そして白く濁りし世界は無色となりて

久末 一純

第1話インテルメッツォ-1 終着/執着

 ずるり、ずるりと、不快な音がこだまする。

 それは一人の男が真っ直ぐに、血に這いずるように歩む音。

「よもやこんなところに来るためだけに、一体どれだけの命を支払ったのか」

 男の声には疲労と倦怠、そして諦念の色が濃い。

 やりきれぬ悔恨と、悔やみきれぬ悔悟が、その嗄れた声音には滲んでいる。

 それは長き月日に渡り、あらゆる変化に耐えて抜いたきた老木を思わせる。

 だが、いまだその幹は太く生気に満ち、その根は大地に深く根付いている。

 ぼたり、ぼたりと、不吉な音が鈍く響く。

 それは濡れた足跡を一筆描き、地を這うように進む音。

「ただあいつに会うために、俺はどれほどのものを失ってきたのやら」

 数え切れぬ程の寂寥、憂愁、哀惜、悲嘆、痛切、そして無念。

 数多の感情を含んだ言葉は自嘲と自責に包まれた泡沫、そのまま流れて弾けて散った。

 その言葉を聴く者は、最早誰もいない。

 肺を灼くほど静澄な空気の中に、男の言葉は虚しく溶けて消えていく。

 だが、いまだその目は光を失ってはいない。

 炯々と輝く黒瞳は、男の意志を力強く映している。

 そう、全てはこのためにあったのだから。

 この男をこの場に立たせること。

 ただ、そのためだけに。

 そのためだけに、皆は死を覚悟して死物狂いで戦った。

 皆が一つの願いを共有し、一つとなった想いに必死の命を懸けた。

 結果だけを見るならば、彼らの懸命な願いは間違いなく成就した。

 皆の想いは繋がり結実し、結果という成果を為した。

 彼らが一途に望んだその通りに、彼らの命を対価と注ぎ込むことで。

 全員が納得し、誰も彼もが死力を尽くした末に辿り着い結果であり、手に入れた成果だ。

 しかし果たしてそれが対価と等価だったとは、男は微塵も思っていない。

 払った犠牲に見合うとは。

 失った命と釣り合うなどと。

 そんなことは男には、どうしても思えなかった。

 彼らはもう、いないのだから。

 もう二度と、会えないのだから。

 男と共に日々を過ごし、生死を共にし、男よりも早く斃れていった者達。

 たとえ彼らが蘇ることがあったとしても、それはもう違うモノなのだから。

 そして、そんなことは決してあってはならないのだから。

 ひとりひとりの命の輝きを、男は全て覚えている。

 死した者達の生き様を、一つ残らずその全て。

 誰もがひとしく男を頼り、ある者は男に惚れ込み、ある者は男を好いて、またある者は男を愛していた。

 そして皆が、男を心から信じてくれた者たちだった。

 その顔からひとつひとつの命が亡くっていく様を、全て男は思い出せる。

 一人残らず全員が、死体となって逝く有り様を。

 そんな男にとって善き者たちの命の価値は、その結果の全てをもって男自身が証明している。

 己の足で、己の意志でこの場に立っていることが、何より彼らの命の意味を証明していた。

 だからこそ、男の歩みを止まることなく前へと進み続ける。

 男の姿は満身創痍。

 その肉体に、傷ついていない部位など無い。

 新旧織り交ぜて刻まれたその傷は、全てが誰かを守ったその証。

 その身体に、血に塗れていない箇所など無い。

 いまだ流れ続けるその紅は、全ては誰も殺さなかったその代償。

 それでいいと、男はそう思って生きてきた。

 自分が傷つくことで、自分が血を流している刹那だけでも。

 誰かが笑うことが出来るなら、誰かの憂いを拭えるのなら。

 それはとても素晴らしいことだと、自分に出来る唯一のことだと、今まで男は確信していた。

「まったく嫌な生き方ですね。自分が損をするなんて。きっと碌な死に方しませんよ」

 かつて男の生き方を、一刀言の刃ことのはで斬り捨てた一人の少女。

 今更となった懐かしい一言が、郷愁となって男の胸に去来する。

 そのときは、少女の言葉を否定した。

 「そんなことは決してない。例えそうだったとしても俺は絶対」と。

 そう言って、自分の確信を疑わなかった。

 だが、今の自分の姿は一体どうだ。

 自分が傷つくそれ以上に、誰かが傷つき死んでいった。

 自分の流した血よりも多く、誰かの命が溢れていった。

 そうして骨で組まれ、肉でならされ、血で舗装された、

 その末端にして先端に、男は今立っている。

 恐らくこの世で最も男に似合わぬこのに。

 ここは最も天に近き御座みざ

 地より足を離すこと許されぬ者達を拒絶する、生を育むこの世の極点。

 畏怖と崇敬の念を持ってのみ、仰ぎ見ることだけが許される天上への階段。

 神の足元にして唯一その御手が届く頂、いと貴きたっときこの世ならざる神世の底辺。

 神に見初められ、神に認められた者のみが足を踏み入れることを許された領域。

 それでも膝を折り目を閉じ頭を垂れることでしか、人がこの場に在ることは叶わなかった。

 あのとき、一人の少女が神の手を取り引き摺り貶しおとし、その首を刎ねるまで。

 それからはあらゆる不浄は清められ、いかなる不純物も夾雑物も排除され、で清浄に浄められた。

 それ以来、ここは唯一人と無二の一振りのためだけにある世界。

 、真に尊きこの世の聖域。

 その誰も侵すことの出来ないはずの領域に、

 まさに閑雅にして典雅、この世ならざる宛然たる幽玄の顕現。

 そこに伸びる、壮麗を体現し荘厳を具現したような流麗なる回廊。

 、男はただ前へと向かう。

 ずるり、ぼたりと、軋む不吉を引き連れて、不快な音に汚していく。

 誰かに託された遺志を背負い、想う者の亡くなった想いを抱えながら。

 それを、無責任だとは思わない。

 それは男が自分で意思で選択し、自分の遺志で決めたのだから。

 後ろを振り返れば、点々と続く血の斑道。

 それこそが男の生き方であり、これこそが男の生き様そのものだった。

 それでも、男が膝を屈することはない。

 顔を上げ、その瞳は前のみを見据えている。

 己の辿り着くべき結末を。

 自分が遭うべき宿命を。

 故にこそ、男は歩みを止めることは出来ず前へと進むしか

 そのすすり泣くように濡れた足音だけが、空虚に乾いて響き渡る。

 それはもう、聴いてくれる者のいなくなった心の響き。

 今はもう、たった一人になってしまった男の嘆き。

 言葉に出来ない、男の想いそのものだった。

「久しぶりに顔を合わせるんだ。せめて挨拶くらいはしておくれよ」

 男の歩みを止めたのは、美麗と繊細を極めし威風堂々たる威容を誇る門。

 自分と彼女を隔てているのは二人を遮る壁ではなく、

 そこに手を当て、またも自嘲混じりに男は呟く。

 その磨き抜かれ優美で艶やかな門には、べったりと男の紅い手形が貼りついている。

 それまで流してきたその血こそが通行証だとでもいうように、巨大な門は音もなく開かられる。

 まるでその最奥にいる者が、男を待っているかのように。

 開かれた門の向こう、続く道の先から光が男の影を浮き上がらせる。

 濁流の如く流れ溢れ出す光のあぎとに、男の姿は喰われ黒い影は呑み込まれていく。

 しかし、と言わんばかりに、男は口の端が小さく笑みを象った。

 白く燃える光を押しのけるようにして、男は再び歩み出す。

 誰もが謡い誰からも魔王と慕われる優しい男は、迷うことなく己の道を進んでいった。

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