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 幽かに聞こえてくる歌声で、クラリッサの意識は浮上した。

 ぼやける視界を払うように目尻を擦りながら、大きく伸びをする。岩窟の中は日中でも薄暗いため、そのまま寝転がれば簡単に二度寝が出来てしまいそうだ。


「すまない、起こしてしまっただろうか」


 クラリッサが起き上がったのを見て、申し訳なさそうな声を上げるのはツィカである。彼はいつもクラリッサより先に起きて、何かしらの作業をしている。この日は、着るものがほつれでもしたのか何やら縫い物に勤しんでいる様子だった。

 この反応から推測するに、先程の歌声はツィカのものだったのだろう。彼には昨日、故郷に伝わる歌を教えたばかりだ。


「気にしないで、おかげで寝坊助の称号を得ずに済んだんだからさ。ツィカは何も悪いことなんてしてないんだから、もっと堂々としてても良いんだよ」

「……? まあ、お前がそう言うのなら……」


 クラリッサの言い回しがわからなかったらしいツィカは、首をかしげながらも従った。

 この白い少年は素直というか、謙虚というか……都会にいれば、面倒な輩から真っ先に狙われる気質だと思う。そんなところも、クラリッサとしては好ましい訳だが。

 

「それよりも、昨日の今日で歌詞や音程を覚えちゃうなんてすごいねえ。都会でそんなことやってみな、きっと毎日色んな舞台に引っ張りだこだ」


 事前に干しておいた小魚と果実、それから杯に水を汲んで朝食を用意しながら、クラリッサはしみじみと語る。

 寝ぼけ眼のクラリッサの耳に入ってきた、ツィカの歌声。はっきりと聞き取れた訳ではなかったが、それは聞き慣れた音程と断片的な歌詞を併せ持っていた。恐らく、序盤も序盤、歌い始めの部分であろう。

 いくらクラリッサでも、音程と歌詞を両立させて覚えるのは至難の業である。もしかしたら、ツィカには天性の才能があるのかもしれない。


「それは大袈裟だ。全ての歌詞を覚えた訳ではないし、たまに間違える。それに、単語の意味もよくわかっていないから、歌っている最中に疑問を覚えずにはいられない」


 ここで威張らないのがツィカという人だ。照れ臭そうに視線を外しながら、彼はもにょもにょと語尾を小さくさせた。

 クラリッサからしてみれば、そういった点のある方がまだ可愛げがあった。一晩で異国の民謡を完璧に覚えられたとあっては、尊敬を通り越して恐怖を感じずにはいられないと思う。

 しかし、自分が教えた歌を懸命に覚えようとしてくれる様子は純粋に嬉しい。ツィカの才に全く嫉妬しない訳ではないが、それを少しでも伸ばしてやりたいのがクラリッサの本望である。ツィカ自身も歌うことが好きなようだから、一石二鳥というものだろう。


「きっとツィカなら、すぐに覚えられるよ。わかんないところがあったら、その都度あたしが教えるからさ」


 故郷から随分と離れたフィアスティアリで、幼少期に慣れ親しんだ民謡を口ずさむことになるとは。不思議な巡り合わせがあったものだ、とクラリッサはぼんやり考える。


「お前は教えるのが上手い」


 食べ物を摘まんでいると、ふとツィカがそのようなことを言った。

 クラリッサは口をもぐもぐさせながら、どうしたの、と目線だけで問いかける。ツィカの唐突な発言にはだいぶ慣れたが、その真意を瞬時に理解するのは難しい。

 白い少年は、繕い物の手を止めて、ついと視線を上に遣った。


「今まで教えられた歌の中で、お前の教えてくれたものは一番覚えやすかった。それだけ、お前の説明が上手いということなのだろう」

「そうかなあ。誰かに歌を教えるなんて、これが初めてなんだけど」

「そうなのか? てっきり、故郷では歌を教えることもあったのかと思った。お前は、きっと腕の良い……いや、歌だから声かな。とにかく、上手い者に教えられてきたのだな」


 少し考えながら、ツィカはそう言ってぎこちなく微笑んだ。彼の表情はほぼ自然体だが、不器用なのが漏れてしまうため時折不恰好になる。

 たしかに、質の良い教育は受けてきた自覚がある。決して楽とは言えない環境だったが、好きなことを突き詰められたという点において己は幸せ者だとクラリッサも自負していた。


「大陸には、歌や音楽を専門とする学校……あ、学校っていうのは、勉強の出来るところね。そういうところがあるから、歌や音楽についてとても詳しい人に教えてもらうことが出来るんだよ。簡単には入れないし、途中で辞めちゃう人もたくさんいるんだけど、質の良い教育を受けられるし、頑張れば好きなことを仕事に出来る。あたしの通ってたところは歌に特化してたから、昔の歌姫や花形役者に色々教えてもらえたんだ」


 褒められると調子に乗りたくなるのは人の性であろうか。知らず、クラリッサはかつて通っていた養成所の話をしていた。

 世界的な戦争によって打撃を受けたヒュリアではあるが、もともと芸術都市という側面もあり、戦後も文化活動は盛んであった。特に首都であるマーニンベルグに所在するポリュムニオ養成所は世界随一の教育を受けられると言われており、舞台歌手を目指す者にとっては登竜門のように扱われている。

 そのポリュムニオ養成所こそ、クラリッサの母校である。高等教育を受けられる時点で現実離れしているが、村の小さな学校以外に通学したことのないクラリッサにとって、あらゆる点において衝撃を受けた場であった。


「優等生じゃなかったけど、一応あたしは世界一って言われてるところの出でね。何なら、ツィカのこと推薦しようか? あたしが見出だしたって子なら、すんなり入れてもらえるぜ」

「いや、それは……。とても興味深い場所だが、あまりにも遠すぎる。それに、百歩譲って入るとして、そこまでお前に頼るのは申し訳ない」

「何言ってるのさ、自力で入学出来るような場所じゃないんだぜ? 養成所に入るには、途方もない費用がかかる。あたしだって、たまたまお偉いさんのところの子と繋がりを持てたから入れたんだ。コネは利用してなんぼ、むしろ余程のお金持ちでもなければ必要不可欠だよ」


 実際に知り合いの援助で入学した身としては、養成所に入学出来る者ががどれだけ限定されているのか、痛い程よくわかる。クラリッサのような、他人からの援助を受けて入学した者など、ほとんどいない。大抵が名家の子供たちだ。

 ツィカはそうか、と小さく呟く。特に残念そうな様子はなく、他人事のように大変なのだな、と感想を漏らすだけ。


「でも、大変だからこそ学ぶものは大きいよ。あたしが歌姫になれたのだって、ちゃんとした教育を受けられたからだしね」

「楽しかったのか?」

「かなり。けど、それと同じくらいきつかったかな。勉強もそうだけど、何よりも人付き合いが面倒でね。多分あたし、集団生活って向いてないんだと思う」


 教育方針に不満はなかったが、クラリッサを悩ませたのは生徒たちとの距離感だった。

 特異な経緯で入学したクラリッサを良く思わない者は多く、度々嫌がらせを受けた。さすがに校内で流血沙汰に発展することはなかったが、それでも苦い思い出に変わりはない。同輩たちとは卒業後、仕事関係でも関わらなければならなかったから、面倒なことこの上なかった。

 それでも、明るい思い出が皆無という訳ではない。故郷にいたままなら学べなかったであろうことを、好きなだけ学び尽くすことが出来た。世界一の名門校の名は、やはり伊達ではないのだ。


「ま、最終的には根性と歌への愛で卒業したって感じかな。生徒はあれだったけど、先生方はあたしに嫌なことしなかったし……。今はもう少しましになってると思うよ」

「なるほど。全てを理解出来た訳ではないが、お前にとっては思い出の場所なのだろうな」

「羨ましい?」

「少し」


 困ったように苦笑して、ツィカはそっと小魚を摘まんだ。彼にしては珍しい顔だった。

 こんな風に思い出話をしたのは久しぶりだ。大陸にいた時は、兄に愚痴をこぼす程度だったというのに。


(もしもこの子が同級生だったなら、もっと楽しかったのかな)


 決してあり得ないことだが、考えずにはいられない。

 過ぎた時を想起して、クラリッサは遠い目をする。回顧するなど自分らしくもなかったが、不思議と嫌な感じはしなかった。

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