月とメイドロボと異世界と

霊鷲山暁灰

メイドロボとイチャラブ生活する一つ屋根の下にトラックが突っ込んでくるという理不尽

 落下する。

 青い星と、白い月に挟まれて、重力を感じながら落ちてゆく。

 愉快な人生だった。相応に、終わりは飛び切り派手で、しかし誰にも気づかれない。最高の見世物だというのに。

 だが、それも因果応報か。墜落死体を片付ける誰かさんのために、いくつかの心づけは用意してある。益体もない、ただの紙に書かれた歌と物語に過ぎないが。

「なあ――」

 すでにそこにいない誰かに向けて言う。世界の狭間で落下を続けながら、撃たれ落ちる鳥の一声のごとく。

「俺は俺のための人生を奔り抜けた。世界のためじゃなく。お前はどうだった?」

 答えるものは誰もいない。

 ぼやけた月が、遠ざかる。



 プロローグ



 阿部魁あべかいの半生はいたって平凡かつ平穏である。工科系の大学院を卒業後は新卒で製造業大手に就職。安定した俸給の生み出す安定した日々を消化することにも慣れた。

 当たり前のように続く深夜残業は意識の覚醒を躊躇させるに足るものだったが、甘えたことも言ってはいられない。気力を振り絞り起床を決意すれば、まず味噌汁の匂いが鼻腔を突いた。軽く深呼吸を行い、目を開く。

 全裸にエプロン一枚の女が、胸元を見せながら、こちらの目を超至近で覗いていた。

「おはようございます、ご主人様! 私の計算通り六時四十分十一秒ピッタの起床! ご主人様さすがですう! 大好き! 抱いて!」

 女は柔らかそうな尻をちらちらと見せながら、決して広くはない六畳間を小躍りで跳ね回る。怒った隣人が壁を叩いた。魁が女を一睨みすると、彼女はしゅんとベッドの脇に座る。

「いつも言ってるけど、そのやかましい起こし方何とかならないか――ハル」

 煽情的な光景だが、魁は動揺一つ見せずに女を窘める。ハルと呼ばれた女は、魁の妻でも恋人でもない。EBM社製電子頭脳にチタニウムの骨、シリコンゴムの肌で人工的に作られた人型家事ロボット。つまるところのメイドロボというものだ。裸だろうと、慣れれば素通りできる。

「私のご主人様に対する愛故に、ついつい万事において創意工夫を凝らしてしまうのです。『やかましい』――ええ、理解できておりますとも。しかしその叱咤激励も愛の原動力。私の溢れんばかりのバイタリティをこう、ベタ踏みからのレッドゾーンで。ああっ、バイタリティ溢れちゃう……!」

 ハルは後ろに組んだ右足を、四輪車のアクセルを踏み込むようにパタパタとさせた。今時アクセルペダルの付いている車など、レース用か教習用くらいなものだが。

 出社と睡眠を繰り返すだけの日々に、せめてもの活力を得ようと、なるべく元気な性格になるようにラーニングさせていった。そういう育てていく楽しみも人型アンドロイドの魅力というものだが、これはさすがにやりすぎたと感じる。

「で、いかがいたしますかご主人様? 私にいたしますか? 朝食にいたしますか? それとも意表を突いて私!?」

 別に使い古されたコントをラーニングして、単なる冗談を言っているわけではない。精巧な外見をした若い女型のアンドロイドというのは、主に魁のような小金持ちの独身男性をターゲットに作られている。ハルもその例に漏れず、性玩具セクサロイドとしての機能を備えていた。

「朝食だよ。朝っぱらから一戦交えるような余裕なんか無いだろうが。その服も早く着替えてくれ。――いや、言い間違いだ。それは服じゃない。いつもの服を着ろ」

 二年も一緒に暮らしていれば、魁もハルの特異な言語に毒されてくる。一瞬でもエプロン一枚を服と認識してしまったのがその証拠だ。

「ああん、私の作って差し上げた朝食を冷めない内に召し上がりたいというご厚情ですね!? 私、幸せで七孔噴血しそうです! 血も涙もない機械ですけどね……ふふっ……ふひっ……。ではでは、ご主人様たってのご希望とあらば、いつものメイド服に着替えさせていただきますね。もう、ご主人様ったらフェチいんだから」

 ハルはエプロンを台所横のハンガーに掛け、専用のプラスチック箪笥から丈の短いメイド服を取り出した。購入時からデフォルトで付いてきたものだ。一時期興が乗っていた頃には他のコスチュームも試してみたが、最近はこの一着に落ち着いている。

 元来魁は凝り性で、ハルを迎えたときにも、髪の色から顔立ちまで細かく好みに合わせて発注した。二つ結びの長い金髪。ブロンドヘアは好きだが、白人が特別好みという訳でもない。顔は東洋系の童顔を意識して組んである。改めて見ると、ハルは可愛い。ダ・ヴィンチをはじめとして極一部の限られた天才にしか許されなかった完璧な美女の創造が、魁のような一般人にも可能になったことは、今の時代数少ない利点だ。

