朝は短い夜の底

五十嵐ガラシ

一夜

 醒めなければいいのにと思うような夢を見ても、またしつこくやって来た朝に手を引かれて渋々起き上がる。


 おはよう、僕。

 よく目を開けられた。

 ちゃんとアラームを止められた。


 一晩横たわったくらいでは取れない肩こりが、首や肩までも重くしている。とりあえず今だけ頑張ろう、とベッドを抜け出して、もう一つ頑張ろう、と着替えを済ませて洗面所へ行く。

——ひどい顔だ。ゆうべ、特別に忙しかった訳じゃない。むしろ、最近疲れたなぁなんて早目に夕飯を済ませた。いつもならそのあとはソファに寝転がって、垂れ流した動画を次々にスワイプしているうちに寝落ちしてしまうところまでがルーティン。そこをなんとか踏ん張って30分で切り上げて、日が変わる前に風呂にも入った。


 それなのに、この顔はいかがなものだろうか。目の下には万年消えないクマが相変わらず居座っているし、いつの間にか額にニキビまで出来ている。

 漏れ出た長い溜息を、水道の音でかき消しながら顔を洗う。こうなった理由は分かり切っているのだ。どんなに早く寝る準備が出来たって、いつ寝ても構わない状態になったって、光る画面を追い続けなければ、生きていけないのだから。


 時々思う。暗い部屋の中で切り取られた四角い明かりは、水槽の中から眺める外の世界みたいだ。そこから向こうへはいけないのに、覗いてみれば、今いる世界と全く違う世界が広がっている。暗い水槽の中が窮屈であればあるほど、光の中は魅力的だ。


 そして決まって毎朝「早く寝ればよかった。今夜はすぐ寝よう」と同じ事を思うはずなのに、夜になると忘れてしまう。いや、忘れようとしてしまう。やらなければならないことを先送りにして、眠る時間を自ら犠牲にして苦しんでいるのだ。


 うとうとしていても、眠りたくないとさえ思う。目を閉じたら、もう今日が終わってしまうからだ。だから、体や心が悲鳴をあげているくせに、ふらふらと光に吸い込まれてしまうのだ。まるで、夜の窓にその身を打ち付け続ける虫だ。ガラスの向こう側に何かあるような気がして、すがり続ける僕と似ている。


 今日も、テレビを付けると朝の番組が元気を振りまいている。僕がとうに疎くなってしまった流行りのアニメや歌手、人気の店がつらつらと画面を渡って行く。都会で人気だというパンの特集では、モデルが棒読みで「外はカリカリで中はめっちゃくちゃ柔らかいんですぅ」と、使い古された食レポをコピペしている。


 こちらは昨日も食べた安いトーストに、バターもジャムも塗らず口へ運ぶ。洒落たコーヒーメーカーなど家にはないから、インスタントの粉を溶いただけのカフェオレでしけたパンを流し込む。

 そろそろ目玉焼きとウインナーでも食べたいと思いつつ、朝からフライパンに火を入れる事さえ面倒なのだ。適当な朝飯を適当に終え、汚れたシンクに皿を重ね、汚さを上書きしていく。そろそろ手持ちの皿が切れる。


 歯磨きをしながら、流れ作業的にアプリで漫画を読む。別にものすごく面白い作品があるわけでもない。手持無沙汰のこの時間は、今日読める無料の話を消化するのに丁度いい。

 はまっていたソシャゲのアプリも、連続ログインボーナスが途絶えた日に消してしまった。ゲームっていうのは存外エネルギーがいるものだ。


 クエストやミッションをこなして、素材を集めてキャラクターを育て、時にはギルドに入ったりフレンドと交流したりしなければならない。片手間ではいつまでも強くなれないように出来ている。ゲーム会社も商売なのだから、当然と言えば当然だ。


 身だしなみを整え玄関へ向かう。靴を履きながら、忘れやすい自分のために頭の中で確認をする。鍵持った。カバン持った。財布と携帯持った。時計してる。よし、とドアノブに手をかけたその時に「今日が燃えるゴミの日である」ことを思い出してしまった。


 思わず、舌打ちが出る。思い出さなければいけなかったことなのに、忘れなくてよかったとは思えなかった。今しがた履いたばかりの靴を乱暴に脱ぎ捨て、腕時計に目をやりながらキッチンへゴミ袋を取りに戻る。リビングには、昨晩食べ散らかしたコンビニ飯の残骸が鎮座している。


 手荒に袋へ放り込みながら、何故だか分からないが涙が出そうになった。込み上げそうになるものを、強く吐いた息で食い止める。袋の口を縛る前に、一緒にこの気持ちも突っ込んで捨ててしまうのだ。そうだそうだ、と自分に相槌を打つ。


 やっと家を出てゴミを捨てると、もう時間が大分押している。急いで行きたくはなかったのに、とうなだれる心をなんとか奮い立たせて歩き出す。こんな時は、それがどんなに爽やかな朝だろうと、「だめ」なのだ。


 足取りなんてものは、重い日の方が多い。

 家を出たらもう帰りたい。

 やりたくない事は山程ある。

 やりたい事もあったはずだ。

 行きたい場所にも行けない。

 でも、もういいか。


 そうやって何か黒くて重いものが僕の中に蓄積されて、静かに緩やかに濁っていくような気がする。容量を圧迫していて、決壊してしまわないように食い止めてはいるけれど、じわじわあふれて滴り落ちているようだ。騙し騙し、隠しているのに。


 いつの間にかそれは僕の足元に小さな水溜りを作って、ぬかるんでいる。ピカピカに磨いていた革靴には泥がこびり付いて、ひどく重いように感じる。毎日毎日、どうにか社会からはみ出さないように自分を追い立てるためのルーティンを組んで、「これが最適だ」と言い聞かせているのだ。


 全てを放り投げてしまいたいと思う時もある。色々な事を捨てて、辞めてしまうのは簡単だ。人からどう見られようが、誰に迷惑をかけようが、自分の行く末がどうなろうが。気にならなければ、の話だ。


 どうやら人の心というのは、穏やかでいられない時の方が多いようだ。思う以上にままならないもので、いつでも簡単に揺れ動き、支えを失ってしまう。概ね、明るくも楽しくもない出来事のせいで。


「大した事じゃない」「次は大丈夫」そう思える人間というのは、自分の心の平穏を保つ術を知っているのだ。自分は今元気じゃないなと感じたら、それを取り戻すためにすべき事をちゃんと理解している。自分を大切にする方法を知っている。


 僕のように自分一人の安寧さえ守れない人間は、すぐにささくれて気持ちが散らかってしまう。これはもうどうやったって、手に負えないのだ。心が砂埃でジャリジャリしてくると、人の優しい気持ちさえ疎ましく思う。明日は来るとか必ず報われるとか、「頑張らなくていいんだよ」なんていう直接的な言葉が薄っぺらく感じる事もある。


 でもきっとこれは、僕だけじゃない。現代人の病なのだ。簡単にどこかの誰かがどんな暮らしをしているか分かってしまうし、自分の人生との差が明白だと突き付けられる。


 SNSなんかではみんな承認欲求のぶつけ合いをして、誰かより幸せだと確かめたい。構ってくれる人を探したい。自分だって辛いと吐き出したい。流れていく投稿のスピードに、エネルギーを吸われていくようだ。


 みんな、どこかしらになんとか自分を保つための場所を作っているのだ。表に見えている部分だけが全てだなんて、そんな事はあり得ない。皮一枚の外側しか知らない人間を、お互い分かり合ったり分かったフリをしたりしながら、バランスを取ってそこで「生きている」。


 その棲み処は友達の輪の中だったり、ゲームだったり、創作物だったりするだろう。どこにいても、嘘でも本当でも、居場所を散らしているいくつもの自分で「リアルの自分」を支えているのだ。


 毎日をやり過ごして、今日一日を消化している。頑張れない今日を、繰り返している。しかしそれでいいのだと思う。特別で壮大な理由もなく、人はただ生きて、ただ死んでいく。それが自然で、価値や意味を求めるから辛いのだ。


 なんて、そうやって達観したフリでもしていなければ、あまりに生きづらい。

 いつか、まるで自分の気持ちを代弁したような曲でも聴いて、自分だけじゃないと救われる事もあるだろうか。それとも爽やかで煌めくような物語を読んで、綺麗事だと鼻で笑うだろうか。なんでもない日ばかりが続くこの今を、幸せなのかもしれないと思う時も来るだろうか。


 漠然と報われない気持ちで生きていることに、区切りを付けてはい、おしまい。とはいかない。それは分かっている。


 それでもひとつ、またひとつ。

 僕たちは夜のとばりを飲み干して、仕方なく朝の蓋を開けるのだ。

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