第26話 ヴォージュの森
この話の主な登場人物
カトリーヌ 主人公(わたし)
フランツ 護衛
ヒルダ 家庭教師
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そのとき森が少しだけ開け、遠くに別の馬群を見た。
たいまつを焚いて、その火の帯が見えたのだ
それが複数ある。
集団の一つは森の入り口に、他は森の出口など他方に向かっている。
本格的な追尾が始まったことが分かった。
「追っ手が増えた。さ、ヒルダ嬢、御者を代わろう」
フランツが手綱を引き取り、馬車は軽快に森の中を走っている。
「でも、どうします。当初の予定では大河を渡るはずだったのに、それができないとか」
ヒルダが不安そうな声をあげる。
「わたしの故郷に向かいましょう」
フランツが前を見据えたまま言った。
「え、フランツ殿の故郷って、それってどこなんですか?」
「わたしは本来この国の生まれではありません。北の大国ゲルマニア、そこのヴュルテンベルグ公国の出です」
「ゲルマニアって、あの軍事大国の」
ヒルダが確認する。
「はい」
「ヴュルテンベルグって、ゲルマニア最大の公国家」
「いかにも」
「わがエルザス国の長年の仇敵である、ゲルマニア、それがフランツ殿の祖国」
「そう言うことになりますね」
「ええーっ、つまりフランツ殿は敵国人ってこと!」
「敵国人はひどい」
そうフランツは苦笑した。
わたしもくすくすと笑いが堪えられなかった。
「お嬢さま、このことを知っていたんですか」
「ええ」
「わたしだけ知らなかったんだ。ちぇ、フランツ殿も人が悪い、教えてくれないんだもん」
ヒルダが口を尖らせてすねてみせる。
「ごめんな、ヒルダ嬢。でもね、秘密にしていたのではないんだ。それに、その、あまり言うべきでもないことでもあるので、自ら人に語っていないだけ。こんどちゃんと説明するから」
わたしはその理由が分かっている。
フランツのゲルマニアとわたしの居るエルザスとは古くからの仇敵同士だったからだ。
一時的に和解や同盟を結ぶことはあっても、それが長続きしない。
フランツを知る人は、そのことで彼に敵意を向けることはない。
だけど希にゲルマニア人というだけで批難する人は居るのだ。
それに彼の出自というか、わたしの国に居る経緯が、また、複雑だった。
「ともかく、そこへ向かいましょう。ゲルマニアなら追っ手をまくことができる」
「でもどのルートで向かいます? 一番通りやすい道はプルートが塞いでいる。そして山脈をずっと迂回するとなると、国の西まで行かねばなりません」
「山越えを考えている」
「フランツ殿、山越えなんて無謀な。だって三千メート級の山々ですよ、それをお嬢さまをお連れしてだなんて、そんな」
山越えは一見無茶なようだけど、一応はしっかりとした道が整備されている。
問題は気候の急変だ。
おだやかなら、まるで嘘のように軽々と通過できるが、一度荒れると手が付けられなくなる。
雪深い冬は当然としても、夏でも予兆もなく突風が巻き起こり、馬車を横転させたり谷底に落とすこともしばしばだった。
だから山越えを強行して無数のキャラバンが遭難している。
フランツはそれにかけようとしている。
だけどわたしは、もう一つ、隠れたルートがあることを知って、それを提案した。
「ヴォージュの森を行きましょう」
そのわたしの言葉に、ヒルダは口をあんぐりと開けた。
そしてその姿勢のまま凍り付いていた。
フランツも肩越しにちらとこちに振り向き、難しい視線を向けた。
「無茶ですよ! あんな所を通ったら命が幾つあっても足りません! お嬢さま、知らない筈がないのに、どうしてそんなことを」
ヒルダが大声を上げて否定した。
そしてその指摘は正しい。
その場所は唯一、山脈が切れて谷になっている。
形としてはプルートのある谷と似ている。
似ていないのは、その谷にうっそうとした森が広がっていることだ。
それがヴォージュの森。
そこに一歩踏み入れたらたちまちにして絶命すると言われる恐ろしい森だった。
だから近隣の人は誰も近寄らない。
そこを通過しようというのがわたしの提案だった。
「お嬢さま、お考え直しを。谷の森には周囲の山々から鉱毒が流れ込んで、それが沼になっています。そこから毒の臭気があふれ出し、それを吸い込んだらたちまちにして絶命、ほんのわずか吸い込んだだけでも肺が腐るという。そんなことは誰でも子供でも知っています、お嬢さまもご存じのはず。フランツ殿からも、お考え直しいただくよう仰ってください」
「ヒルダ嬢、まずはお嬢さまの話を聞こう」
わたしはそれを受けて理由を説明した。
「ありがとうフランツ。ヴォージュの森には、誰にも知られていない、もう一つの秘密があります」
「それはどんな」
「森に毒のない時間があるのです」
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