第12話インテルメッツォ-12 嘲笑/弔鐘
「違うな」
ただ一言、それが少女に言うべき男の全て。
その言葉に、迷いは些かも感じ得ない。
その言葉を口にする、そこに躊躇いは僅かたりとも存在しない。
その惑い無き一振りが、耳朶に
「はぁい? 今、何か仰いましたかぁ?」
訊き返した、という行為それそのものが聞こえていたと同義を示す。
だが少女はわざとそれを誇示するように、大仰な素振りで耳に手を当て数瞬前を手招きする。
そんな道化けた催促など一顧だにせず、男は言葉を叩き返す。
「聞こえているなら素直にそう言え。くだらん小芝居などに興じている暇があるならな。だがどちらにせよ、お前に返す言葉はたった一つだ。例え何度だろうと、俺は同じ言葉をお前に返す。お前が自らの手でその耳を塞いでもな」
男の言葉を受けた少女は左手を頬に添え、まるで
「あらあらあらまぁ、それはなんとも魅力的なお申し出でですねぇ。わたしが足腰立たなくなって尚、それでも腰を振り続けて下さるなんてぇ。奥手で受け身の消極的なあなたからは想像も出来ない程、なんとも大胆な男場でいらっしゃいますねぇ。えぇ、お相手があなたでしたらわたしは大歓迎ですよぉ。何時でも準備は万端に整っていますので。なんでしたら、今ここでお手を出されて宜しいんですよぉ。それとも、やはり殿方は
必要なのは忘れかけていたという最後の一文、ただそれのみだ。
だが少女の言葉が心底からの本気であることを、男は嫌と言う程解りきっている。
その偽り無き本気のせいで、全てが始末の悪い冗談のようにしか聞こえない。
有り余る程に挑発的で、雄の劣情を見下す少女の無邪気な悪意の気質。
過剰なまでに蠱惑的な、男の欲情を誘う幼気な少女の言葉。
それもまた男の思い出の中のまま、今でも変わることはない。
その発端にして要因となった存在を、自らの手で血と肉の詰まった皮袋に為してすら。
自らの血肉となった真性が如何にして育まれたか、顧みられることはもう二度と無いのだろう。
事ある毎に綿毛のように軽々しく口にされていた、紙一重の少女の発言。
それが何かしらの問題の起因となったことも、一度や二度では済まなかった。
そうして何かと折りに触れては、仲間の誰かに窘められるのが
それでも皆が、仲間の誰もが少女が大過なく健やかに成長することを心から願っていた。
そのありふれた、しかし尊い想いも今では何処とも知れぬ土の中で腐り落ち、虫の餌となっている。
唯一残った男の想いも此処に至るまでに錆付き風化し、最早原型を留めていない。
「随分と魅力的な提案だが、却下させてもらう。生憎と、お前の流儀に付き合うつもりはないのでな」
だがそれでも、心に在ることに変わりはない。
「そうですかぁ、それは残念です。兵は拙速を尊ぶとは言いますが、それにしてもせっかちですねぇ。
その朽ちた想いを握りしめ、男は再びより強く、少女に己の言葉を突き付ける。
「もう一度言う。間違っているのは、お前の方だ」
ただ、誰かの笑顔が好きだった。
最初はただ、それだけだった。
誰かの笑っているのを見たかった。
誰かの笑顔に触れたなら、自分も同じように笑えるはずだと、そう思うことが出来たから。
誰かに笑っていて欲しかった。
誰かを笑顔にしてあげたなら、自分も同じく笑顔になれるはずだと、そう思えることが出来たから。
だから、俺は信じるていることが出来たのだ。
誰かが笑えているということは。
そきっと素晴らしい事に違いないと、途切れることなくそう思い続けていられた。
誰もが笑顔でいられるということは。
それは間違いなくは善い事に違のはずなのだと、絶え間なくそう思い続けていた。
何故なら人の笑顔こそ、人間の幸せの象徴なのだから。
笑顔こそ、幸せな者であることの何よりの証明なのだと。
笑顔になれるということこそ、幸せな者ににみ許された権利なのだと。
在りし日に、そう説いていた誰かの顔は幸せそうに見えていたと、男の記憶に残っている。
それ以来、男は誰かの為に尽くしてきた。
誰かを笑顔を出来たなら、それは人を幸せに出来たと同じこと。
ひとが幸せになれることをしてあげたなら、誰かが笑顔になれるはず。
その円環を創り出し、繋いでいき、広めることに男は己の全てを捧げた。
心を砕き、その身を削り、流血が絶えずとも。
男は、決して立ち止まりはしなかった。
そうして孤独に歩む進む道程に、足跡の数が増えていく。
男の志に共感し、目的に賛同を示し、想いを理解してくれる掛け替えのない仲間達。
そうして皆が死力を尽くし、種を蒔いていった幸せの環。
自立し、自己を持ち、自尊心ある自由な生き方。
それは徐々にではあるが実を結び、世界を結び付けつつあった。
そしてそれは少しずつ、誰かの笑顔を咲かせていった。
男は、これで善いのだと心の底から喜ぶことが出来た。
皆で素晴らしいことを為し得たと、本当に誇りに思うことが出来た。
誰かと誰かと笑顔で繋がる、幸せの循環。
そこに繋がるみんなの中に、何処にも自分自身が居なくとも。
だからこそ、男は確信を持って応えるのだ。
「俺の幸せは、みんなの笑顔の中に在る」
その言葉を聞いた少女の顔から、薄れていくように色が消えてゆく。
そして、その表情が完全に消えた瞬間。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
裡から弾け飛ぶような哄笑が、少女の口から
それは清澄なる空気に鳴り響き、静寂を破り打ち震わせる。
「今になって! この期に及んで! 此処まで辿り着いてきておきながら! よもや口からそんな汚物を吐き出すなどとは、思ってもみませんでした! あれ程堅物だったあなたが、一体いつの間にそんな
腹を抱え、身を捩り、嬌声を上げながら、全身で男への想いを体現する。
そしてその目が何よりも、少女の心の裡を雄弁に語っていた。
「何が、可笑しい」
少女の、男を嘲笑う為だけの長広舌に、返せた言葉はたった一言だけだった。
「何が可笑しいですって! そんなの決まってるじゃありませんか! あなたが可怪しいに決まってるんですよ!」
少女の嘲笑いは止まらない。
「やはりわたしは正しかったようですぇ。何故ならあなたが間違っているからですよぉ。わたしを前にしてあんなことを仰るなんて。あなた、ご自分が何をなさってきたか、
「当然、だ」
男の言葉が一瞬微かに、だが確かに揺れる。
その言葉を受けて、全くどの口が言っているのかと少女の口の端が不快に歪む。
「でしたらご存知のはずですよねぇ。あなたが自分自身を尽くし己を捧げてきた誰かの顔を、
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