

 悦子お姉さんは、子供の頃、お茶、お華のほかに、日本舞踊を習っていました。しばらくやっていませんが、動きは覚えています。

「ふっ! 吊り書きとしては悪うないやない。和美さんにお見合いでも世話してもらおか‥‥」

 悦子お姉さんは、扇子を取って、椅子から立ち上がりました。

 誰もいない部屋は、にわかに薄暗くなっていました。

 しばらく晴天が続いていましたが、今、西の空には黒雲が湧いて日は陰り、雲のふちが赤黒く燃え上がっています。

「いっそ、嵐でも来て、お茶会も何も流れてしまったらどうやろ?」

 悦子お姉さんは、扇子を腰に差し、床に腰を沈めた姿勢から舞い始めました。

 『竹生島』です。

 琵琶湖に浮かぶ小さな島に、弁天様が祭られています。都から参詣に下った若者の前に、神の化身した娘と老爺が現れ、若者を迎えて道を案内してくれたという、のどかで雅びな舞です。

 三味線も地唄もありませんが、脳裏に起こる音曲に乗って、悦子お姉さんは舞いました。

 入社したその春に、同期入社の皆で竹生島に出掛けました。

 春の暖かでキラキラした湖水が、島の若葉が、若かった悦子お姉さんたちのキャリアの旅立ちを祝福していたかの様でした。

 扇子を広げ、腰を決めて止まって、悦子お姉さんは一差し舞い納めました。雲間から夕日が差し込み、一面が黄金色に染まりました。

 その時でした。天啓が舞い降りました。

「腰や!!」

 悦子お姉さんは叫んでいました。

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