なにかがいる。
平中なごん
一 気配
これは、私の仕事仲間が学生時代に体験した話なんですけどね……まあ、そういう場所ってのは、表に出てこないだけで、じつはあちこちにあったりするんですよ……。
彼、仮にN君とでもしときましょうか……N君、地方の出身なんですが、とある東京の大学に受かったので、通うためにアパートを借りて、一人暮らしを始めることになったんですね。
とはいえ、賑やで人気のある都心部は家賃も高いし、特にお金持ちの家でもない彼は貧しい学生なわけですよ。
で、他の学生のご多分にもれず、不動産屋で手頃な物件を探していたら、ちょっと外れた郊外にある町にいいアパートを見つけたんですね。鉄筋コンクリ三階建ての小さなアパートの一階部屋です。
郊外とはいえ交通の弁も悪くないし、通う大学のキャンパスにもわりと近い。
何よりユニットバスじゃないバストイレ付きの1LDKで、築年数の割には見た目もさほどボロくはなかったんで、すぐにそこで決めたんだそうです。
入学・転勤のシーズンですから、早くしないとすぐに埋まっちゃいますからね。
まあ、彼にとっては親元を離れての初めての一人暮らしですよ。誰にも気兼ねなく自由を謳歌できるわけです。
イメージしてた東京の都心部とはちょっと違う、なんの変哲のない郊外の普通の町でしたが、N君はとてもワクワクした気分で、意気揚々とそこで一人暮らしを始めたんです。
ですが、引っ越したその日の夜から、もうすでに
手伝いに来た親と一緒に引っ越しの作業したり、ひと段落して、近所のコンビニで買ったお弁当を夕飯に食べたりしていた時はなんにも感じなかったようなんですけどね。
その夜、親も帰って静かになった部屋の中で、今日は引っ越しでだいぶ疲れたし、今夜は早めに寝るかあ…と布団を敷いて横になったんですが……なんだか、その部屋には自分以外にも誰かいるような気がするんだ。
でもまあ、ただの気のせいかあ…とN君はそのまま眠りについたんですが、それからしばらくして、真夜中にふと、枕元を誰かが通る気配がして目を覚ましてしまったんですね。
N君、
ですが、すぐに……あれ? いや待てよ? 俺は今日から一人暮らし始めたんだよな? ここに弟なんているはずないぞ? …と、その現実を思い出したんですね。
弟じゃなかったとしても、もちろん両親や同居してる祖父母もいるわけがありません。
じゃあ、今のはいったい…と、N君、その瞬間、全身にぞわぞわぞわぞわっと鳥肌が立って、背中に冷や水を浴びせられたかのように寒気を感じたんだそうです。
そこで、慌てて跳ね起きて電気を点けたんですが、ぐるっと部屋を見回してみても、当然、自分以外は誰もいません。
霊的なものだけじゃなく、泥棒とかの可能性も考えて玄関や窓の鍵も確認してみたんですが、どこも特に異常はない。
そうこうしてあちこち見て回っている内に、N君、だんだん落ちついてきて、こう考えるようになったんですね。
そうだよなあ。俺以外いるはずないんだよなあ……もしかして、意識してなかっただけで、本当は一人暮らしを淋しく感じていたのかもしれないなあ。それで、あんな夢を見たのかもしれない……なんだ、俺も意外と小心者だったんだなあ…と。
まあ、やっぱり引っ越しで疲れてたんでしょうね、その夜はそのまままた布団に入るとすぐに眠ってしまい、それ以上は特に何ごともなかったんですが……翌日以降も、どうにもおかしなことが続いたんです。
その部屋には、やっぱり自分の他にも何かがいる気配がしてならないんですね。
それも、夜だけじゃなく昼間もですよ。また、寝ている時だけでなく、食事をしていたり、家事をしてたり、テレビを見てたり、本を読んでたり……何かしている時にもふと、背後でそんな気配を感じるんだそうです。
それでも最初はそんな気配がするだけだったんで、彼もただの気のせいかなあ…と半信半疑だったんですがね、それが日を追うごとに、ただの気配だけじゃすまなくなっていったそうです。
ミシミシ、バキバキ…と、時々、ラップ音が聞こえるようになる……いや、時々じゃなく、やがて頻繁に聞こえるようになってくるんです。
いや、それだけじゃない。寝ていると、入居した初日の夜のようにまた何かが枕元を通る気配がするんですが、今度はズスズ……ズスズズ…と、床を擦って移動する音も聞こえるんだ。
足音じゃなく、ズスズ……ズスズズ…と、何かがフローリングの上を擦って移動する音なんです。
その音からして、足で立って歩いてるんじゃないとすれば、身体をぴったり床につけて、蛇のように這って床を移動しているのか……。
そして、ついには気配や音だけでなく、N君はその正体らしきものをその目で見るようにもなってしまったんですね。
その夜も、テレビを見てる最中に、やはりこれまでと同じように気配を感じてパッと背後を振り返ってみると、そこの電気は点いておらず、自分が今いるリビングの天井から下がる明かりだけで照らされた薄暗い台所の隅に、なんだかもわ〜んと、黒い
大きさは人間の大人が
ただ、半透明でわずかに後が透けて見える黒いものがそこにいるんです。
それがまた、ズスズ……ズスズズ…と、床を擦りながらゆっくり移動している……。
でも、見ていると、どうやらN君のことを気にはしていない様子で、台所を右から左へと、ゆっくりゆっくり横切って、すうっ…と闇に溶けるようにして消えていったんだそうです。
そこでね、N君、ふと気がついたんだそうです。
それまでにもしてたんでしょうが、この時までは特に関係づけて考えてはいなかったそのことに。
池や沼の臭いっていえばわかりますかね? 泥臭いっていうのかな? なんだか湿っぽい、もわっとしたあの水の臭い。それが、その気配を感じた時には必ずしていたんですね。
その間はまるで金縛りにでもあったかのように、呆然と固まったまま見入ってしまっていたN君ですが、黒い靄が消えた瞬間、またぞわぞわぞわっと急に寒気と恐怖が襲ってきて、慌てて布団に潜り込むと電気もつけたまま、なんまんだぶ、なんまんだぶ…と念仏を唱えながら眠りについたんだそうです。
もう、こうなると気のせいなんかじゃない。明らかに
気味が悪くてすぐにでも引っ越ししたかったんですけどね。さりとてまだ住み始めて間もないし、貧乏学生にはほいほいと引っ越しするお金もありませんよ。それに今の時期じゃ条件の合う部屋を見つけるのも難しい。
まあ、怖くて不気味だけど、特に何かされるってわけでもありませんからね。気味悪く思いながらもN君、仕方なくもうしばらくは我慢することにしたんだそうです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます