黒猫と呼ばれた狩人(イェーガー)~三十五歳独身男が相棒の黒猫とがんばります~

愛山雄町

第一話「突然異世界転移?! いきなりキメラはハードすぎます」

「みんな逃げろ! 僕が足止めする!」


 僕たちのクランリーダー、フランクが叫ぶ。

 目の前には巨大な魔獣ウンティーアが口を開け、生臭い息を吹きつけている。その魔獣は巨大な獅子に見えたが、肩口から山羊のような頭が生え、尾は人の太ももほどの太さがある大蛇だった。


 そう、僕たちの目の前にいるのは合成獣とも呼ばれるキメラシメーレだった。


 片手剣と丸盾を持つフランクは果敢にも雄牛を二回りほど大きくしたキメラシメーレの気を引こうと、必死に剣を繰り出している。彼は僕たちを逃がそうと囮になってくれたのだ。


 悔しいけど、僕には彼を見捨てて逃げることしかできなかった。

 少しでもキメラシメーレから離れようとそれだけを考え、来た道を全力で走る。

 僕の横には同じように必死に走るゲオルグの姿があった。他の仲間たちは別の方向に逃げたのか、姿は全く見えない。


「こっちに来るんじゃねぇ、レオ!」とゲオルグは叫ぶが、僕には別の方向に逃げるという考えはなかった。深い森の中に入り込めば、草に足を取られて距離が稼げないからだ。


 僕はゲオルグの罵声を無視して獣道を全力で走っていく。

 走り始めて十秒もしないうちに、後ろから一瞬だけ悲鳴が聞こえ、すぐに消えた。フランクがキメラシメーレに食われたか、首を引き千切られたのだろう。


 それでも振り返ることなく、必死に足を前に出していく。

 本当のことを言うと、僕たちに助かる見込みはないと思っている。キメラシメーレは馬よりも速く、狼よりも鼻が利くって言われている。狩人組合イェーガーツンフトのランクでは“災害級”と呼ばれるほどの化け物だ。


 僕たちはバラバラの方向に逃げているが、キメラシメーレの行動範囲から逃げ出すことは不可能だろう。

 それでも、僕は足を止めなかった。死ぬことが恐ろしかったから。


 万に一つも助かる見込みはないけど、走り続ければ殺されないかもしれないという、根拠も何もない行動を取ることしかできなかった。


 フランクの短い断末魔の後、後ろから草を掻き分けるガサガサという音が聞こえてきた。奴は次の獲物を僕か横にいるゲオルグに決めたみたいだ。いや、多分両方を獲物に選んだんだろう。


 ゲオルグはガチャガチャと金属製の鎧の音を響かせている。その音がキメラシメーレを引き寄せたんだと文句を言いたかったが、そんな余裕はない。


 すぐにキメラシメーレが近づいてくる音が大きくなってきた。僕は前だけを見て走っていたけど、ゲオルグは恐怖に負けて後ろを振り返った。


「うわぁ! 助けてくれ!」という彼の声が聞こえたかと思うと、突然腰が引っ張られた。ゲオルグが僕の剣帯を掴んで引っ張ったのだ。僕はバランスを崩し、草むらに突っ伏すように倒れ込んでしまった。


 彼は少しでも遠くに逃れようと僕を生け贄にした。


「ゲオルグ! 貴様!」と叫び、更に非難の言葉を投げつけようと思ったが、そんなことをしている余裕はなかった。


 後ろの気配を感じて振り向くと、そこには大きく口を開けたキメラシメーレの姿があった。

 僕は“誰でもいいから助けてくれ”と心の中で叫んでいた。


■■■


 俺は歌枕かつらぎ玲於奈れおな。今年三十五歳になる技術者エンジニアだ。

 就職氷河期に一部上場のメーカーに就職した後、ほどほど出世し趣味も楽しんでいる。趣味は美食と美酒を嗜むことだ。住んでいる東京や出張先で頻繁に飲み歩き、その縁で来年には十歳年下の女性と結婚することになっている。


 大学時代の友人は俺のことを羨み、“運がいい奴だ”と言ってくるが、俺自身もそう思っている。面と向かって言われると冗談でも少し腹は立つが、新卒で就職に失敗し未だに非正規雇用の不安定な生活をしていれば、嫌味の一つも言いたくなるのだろう。


 友人たちに羨まれる身だが、俺にも不満というか不安がある。それは自分が本当に“歌枕かつらぎ玲於奈れおな”という人間なのかという漠然とした不安だ。


 哲学的な話に聞こえるかもしれないが、俺は今の自分が本当に存在しているのか、いつも疑問に思っている。どこか仮想現実ヴァーチャルな感じがして、ウソ臭いとまでは言わないが、どこか現実ではないという感じが消えないのだ。


