アドラブル!

パラダイス農家

#1 粉飾決算!

「ひな、おっきくなったら何になりたい?」

「それはとても、むつかしいしつもんです」


 記憶も定かではないほど昔のこと。

 遠く、遠く。会いに行けない場所へ旅立ってしまう前に、母は私に何度も聞いていたそうです。


「けーきやさんもいいですが、ぴざやさんもいいです」

「美味しいもんね」

「でも、いもけんぴもすきだからいもけんぴやさんもてがたいです」

てがたい?」

「そうともいいます! でも、おようふくやさんもふてがたいです。びようしさんも、かめらまんさんもすごいです。でも、まだあります」

「ふふ。他には?」

「えほんとかおもちゃもいいです。さいきんはさんがつよいです」

「お医者さん、ね。どうして?」

「おーしゃさんになったら、ままをげんきにできます」

「……ありがとうね、ひな。じゃあ、たくさんお勉強しなきゃ」

「ひなはがんまります!」


 当時、母は入退院を繰り返していました。おぼろげに覚えているのはそれくらいだから、この母と娘の会話は、歳の離れた姉から聞いたものです。


「なら、ママの夢も叶えてくれるかな?」

「なんでもかなえます!」


 そんなことを言った当時の私に、母は続けました。


「ひなは、女優さんになって?」


 女優、と。母はたしかにそう言ったそうです。


「じょうう?」

「女優さんは何にでもなれるの。ケーキ屋さんにも美容師さんにも。宇宙飛行士にもなれるし、ひなの好きなうたのおねえさんにもなれるわ」

「それはすごいです! おかあさんにもなれますか?」

「もちろん。素敵なお母さんにね」


 それが母との最後の思い出。

 そして私、下川ひなたが覚えている、最初の記憶です。


 *


「下川ひなたです! よろしくお願いします!」


 中目黒に居を構える大手芸能事務所オリエント・プロモーション——通称オリプロのそこかしこから、挨拶と苦笑が漏れ聞こえていた。


「あはは、一回挨拶したら充分だって」

「いえ、これからお世話になるんです! だからひとりひとりにきちんと挨拶します!」


 下川ひなた。昨年行われたオリプロ主催オーディション《ネクスト》で華々しくグランプリ——は逃したものの、審査員特別賞を勝ち得て芸能界に滑り込んだ高校2年生である。最終オーディションの自己PRでは「元気よく挨拶できます!」と元気いっぱい宣言し、審査員たちの唖然と失笑を誘ったのは記憶に新しい。


「下川ひなたです、よろしくお願いしまーす!」


 それでも運がいいのか悪いのか、ただ挨拶を元気いっぱいしたところ、審査員ばかりか会場の皆さんの心をガッチリ掴んでしまったのである。

 そんな値千金の挨拶をお披露目するとばかりに、オフィスはおろか、清掃スタッフばかりか作業服姿の内装業者にまで、目につく人という人に挨拶をするべく社内を駆けずり回っていた。


「今の声は3階の広報部あたりかなー?」


 そんな喧騒から離れた1階のカフェスペース。二日酔いで痛むこめかみを抑えていた桜井涼子の神経は、向かいに座す同期社員の噛み殺した笑いに逆撫でされていた。


「元気でいいねー。涼子の担当だよね、下川ちゃんって」

「元気しか取り柄がないだけでしょ」


 穴が空くほど読んだ人事資料をテーブルに投げ捨てて、涼子は背もたれに身を預けた。

 同期の胸元に垂れたパスケースには、ゴールドに縁取られた社員証が揺れている。タレントプロデュース課とある。


「にしても上も冒険するよね。受賞者のプロデュースをブロンズに任せるとか。しかも2人」


 序列を指摘され、涼子は同期を睨みつけた。「きゃーこわーい」とヘラヘラ笑って、残りわずかなキャラメルマキアートを弄んでいる。


「ブロンズ女には無理って言いたいの?」


 オリプロのタレントプロデュース課には、暗黙の序列が存在した。首から下げた社員証。その縁取りの色は、担当タレントが浴びるスポットライトの輝きに等しい。つまり、もっとも鈍色のブロンズを提げて歩くのは、自らを無能プロデューサーだと喧伝しているようなもの。


