音楽

大塚

第1話

 恋人が死んだ。熱中症だった。


 地獄の釜の蓋が開いたかのように暑い夏だった。私も恋人も所謂苦学生で、クーラーひとつ付いていないアパートで貧乏暮らしをしていた。恋人はミュージシャンだった。東南アジアの打楽器全般に興味を持っていたが、最後に夢中になっていたのは南インドで作られているガタムという楽器だ。見た目はほとんど陶器の壺で、現地でも凄腕の職人によって数えるほどしか作られていない希少なものなのだという。私にはその価値が良く分からず、花を生けるには大きすぎるね、なんてくだらない冗談を言っては良く叱られていた。ご遺族によると、彼はその大切なガタムを抱えるようにして亡くなっていたのだという。


 その年の暮れ、彼はある演出家に誘われて舞台に出演する予定だった。役者としてではなく、打楽器の生演奏をするミュージシャンとして。演出家はその世界ではそこそこ有名な中年の女性で、新大久保の駅前でジャンベを叩いていた恋人を見かけてスカウトして来たそうだ。稽古は、夏の終わりから始まる予定なのだと聞いていた。


 演出家と舞台に出演予定の俳優たち、それにスタッフたちも葬儀に足を運んでいた。私は、彼の恋人ではあるが婚約者でも配偶者でもなんでもない私は、他人なので親族側の席に座ることもできず、彼のミュージシャン仲間に囲まれてぼんやりと葬儀の進行を見守っていた。遺体の顔を見ることはできたが、恋人の私の目から見てもひどいものだった。あなたは5桁のカネを出してガタムを買わず、エアコンを買うべきだったんだよ、と思った。そうすれば年末には舞台に出て、大勢の人にあなたの演奏を聴いてもらうことができたのに。そこからもしかしたら話が広まって、路上で投げ銭を待つよりもっと美しいステージに立つことができたかもしれないのに。

 俯いたまま泣くこともできない私を、ミュージシャン仲間たちも、音大の友人たちも慰めあぐねているようだった。それはそうだ。生前の彼は私を音楽関係の仲間に紹介しなかった。理由は良く分からない。いや、本当は分かっている。私は人付き合いが苦手だ。私は芸大に通っていて、シルクスクリーンで作品をつくっている。シルクスクリーンってなに? と訊かれるのが苦手だ。どうして油絵じゃないの? と訊かれるのが怖い。私は私が望んでシルクスクリーンを表現方法として選んだけど、それについて詰問されるのが嫌いだ。だから彼は、私を私の望まない人間関係の中に組み込まなかった。でも、こんなことになるなら。

「……やだ!!」

 葬儀場の入り口から大きな声が聞こえてきたのは、そんなことを茫然と考えている時のことだった。葬式という厳粛な場にそぐわない、甲高い、女性の声だった。

「わたし、やだ、先輩の死顔なんか見たくない!」

 黒いワンピースを見事に着こなしている女性だった。いや、少女と称しても良いかもしれない。目鼻立ちのはっきりした整った顔立ちを葬儀には不似合いなほど鮮やかに彩り、傍らに立つ長身の男性に半ばしがみつくようにして泣き喚いている。

「見たくない……熱中症だったんでしょう? 腐っちゃってるんでしょ!? そんな先輩、わたし、わたし……」

 おい、と言って私の隣に座っていた女性が立ち上がる。恋人のミュージシャン仲間で、良く一緒にライブをしていたと自己紹介された。額に青筋が浮いている。分かる。あまりにも失礼な言い草だ。

「誰だあの女」

良守よしもりの後輩です、たしか一年生の……」

「関係ねえよ、つまみ出せ」

 長い黒髪を肩口できっちりと結んだ女性の怒りを隠さない問いに、私の斜め前で椅子から腰を浮かせた緑髪の男性が答えた。緑髪はたしか、恋人の大学の同期だ。

「教授が連れてきちゃったんですね、打楽器科御一行様だ」

「葬式をなんだと思ってるんだ!?」

 緑髪の言葉の通り、ワンピースの少女にしがみ付かれている男性はよく見るといかにも大学の教授っぽい雰囲気を纏っており、泣き喚く教え子の背を困りきった顔で摩っている。

 ああ、私も、あんな風に泣けたら良かったのに。夏の暑さに負けて死んで腐っちゃった良守なんて見たくないって、そんなの私の知ってる良守じゃないって、泣ければ。


 平手の音が響き渡った。


 これもまた前触れのない音だった。

 キレまくっていた隣席の女性さえ声を失う大きな音で、ぽかんと口を開いた彼女はすぐに腕を伸ばして私の肩を抱いた。私は良く知らない他人に体を触れられるのがあまり得意な方ではなかったが、今はありがたかった。色々なことが一気に起こりすぎている。

「心配しないで、ちゃんとガードするから」

 隣席の女性が早口で言う。何が起きているのかまるで分からなかったが、何かが起きているのは間違いない。私は糸のようだと言われることが多い両目をできる限り大きく見開いて、はい、と呟いた。