 誰かの夢の中で生きている。

 そう、胡蝶の夢という話の蝶の夢の中ではないかという不安だ。そんな漠然とした不安をいつも抱えていた。

 そんな俺は何の前触れもなく、突然日常を失った。


 その日は婚約者とランチを食べに都内の某所に向かっていた。直前まで腕を組んで歩いていたのだが、突然スズメバチが耳元で飛んだようなブォンという音がし、婚約者が叫ぶ声が聞こえたような気がした。


 次の瞬間、全く見知らぬ森の中に一人で寝転がっていた。

 ただ森の中にいただけでも充分異常な事態だが、それでも何もなければ落ち着くだけの時間くらいは与えられただろう。しかし俺にはその時間が与えられることはなかった。


 空を見上げていた俺の目の前には、人を丸呑みにできるほど巨大な猛獣のあぎとが迫っていたのだ。


「うわぁ!」という情けない悲鳴を上げながらも転がるようにその口を避ける。


 僅か数センチのところでガツッという顎が閉じられる音が響き、生臭い匂いが鼻をつく。後で考えたらよく避けられたものだと思うのだが、その時俺はその死の象徴から逃れようと必死に足掻いていた。


 何とか転がって僅かに距離を取ったところで、俺を食い殺そうとした相手の全貌を見ることができた。それは象ほどもある巨大なライオンだった。それだけでも異常だが、それ以上におかしな点があった。そいつの肩には大きな角を持つ山羊がおり、その横長の瞳孔が俺を睨んでいる。更にその尾はニシキヘビほどの大きさの獰猛そうな大蛇だった。


 その姿に見覚えがあった。

 といっても実際に見たことがあるわけではなく、ゲームなどのCGコンピュータグラフィックスでだ。そう、俺の前にいるのは有名なモンスター、キメラそっくりな化け物だった。


「キ、キメラなのか……」


 そんな言葉が知らず知らずに漏れていたが、死は目前に迫っていた。転がって避けただけでは僅かな距離しか取れず、キメラが横を向くだけですぐに奴の口が迫ってくる。


(こんなところで死にたくない! 悪い夢ならすぐに醒めてくれ!)


 心の中で叫び声を上げるが、無慈悲な化け物は俺の頭を噛み千切ろうと大きく口を開く。


(何でこんな目にあわなくちゃいけないんだ!)


 この時、俺はこの理不尽な、悪夢としか思えない状況に強い怒りを覚え、その怒りをそのままこの世界にぶつけた。


(クソッ! こんなところで死んでたまるか!)


 そこで俺の記憶は再び飛んだ。



 気が付くとまた風景が変わっていた。

 見知らぬ森の中であることに変わりはないが、目の前にいた巨大な化け物の姿はきれいさっぱりなくなっている。

 呆然としながら杉のような針葉樹の巨木の根を枕に空を見上げ、長閑のどかに歌う鳥の声を聞いていた。


(助かったのか?……いや、それよりここはどこだ? 何が起きているんだ?……)


 ゆっくりと身を起こしていくと自分の腕と胴体が目に入ってきた。

 今日はカジュアルな店のランチということでポロシャツにデニムのストレートパンツという軽装だったはずだ。しかし、俺が目にしているものは薄汚れた焦げ茶色の分厚いシャツと革製の丈夫そうな作業ズボンワークパンツ


 更に俺を困惑させたのは胴体と太ももに鉄のように硬い、べっこう色の革でできた防具と手にゴツイ感じの革製の籠手を装着していたことだ。

 足元に目をやるとそこには鈍い色の鉄製の剣まであった。


(何だ、この姿は? まるでコスプレ、いや、もっと本格的な物だ……別の世界に、異世界に迷い込んだみたいじゃないか……それよりキメラはどうなった? ゲオルグたちは……ゲオルグ?)