「違うよー。涼子大変そーだなーって。ウチに来なくてホント安心したー」

「ゴールドもシルバーも見送ったからこっちに回ってきたんでしょ。なんかいい方法教えてよ、ヒットの方程式みたいなさあ」

「知ってたら教えてるってー。あんな事件起こす前にー」


 同期の双眸を見つめるだけの勇気はなかった。泳いだ視線が反射的に吸い寄せられた雑誌の表紙で、嫌と言うほど見た女がにこやかに微笑んでいる。


「かわいく撮れてんねー、八雲ちゃん。昔の女なんて忘れましたーって顔してるー」

「結果オーライよ」

「あの子にとってはねー。一方の涼子はブロンズ降格だけどー」


 同期の苦笑が、かつての幹部社員から受けた叱責と重なった。エサをやらなかったばかりに逃した魚は、あまりにも大きい。


「嫌味言うヒマがあるなら仕事に戻ったら?」

「嫌味言うほどヒマじゃないってー。涼子じゃないんだからさー」


 それを嫌味と言うんだ。唇を噛んで睨みつけると、嫌味ったらしいニヤケ面——もっとも、こいつは常日頃からこういう顔だが——を見せて同期が呟いた。


「はやく戻ってきなよ、ゴールドにー。欲しいんだよね、切磋琢磨しあうライバルみたいなのー。張り合いないじゃーん」

「敵に塩送る気なら、ついでに塗り込まないでくれない? 傷口、浅いようで深いから」

「なら塩対応にしとく? ……おや?」


 ふたり座したテーブルに、新顔が駆け寄ってきた。初々しくも恭しい一礼と挨拶をよこしたのは、《ネクスト》で選ばれた5人のうちのひとり、準グランプリの少女。


「物欲しそうな目で見ても担当ウチのコはあげないよー?」

妹尾せのお麻里奈に嫌気がさしたらいつでも私、桜井涼子を頼ってね。実力はゴールド級だから」


 差し渡そうとした名刺は、新人の手に収まる前に同期・麻里奈に没収された。態度だけは柔和でも、その目はまるで笑っていない。


「だーめ」

「ケチ」


 そそくさと手荷物をまとめた麻里奈は、準グランプリ少女を連れて立ち去った。彼女が食べていたバーガーの包み紙のように、頭の中はくしゃくしゃ、ごちゃごちゃとこんがらがったまま、なんの方程式も導き出せない。

 方程式。それは担当タレントに光を当てて、スターダムへと導くためのもの。


「無難な子がいいんだよ、私はさあ……」


 遠く反響する担当タレントの「よろしくお願いします!」に頭を痛めつつ、冷えたコーヒーを干して涼子は立ち上がった。

 向かう先は会議室。本来ならば、緊張でドキドキいっぱいの嬉し恥ずかし初顔合わせ。だが、意に反して足取りは、鉛のヒールでも履いてきてしまったかのように重かった。


 *


 約束の時間から少し遅れて、会議室に女性が入ってきた。事前にメールした人物・桜井涼子に違いないだろう、ひなたの直感がそう告げていた。


「下川ひなたです! よろしくお願いします、桜井さん!」

「ああ、うん。もう充分知ってる……」


 「涼子でいいから」とシンプルな答え合わせを名刺とともに受け取った。

 ここは中目黒の目抜き通りを我が物顔で占有する大手芸能事務所、オリエント・プロモーション。

 思い出作りの一環だった全国オーディション、《ネクスト》をあれよあれよと勝ち抜いてここに座っているのだから、人生何が起こるか分からない。

 生まれたてのヒヨコのような気持ちで見つめていると、目を合わせた涼子がくすりと微笑む。


「まずはおめでとう。《ネクスト》とどっちが緊張する?」

「どっちも同じくらい緊張します!」

「いいね。それくらい緊張感持ち続けて? 気が緩んだ子から消えるのが芸能界だから」

「き、肝に銘じます!」

「ゆっくり慣れていきましょう。私が支えるから」


 涼子はにへらと笑ってみせた。もらった名刺に書かれたプロデューサーという肩書きがどんな仕事なのかはひなたにはわからない。


「はい! よろしくお願いします!」


 それでも、感じのいい人だった。厳しい世界だと聞いているけれど、涼子に従えば悪いようにはならないだろう。親鳥の言葉を刷り込む雛鳥のように、ひなたは涼子の笑顔を真似てみせた。


「ええと、もうひとりは——」

「すみません、仕事が押しました!」


 勢いよく会議室の扉を開き、マスク姿の少女が飛び込んできた。


「わあ! 晴海さんもいっしょなんだ!」

「み、みたいですね。よろしくお願いします……」


 やんわりと会釈をひとつして、少女は隣に腰を下ろした。

 彼女の名は晴海しずく。《ネクスト》の主役、並みいる少女たちの頂点に立った才能あふれるグランプリガールだ。先週の最終審査で会って以来の再会に、やっとひなたは胸を撫で下ろした。