「物見遊山で来たなら今すぐ出て行きなさい!!」

 平手の音の次に聞こえてきたのは、低くしゃがれた女性の声だった。誰だ、と隣席の女性が唸る。

「あの人……」

 緑髪が呟いた。

「良守のことスカウトした演出家だ」

「あの人が!?」

 裏返った声を上げる隣席の女性はほとんど私のことを抱え込んでいた。彼女はとても背が高く、腕は筋肉質でしなやかだった。楽器を演奏するための筋肉だと私はすぐに気付いた。なぜなら恋人の体と良く似ていたからだ。その腕からどうにか顔だけ抜け出して、私は騒ぎが起きている方向に視線を向ける。喪服姿の小柄な中年女性が、大学教授を引っ叩いたようだった。

 あの人が、私の恋人をスカウトした人。

「そっちのお嬢ちゃんも、いい加減にしな。黙って聞いてれば良守くんがなんだって!?」

 天然パーマと思しき白髪混じりの黒髪を肩口あたりまで伸ばし、黒縁眼鏡をかけた女性がそう啖呵を切る。ワンピースの少女はより一層声を張り上げて泣いた。遺族の席がざわめき始めている。これは良くない。恋人の最期の大舞台に、こんなのは。

 でも、なんでだろう。なんだかこれも虚構の世界のようだった。泣き喚く少女と大学教授、それに彼らを囲む学科生たちの登場までは現実だったのに、演出家の参戦で葬儀場は板の上に様変わりをした。

「すげえ」

 隣席の女性が呟く。本当にすごい、と思う。演出家と教授は30センチぐらい身長差があり、年齢だって教授の方がかなり若いのに、痩せぎすで小柄な演出家に完全に食われてしまっている。

「ぼ、ぼくは良守くんの担当教員です。あなたがどなたかは知りませんが、こんな無礼は……」

「外に出な。あんたら全員だよ」

小宮こみや完全にやられてんじゃん」

 緑髪が笑いを含んだ声で言った。ちらりと顔を見ると、慌てた様子でくちびるを引き結ぶ。そう、こんなところで笑みを浮かべるなんて本当に不謹慎。最低。でも、今いちばん最低なのは緑髪でも私でも隣席の黒髪でもなくて。

 演出家は教授……小宮とその一行を眼光ひとつで斎場から追い出し、自分もあとに続いた。外で何が起きているのかは分からないが、演出家が座っていたあたりからひとりの青年が飛び出して遺族席に向かい、何やら説明をしていた。別れの席は静寂を取り戻した。小宮教授とその一行は戻ってこなかった。演出家だけが再び斎場に入り、遺族に頭を下げていた。


 これが私の恋人、良守覚よしもりさとしの死とその葬儀に纏わる一部始終だ。火葬場について行けない私は葬儀を見届けたのち、緑髪こと真野球亮まのきゅうすけと隣席の黒髪こと三藤みとうキヨノと飲みに行き連絡先を交換した。


 恋人の実家であるL県から大きな荷物が送られてきたのは翌月のことだった。私は大学を半ば休学して、家で自分の好きな落書きばかりをして過ごしていた。居酒屋のアルバイトだけは続けていた。エアコンがほしかったから。

 荷物の中身はもちろん、恋人のガタムだった。葬儀の際に少し話をしただけの恋人の母親から短い手紙が添えられていて、そこには「俺に何かあったら楽器は全部酒々井耀しすいようにあげて」という遺書にも似たメモ書きが部屋の中で見つかったためと書かれていた。遺書。恋人は自分の死を予測していたのだろうか。

 私は手紙に添えられていた電話番号に連絡をし、恋人の母親に楽器はガタムだけで結構ですと伝えた。葬儀の日より幾らか落ち着いた様子の恋人の母親は、そうよね、なんだか山ほどあったし、全部渡されても困るわよね、と穏やかな声で言った。私は真野の連絡先を伝え、もし楽器の処分に困っていたら彼に相談してはどうかと提案した。恋人の母親は真野の存在を知ってはいたが彼に相談するという選択肢は持っていなかったようで、すぐに連絡をする、ありがとう、と言ってくれた。

 通話を終えた私は厳重に梱包されてやって来たガタムを狭い部屋の真ん中にそっと置き、恋人がそうしていたように撫でるように、叩くようにして音を出そうと試みた。だが、鳴らない。そりゃそうだ。私は絵描きであって、ミュージシャンではない。恋人だってすぐに打ち解けたわけではないガタムを、そう簡単に歌わせることができるはずがない。本当に花でも生けちゃおうかな、と思いながら写真を撮り、三藤キヨノへのメールに添付して送った。三藤からはすぐに返信が来て「その子は耀ちゃんのとこにいるのがいちばんいいよ」と言われた。そうかな、と思う。そうだな、とも思う。真野からもその日の晩に電話がかかってきて、片見分け手伝ってくるわ、とのことだった。彼ならば恋人が愛した楽器を持つべき人たちにきちんと届けてくれるだろう。

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