 突然記憶が混乱する。

 今まで知らなかった固有名詞が浮んでくると、それは頭の中で画像に変わる。更に静止画が動画になり映像が流れていく。


 それは質の悪いオムニバスの映画のようだった。何十もの短いストーリーが浮かんでは消えていき、最後に吐き気を催すほどの不快感が襲う。

 五分ほど吐き気を堪えていると頭が徐々に整理されていく。


(レオンハルト・ケンプフェルト……これがこの身体の持ち主の名か……)


 この身体の持ち主はレオンハルト・ケンプフェルトという十七歳の若者で、魔獣ウンティーアと呼ばれるモンスターを狩る狩人イェーガーだった。


 整理した知識からここがアンファング(発端という意)と呼ばれる世界で、今いる場所がエンデラント大陸南部のグランツフート共和国という国のゲッツェという町近くであることが分かった。


(イェーガーか……記憶を辿る限りはライトノベルかロールプレイングゲームに出てくる冒険者とか探索者に近いな……そんなことはいい。ともかく安全な場所に逃げないと……)


 情報の整理を終えると危険な状態にあったことを思い出し、慌てて立ち上がった。

 再び周囲を見渡すと深い森であるものの、知っている場所だと気付く。


(ここはゲッツェの町からすぐの場所じゃないか。キメラに襲われたのは二本杉と呼ばれている辺りだった。二本杉からここまでは五キロくらいある。どうやってここまで来たんだ? とにかく一旦町に逃げ込んでキメラの情報を伝えないと……)


 キメラは災害級に区分される魔獣であり、人口三千人程度の小さな町であるゲッツェを充分壊滅させることができる。


 周囲を確認し、キメラが追ってきていないことを確認した後、急いで森を出る。森を出た瞬間、ふと太陽の位置に違和感を覚える。


(キメラに襲われたのは確か昼過ぎ。今はどうみても午後三時を過ぎている。二時間近く気を失っていたのか?……よく他の魔獣に襲われなかったものだ……)


 違和感を抱きながらも町に逃げ込むことだけに集中する。

 森から町までは一キロほどだ。全力で走るとすぐに町が見えてきた。

 ゲッツェの町は海に面した南側以外、高さ三メートルほどの木の板でできた防壁に囲まれており、東西に門が作られている。


(初めて見る町なんだが、見慣れた感じがする。レオンハルトの記憶のせいなんだろうな……)


 全力で駆けたことにより、五分ほどで東の門に到着した。

 門番は俺の顔を見るなり、「どうしたんだ? そんなに慌てて」と声を掛けてくるが、一キロをほぼ全力で走りきったため、中々息が整わない。


 下を向いて息を整えるが、俺は違和感で混乱していた。それは聞こえてくる言葉は明らかに外国語なのだが、何の抵抗感もなく理解できることにだ。


(外国語は英語ですらまともに話せなかったのに、母国語のように分かる……レオンハルトの記憶のお陰なのか……)


 疑問が頭に浮かぶが、それを無視してキメラの情報を伝えていく。


「はぁはぁ……二本杉のところで……はぁはぁ、キメラシメーレに襲われた……仲間が、フランクたちが……」


 日本語でしゃべっているつもりだったが、俺の口から出た言葉はドイツ語に近い外国語だった。その違和感に一瞬言葉に詰まりそうになるが、無理やり意識を外して説明を続けた。


 門番は「キメラシメーレだと? そんな馬鹿なことがあるか。夢でも見たんじゃないのか」と真面目に取り合わない。

 ゲッツェの町は大物の魔獣が棲むという魔窟ベスティエネスト、密林フォルタージュンゲルの横にあるが、災害級どころか準災害級の魔獣すら出たことがなかった。

 俺が得たレオンハルトの常識では、大物の魔獣は魔窟に近い場所から離れたがらず、これほど離れた場所に現れたことはない。


「出たんですよ。二時間くらい前なんです。本当なんです……」


 門番も俺の真剣な言葉と汗だくの状況を見て、本当かもしれないと思ったのか、今度は急に焦り始めた。


「本当なのか。もし、本当ならやばいことだぞ……すぐに守備隊に連絡しないと……」


 門番は大慌てで同僚に説明し、守備隊詰所に俺を引き摺るように連れていく。


 その後は出来の悪い喜劇のようだった。

 門番と同じく守備隊の隊長も最初は疑うが、俺の説明に矛盾がなく、真面目な表情を崩さなかったことから慌て始める。まるで門でのやり取りをなぞるかのようだった。


 守備隊長が狩人組合イェーガーツンフトに連絡を入れると、すぐに偵察隊を組織し、俺の言った場所に派遣した。


 窓から見える町は更に混乱していた。

 この町の守備隊と狩人では災害級の魔獣に太刀打ちできないことは理解している。だからと言って逃げようと思っても、この時間に出発してもすぐに夜になってしまう。


 夜の街道は危険が多い。つまり、逃げることもできず、キメラが来るかもしれないこの町に残っているしかないのだ。

 人々は手に武器を持ち、不安そうに東の森を見つめていた。


 四時間後、日が落ちた頃に偵察隊が帰還した。

 すぐに対策本部となっている町役場で報告を行うことになり、最初に情報をもたらした俺も一緒に報告を聞くことになった。


狩人イェーガー五名が殺されていました。遺体は無茶苦茶になっていましたが、噛み千切った痕や爪痕は大型の獅子レーヴェのもので、他にも何ヶ所か大蛇シュランゲの牙の痕もありました。キメラシメーレで間違いないでしょう」