「晴海さんは移籍の手続きお疲れさま。その後大丈夫?」

「ええ、おかげさまで円満です。権利も問題ないと」


 安心してせっかく緩んだ緊張の糸は、オトナっぽいやりとりで再びピンと張ってしまった。やっぱりグランプリ受賞者ともなると、審査員特別賞のひなたとは扱いが違うらしい。


「さて、さっそくで悪いけれど、おふたりのプロデュース方針を決めましょうか」


 椅子に座すや否や、涼子の砕けた雰囲気は消えた。真剣な眼差しで射抜かれると、伸び切った背筋がさらに伸びる気がする。

 これがきっと芸能人のお仕事だ。「緊張を切らさないように」と数分前に教わった通りに、涼子の言葉に集中する。


「まずは自己アピールしてもらおうかな。晴海さんから」

「テーマは?」

「いちばんやりたい仕事と、その意気込み。もしセルフプロデュース方針があれば、それも教えてくれる?」

「はい」


 間髪入れず、しずくはマスクを取って立ち上がった。まぶたを閉じて深呼吸すると、刹那、泣き出しそうな悲しげな表情を浮かべていた。


「……私は、母を超える女優になりたい」

「え……?」


 先ほどまでとはまるで違う、しずくの演技に思わず声が漏れてしまった。


「七光りはもういらない。私だけを照らす、世界一明るいスポットライトが欲しい!」


 《ネクスト》の最終審査でスポットライトが落ちたとき以来に見た横顔は、以前にも増して煌びやかで、そしてあまりに切なかった。まるで魂が叫んでいるようなしずくの言葉が、ひなたの鼓膜を、腹を、そして心臓をビリビリと震わせる。


「世間の連中に知らしめたい! 晴海しずくは親のオマケなんかじゃない、誰よりも輝く女優だと!」


 しずくの芝居に見とれてしまった。

 これこそが芸能人なのかもしれない。


「……以上です」

「すごい! すごいよ、晴海さん!」


 ひなたはただただ拍手喝采を浴びせていた。憂いを帯びた表情のまま、しずくが柔和に微笑みをくれる。


「ありがとう。演技力は当然として、セルフプロデュースの方向性もよくわかったわ。さすがね」

「お粗末さまです。下川さんはどうでした?」

「すごく切なくて悲しくて、胸がきゅうって締めつけられました! まるで芸能人みたい!」

「……みたい?」

 

 ぴくりとしずくの眉根が動いたが、次はいよいよひなたの番だ。

 芝居に感動して忘れていた緊張が再び張り詰めてくる。


「次は下川さん。演技はわからないと思うから、普通に自分のやりたいことを——」

「いえ、私もやります! さっきみたいなお芝居!」


 涼子が目を見開いていた。手元の資料を食い入るように確認してから、怪訝そうな目で見つめてくる。


「……やったことあるの?」

「ないけどやります! 晴海さんみたいにやったらできるかも!」

「みたいに、って……」

「下川さんの演技力、見てみたいです」


 呆れたふうな涼子を制して、しずくはにこやかな笑みを浮かべていた。

 背中を押してくれた、しずくの期待に応えたい。なのに涼子の態度は変わらず、ずっと渋いまま。


「あのね……。しずくさんは元々子役——」

「やりたいって言ってるんだからやらせてあげましょうよ、涼子さん」


 「やれるものなら」と付け足して、しずくは頬杖をついていた。涼子は押し問答にも懲りたようで、ため息がちに告げる。


「反対はしたからね……」

「さあ。お手並み拝見ですね、下川さん?」

「うん! 見ててね?」


 眉を決して意気込んで、しずくを真似て立ち上がった。彼女が行ったルーティーンをなぞるように、目を瞑って深く深呼吸をひとつ。

 こうすれば——


「私は…………!」


 ——口が動かなかった。


「下川さん、無理に挑戦しなくてもいいから」

「でもあの…………」


 困った。何も出てこない。

 真似ればあんなお芝居ができるはずなのに、脳裏に浮かぶのは煌びやかなしずくの横顔だけ。


「……やっぱりやり直してもいいですか?」

「ええ、もちろん。じゃあ——」

「だめですよ、途中で投げ出したりしたら」


 口元からちらりと覗く八重歯は、獰猛な肉食獣のように尖っている。


「たしかに、仕事ではそうあるべき。だけど今は違うでしょう?」

やりたいと言ったんだから、その覚悟を示すべきだと思いますけど」


 涼子を一言で黙らせたしずくに見つめられて、固まってしまった。頭も、体もまるで動かない、無限にも感じられる時間が過ぎ去っていく。


『従業員の皆様にお知らせします』


 沈黙を破ったのは、ひなたではなかった。ましてや、しずくでも涼子でもない。壁に埋め込まれた社内放送が、切羽詰まった声色で響き渡る。


『即刻、すべての作業を中止して席を立ってください。資料・帳簿の閲覧および修正、そして情報機器の使用は固くこれを禁じます』


 顔を上げた涼子と視線を見合わせた。


「……これもお芝居ですか、涼子さん?」

「なワケないでしょ? どういう——」

「ちょっと待って! これ見て!?」


 しずくが見せたスマホには、オリプロの文字が踊っていた。

 さらには——


「はあ? ウチが粉飾決算……!?」


 ——段ボール箱を持ったスーツ姿の人々が、ぞろぞろと列をなして1階、エントランスに詰めかけていた。

 その名は東京地検特捜部。正義の執行者だ。

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