第5話 花の香り

 黙ってしまった俺をマリアが不安げに見上げてくる。鎧を脱いでガウンに包まれたその身体は騎士というには華奢に見える。


 両手首を縛られている状態でも、マリアが詠唱を終える前に口を塞いでしまえば、人質にできそうな気もする。あるいは押し退けて部屋から出ることも容易にすら思える。


 エリスは今、どうしているのだろうか。


「エリスが一体何者なのか、俺は知らない」


 俺はよからぬ思いを引っ込めて、出窓の木枠に身体を預ける。


「昨日、砂浜で倒れているところを助けてもらった。……俺にはそれ以前の記憶がない」

「記憶が……?」

「『呪い』だってエリスは言ってたが」


 それが本当なのか、ただ記憶がないこと以外自覚がない俺にはなんとも言えないが。


「ただ、なんでかな。あいつの言葉は信用できる」


 自信たっぷりに偉そうな発言をするからかもしれない。会ったばかりだが、あいつ以外知り合いがいないからなのかもしれない。どちらにせよ不思議と不安は覚えていない。


「……あの」

 俺の言葉におずおずとマリアが口を開く。

「お会いした時から気になっていたのですけれど、あなたの装束」

「ん?」


 俺は改めて自分の恰好を見てみる。俺の視界から確認できるのは、薄汚れたマントに、金の刺繍が入った黒い上着、胡桃色のズボン、黒い革のブーツくらいだ。


「そういえば、俺の服装が特徴的だとエリスも言ってたな」

「……ええ。近くで拝見しても?」

「え?」


 いいとも、悪いとも言う前に、花の蜜のような甘い香りが俺を襲った。すでにマリアは俺の胸元に顔を埋めるような近さにいて、襟元に入った金の刺繍を指でゆっくりと撫でている。顎下の金髪が少し揺れるだけで、くすぐったい。


「……おい」

「動かないで」

「……なんか分かったか?」

「うーん。もう少し、身体を窓へ向けていただけますか?」


 そう言って、マリアが俺の身体を木枠に押し付けて、襟元をグイッと窓に近づける。


「やはり……」

「え、なに?」

「あなたは預言の――」

「危ないっ!!!」


 ベキャッ! バリンッ――バキバキッ!!


「な、なな……なん」


 俺はマリアのガウンを引っ張り、床に引き倒した。窓から巨大な触手が入り込み、部屋の中でうねうねと動いている。


 これは――


巨大烏賊クラーケンか!?」

「あ、あの……」

「動くな! 掴まれて、海に引き込まれたら終わるぞ」

「……はぃ……でも」


 触手はめぼしいものを見つけられなかったからか、引っ込み、どこか違う窓を破壊したようでどこからか悲鳴が聞こえる。


「行ったか」


 むにん。


 俺は、思いのほか柔らかい床の感触にようやく気付く。あれ、俺って両手首縛られてるから、下にマリアがいる状態で床触れるのか――と思い至った時には遅かった。


 バシン!!


 頬に痛みを感じ、俺は床に尻もちをつく。目の前では、顔を真っ赤にして乱れたガウンにスカートがまくれ上がった状態のマリアがいる。涙目でガウンが落ちてあらわになった立派な膨らみを左手で隠している。大きさでいえば、美女エリスよりも立派だ。


「あ……悪い」


 俺は素直に謝って自分の手を見つめる。そうか、その感触だったのか。むにゅっと柔らかいはずだ。


「ふ、不埒です! 不埒ですわ!!」

「仕方ないだろ? わざとじゃないんだから」

「うう……こんなはずかしめ……」

「悪かったって」


 両手でマリアの頭にポンポンと触れる。険しい顔で振り払われるかと思ったそれは、そこが定位置かのように収まった。三つ編みに結われていた金髪は、はずみでリボンが落ちたのか、ガウンの代わりにマリアを包んでいる。誰かに見られたら誤解されそうだ。


「それよりも、こんなことをしている場合じゃない。クラーケンに襲われたってことは、この船沈むぞ」

「クラーケン……?」

「でっかい烏賊いかの化け物だよ。おい、エリスはどこだ」

「……こっちへ」


 あいつの魔法がないと勝ち目はない。そこでようやく、事の重大さに気づいたのかマリアが血相変えて立ち上がる。船が大きく揺れる中、船室を出て、マリアの後をついていく。

 廊下の先の部屋の扉をノックしようとするマリアを押し退ける。


「行儀よくノックしてる場合かよ!」

「あぁっ」

「エリス!!」


 勢いよく扉を開き、船室内に入った俺は我が目を疑った。


「な……っ」


 光をたくさん取り入れる大きな窓。巨大な天蓋てんがい付きのベッド。美しい模様の毛足の短い絨毯じゅうたんが隅まで丁寧に敷き詰められている部屋。そして、中央に置かれた陶器製のバスタブに浮かんでいるのは赤や黄の花のつぼみ

 甘い花の香りが充満する部屋で優雅に湯浴みしているのは――エリスだ。


「なにやってんだ、お前は!」


 さっきマリアからした甘い香りはこれか。さきほどまで彼女も入っていたということだろうか? 豪勢な船室でリラックスしていたエリスは、目を閉じたまま近くの椅子を指さす。


「見ての通りだ。そこのガウンを取ってくれ」

「……お前な。俺があのベッドの大きさもない部屋で罪人扱い受けてる時に、なにを王侯貴族ごっこしてくれてんだよ」

「そんなことを言っている場合ではないだろう」


 椅子に掛けられていたガウンをエリスに渡す。エリスは、水気を拭き取ることなくガウンを羽織ってリボンで腰辺りを結ぶ。大人用だから、ずりずりと引きりながら、扉に向かって行く。


「さあ、運動の時間だ」

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