第8話
7年後。
「
勤務先の法律事務所を訪ねてきた弟の市岡ヒサシに、昼食を食べながら市岡稟市弁護士は訊いた。近所の韓国料理店に頼んで届けてもらったヤンニョムチキンとキンパのセットで、事務所の隅に置いてあった丸椅子を引きずってきて隣に座ったヒサシは断りもせずにまだ湯気をたてているチキンに手を伸ばす。
「うめえ!」
「だろ。最近できた店でさ、こんな時期に頑張ってるし絶対潰れてほしくないから俺も
「ユキちゃんは?」
電話番のユキムラのことだ。
「ユキムラは毎日店で昼飯食って、夜はテイクアウトしてる」
「ヘビーユーザーじゃん。俺も帰りに寄ーろうっと」
「で、今日は何しに来た?」
スマートフォンでSNSを見るともなしに眺めている兄の目の前に、弟が一枚のディスクを突き出す。
「じゃかじゃーん! 本邦初公開のお品です!」
「何?」
「稟ちゃんのパソコンてブルレ再生できるの?」
「できるけど」
「じゃあ見てみて! 見れば分かる!」
ディスクを挿入し、再生ボタンを押す。始まったのはフランスの劇作家が一昨年発表したばかりの不条理劇だ。もちろん日本語に翻訳されている。
「宮内くり子先生ってフランス語ペラペラで自分で権利買って翻訳して上演しちゃうんだってね、すごすぎ」
「そういや、7年前に宮内さんが賞を取ったのもこの作家の戯曲じゃなかったか?」
「良く覚えてるね! まあ俺も覚えてたけど。宮内先生、この作家と仲良しみたいで新作出るとすぐ買って日本初演にしちゃうんだって。で、ほらここ!」
パソコンの画面の左端をヒサシの人差し指が指し示す。眼鏡を外し眉根を寄せた稟市が、やがて、あっ、と声を上げる。
「ガタムか!」
「そう、酒々井耀さんの恋人のガタム」
「え、でも、誰が」
「見てて見てて」
物語は進み、緩やかに暗転、そして静かに明転する板の上にひとりの長身の女性の姿が現れる。
「彼女は……あの時酒々井さんと一緒に相談に来た、」
「
三藤が打ち鳴らすガタムの音色が役者のいない舞台の上に響き渡る。役者はいない。そう、たしかに無人なのだが。
「この……なんだ、背景?」
「舞台美術、総合美術っていうの? 俺にも分かんないけど、ガタムも含めて完璧だと思わない?」
「ああ……」
朝焼けのような夕焼けのような茜色の照明の中に不可思議なデザインの背景が浮かび上がり、ガタムの生演奏に加えて音響が出す人工的な音が重なることでひとつの塊になる。稟市は舞台や演劇というものに明るくないが、今見ている光景はとても美しいと思った。
「このディスクはあげるから帰ったら最後まで見てよ。でね、注目してほしいのはこれ」
一方的に言って停止ボタンを押したヒサシは、ディスクと一緒に手にしていた白い封筒から新聞の切り抜きのようなものを取り出した。
「舞台……演劇の……文化賞?」
「そそそ。国がくれるやつ」
「宮内さんが以前受賞してたやつより規模がでかいやつか」
「そそそそそ。それをね、まず最優秀作品賞でしょ、演出賞は宮内くり子さん、主演俳優賞に、そんでこれ、舞台美術賞」
・最優秀舞台美術賞 『荒野を撃つ』 酒々井耀
切り抜きには、たしかにそう書かれていた。
「ていうかおまえこのディスクと切り抜き、どこから手に入れてきたんだ?」
「稟ちゃんの友だちの
「制作やってるっつってたな。宍戸がどうした?」
「俺こないだちょっと用事あって新大久保行ったんだけど、そしたら宍戸さんから急に会えないかって連絡来て。稽古場中野なんだって。で用事終わって近いから中野行って」
中野駅のホームで宮内くり子チームの制作担当、宍戸クサリが待っていた。お互い黒いマスクを付けたままで一定の距離を取って挨拶を交わし、ヒサシは宍戸が持ってきたA5サイズの封筒を受け取る。
宍戸は昨年疫病下の中どうにか公演にこぎ着けた作品が大きな賞を獲ったこと、特に若手の酒々井耀の仕事が認められたのが本当に嬉しいこと、そして国外への渡航制限が解除されたら若手演劇人を育てるプログラムの一環として酒々井はフランスに留学することを早口で伝えてきた。宮内に対する訴訟からコトは始まっており、大きな意味では市岡稟市とヒサシがいなければこの公演は成功しなかったし、酒々井が認められることもなかっただろうから礼を言っておいてほしい、とも。
「変に律儀だな、あいつは」
「ねー。そんでね、この舞台年末にやったんだけど例のウイルスの所為で予定日程の半分、お客さんも半分でしか上演できなかったんだって」
「ほう」
「それが大きな賞を受賞しちゃったもんだから、見たかった! って声がいっぱい来て、で記録映像として録画してたやつをYouTubeに流してからブルレで売るって話になってるって宍戸さん言ってて、でこのディスクはそのサンプル盤」
「なるほど」
「特典映像もあるよ。見る?」
見るよね、と弟が勝手に画面を操作する。チキンを食いながら稟市は映像をぼんやりと眺めている。
『えー、演出の宮内です。この度は大きな賞をいただきまして……それでソフト化まで……ねえ、私がこんなに喋る必要ある? 宍戸くん? ちょっと!』
『【荒野を撃つ】、大好評で嬉しいっす! 記者役の笛吹雪哉です。記者って役名ね、へへへ、もー、台詞が全然なくって超大変な役だったんすけど……』
『荒野、受賞おめでとうございます。今回もお誘いいただいて光栄です、澄田ウグイスでございます。このたびわたくしは、娼婦、マリア、それに座椅子の上の猫を演じさせていただきまして……』
『音響担当!
『照明、
『演助の
『舞台美術を担当いたしました、酒々井耀と申します』
『あ、えと、ガタムの演奏を担当した三藤キヨノです。えーっと……』
『何から話そっか。言いたいこといっぱいあるね』
『ねー! 長い道のりだったね!』
『長かったよぉ……ええっとですね、キヨノが演奏したこのガタム、本当は10年前に舞台に立つ予定だったんです、……』
「どう?」
「何が?」
弟の問いに、デスクに頬杖を突いた稟市は彼にしては珍しく、ひどくやわらかい声で応じた。
「何か見える?」
「いいや」
「なんにも?」
「見えないよ。いいメンバーだな」
「そっか。それじゃ、良かった」
ヒサシが何を確かめたいのか、稟市にはなんとなく分かっていた。だから言った。
「俺が言うとおかしく聞こえるかもしれないけど、酒々井さん、憑き物が落ちたように見えるよ」
憑き物、と繰り返したヒサシが弾けるように笑った。
「稟ちゃんがそれ言うとたしかに変かも!」
「俺は何もしてないのに自分で落として来た、大した人だよ」
「今後の活躍が楽しみだねえ。早く留学行けるようになるといいね」
「だな」
「ね」
宍戸クサリのインタビューを受ける酒々井耀の声はまるで極上の音楽のように鮮やかで、市岡稟市はひどく満たされた気持ちで両目を細める。彼女に、彼女たちに幸あれ、と心から願いながら。
おしまい。
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