 偵察隊は俺の言った情報に誤りがないと報告した。


キメラシメーレはどうした! こっちに向かっているのか!」と町長が早口で問い詰めるが、偵察隊のリーダーは「こちらに向かっている様子はありませんでした」と答える。その言葉にその場の空気が弛緩する。


「足跡は東に向かっていました。五人を殺した後、森の奥に戻ったようです。何でこんなところまで出てきたのかは分かりませんが……」


 その後、町長や守備隊の幹部らが喧喧囂囂と言い争いを始めるが、俺はぼんやりとその様子を見ていた。


(何が起こっているんだ。俺は東京にいたはずだ。突然、異世界に飛ばされた……なぜだ? 何で俺がここにいる? これは夢なのか……)


 そう考えるものの、これが夢ではないと思っていた。今座っている無骨な椅子の手触り、さっき食べた大雑把な作り方の料理の味、一緒に飲んだ温いビールの饐えたような匂い……その全てに現実感があった。これほど明瞭な夢などあり得ない。


(夢でないなら俺はどうすればいいんだ? レオンハルトとして生きていくのか? 帰る方法はあるのか?……)


 思考の底に落ちていく。

 ぼんやりとしていたが、気付くと偵察隊のリーダーが目の前に立っていた。


「仲間のことで落ち込むのは分かるが、生き残れたことを聖獣様に感謝するんだな。それにしてもよく生き残れたな」


 仲間を失った俺を励まそうとしてくれたようだ。

 聖獣とはこの世界で信仰の対象になっている魔獣で、聖竜ドラッヘ不死鳥フェニックス神狼フェンリル鷲獅子グライフを指す。


「どうやって逃げたのかも覚えていないんです。気付いたら町の近くにいて……」と落ち込んでいた理由とは関係ない話が口を突いていた。


 実際、仲間が死んだことについてはほとんど気にしていない。物語の脇役が死んだ程度の印象だ。俺というか、レオンハルトを囮にしようとしたゲオルグに対してはヘイトが溜まったキャラが天罰を食らった時のような、ざまぁ見ろという思いの方が強いくらいだ。


 それでも目の前の男にそれを悟られたくない。一人生き残ったことで仲間を犠牲にしたといわれることは容易に想像できるからだ。

 もちろん、ここにいる狩人イェーガーたちも自分が災害級の魔獣に出会ったら同じことをするのだろうが、肩身の狭い思いをすることは間違いない。

 そこで下を向き、搾り出すような声でフランクたちのことを話していく。


「フランクが囮になってくれたんです。二本杉に一番近いところで殺されていたはずです……奴がいなかったら俺は……」


 リーダーは俺の肩をポンと叩き、「死んだ奴のことは残念だが、あまり気にし過ぎるな」と言って離れていった。


 町長たちの協議が終わったのは深夜になってからだった。俺は疲れ果てて椅子に座ったまま寝ていたが、数時間の協議の末に決まったことは、もう一度偵察隊を出してキメラがいないことを確認するというものと、偵察隊が戻るまでは厳戒態勢を継続するということだけだった。


 その偵察隊には俺も同行することになったらしく、明日の朝、この町で最も優秀な斥候たちと現場に向かうらしい。


 寝る時間はほとんどないが、下宿に戻ることにした。

 町は暗闇に包まれ、月明かりが足元を照らしているだけだ。見上げると妙に明るい感じの満月だが、日本で見た月と同じに見えた。月を見ながら本当にここが異世界なのかと疑問を感じていた。


(月は同じだ。ウサギが餅を突いている姿が記憶の通りだ……記憶では一年は十二ヶ月、三百六十五日、一日は二十四時間、四年に一回閏年がある。明らかに地球と同じだ……だが、地球にはキメラなんていなかった。もしかしたら、ここは異世界じゃなく遠い未来かもな。意識だけが飛ばされたとか……)


 そんなことを考えながらも、日本にいる時より現実感があるとも思っていた。ここに居る自分こそが本物だという実感というか、思いが心の奥底に強くある。


 俺は疲れた身体を引き摺るように人気のない道を歩いていった。

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