「ではごゆっくり召し上がってくださいな。私は洗い物などしていますから」

 そんなこちらの思惑を知ってか知らずか、最後に斜め四十五度のキメ顔を一瞬静止させてから台所に立った。

「……は」

 まずは煮魚を口に運ぶ。早くから仕込んでいたのか、良く味が染みている。忙しい朝に気を使って、骨を抜くのも忘れていない。メイドロボの家事能力は特上だ。長時間労働が常態化した今時の独身者は、何かしらの家事支援ロボが無ければ相当に厳しい生活を強いられるだろう。

 食事中はさすがのハルも黙る。明らかに主人の不興を買う真似をする程に、彼女はバグっていない。家電管理用の端末を立ち上げ、テレビのスイッチを入れた。いつもの経済ニュースが映し出される。月面の映像。アメリカ主導で日本も参加している月面開発事業関連のニュースだ。男性キャスターが原稿を読み上げる。

「五年前に米EBM社の開発した自己進化型量子コンピューター『セレーネ』が、昨夜中国の『文武』を追い抜き世界最高の計算能力を獲得しました」

 五年前といえば、魁は学生時代だ。重度の技術オタクギークだった魁は、当然セレーネのことも知っている。集積回路ICの代わりに水素原子を本体とし、生物が細胞分裂する如く自己を拡張していく超技術の結晶。真空状態での稼働が前提であるため、月面に建造された。ハルを見ても分かるが、今は人工知能の時代だ。半面、良いことばかりではないが。

「あら」

 軽いモーター音を聞き取ったハルが、部屋のカーテンを閉めた。一瞬見えた黒い影、双発の無人機は政府の監視ドローンだ。同型機がナイジェリアで世界最後のテロ組織の司令官を射殺してから、この地球に戦争らしい戦争は途絶えた。

 それだけならば喜ばしいことなのだろう。しかし、鉛弾を直接ブチ込まれるのも、些細な瑕疵で警官を呼ばれ拘束されるのも暴力には違いない。奴らがマシンガンを装備していないということに何の安心感があるというのか、魁には理解できなかった。室内までは一応管轄外だ。カーテンを閉めて出歯亀を拒んだところで何の咎を受けるものでもないが、不快なことに変わりはない。

「美味かったよ。いつもありがとうな」

 完食し、箸を置く。毎朝交わされているような会話だが、ハルは飽きずに肩を震わせて感激の表情で手を止めた。

「やだ……私のご主人様が尊すぎる……。喜びのあまり山桜咲き乱れ、鳥は啼き、鯛が跳ね、粉雪舞い、家が建ち、畑はコルホーズってレベルですう!」

 隣の住人が再び壁を叩いた。

 ハルはかなり極端な例だろうが、メイドロボなら主人への好意は持っていて当然だ。ハルのそれも、いわゆるリップサービスというものが多分に含まれているのだろう。彼女が意識することはないだろうが。

 鏡を見れば、どこにでもいそうな痩せた男がいた。これでメガネでも掛ければ本人にすら同僚の工学人たちとの区別が付かなくなる。リップサービスでなければ、どうしてこんな美女が魁のような凡庸な男に好意を向けるというのだろうか。

 セクサロイドとしての性格上、下手にメイドロボの詳細を話せば性的嗜好の暴露になりかねないために、彼女たちの話題を振る男は少ない。セクハラで訴えられるのは御免だ。なので別の個体がどうか詳しいことは知らないが。

「鏡などご覧になってどうされましたご主人様? は、ヘアメイクですね!? これは至らず申し訳ありません。ご主人様がヒゲ以外の身だしなみを気にされることなど珍しいものでつい。不手際をお許しくださいませ」

 大急ぎで櫛と霧吹き、ドライヤーを掴んだハルに首を振る。

「そうじゃないよ。ただ、朝食が一品足りなかったかな」

「……はい」

 別にハルを責めているわけではないが、この話題を振ると彼女は黙る。数少ない、彼女に手の出せない分野であるためか。

 薬箱から錠剤を一個取り出した。安全のため薬箱は本人にしか開けられないし、使用ログも取られている。管理が厳しいのはその薬が向精神薬――いわゆる覚せい剤だからだ。会社の命令で、業務効率化と事故防止のため――ということで服用が義務付けられている。今や日本の労働者に必須の薬物だったが、会社を辞めた後で依存症や自殺が相次ぎ問題視する声も上がっていた。だが、所詮は落伍者の泣き言と扱われ、まともに審議されるに至っていない。

 水道水で錠剤を嚥下すると、活力が沸いたような気になる。魁は工場機械類の開発担当。導入や不具合のために頻繁な出向もある忙しい部署だ。今日出社すれば通算三百連勤になるが、なんとかなるだろう。

 出勤の支度も基本的にハル任せだ。電気カミソリでヒゲを整えられた後、熱いお絞りで顔を拭かれる。用意されたスーツを着て、ネクタイを締めてもらえば、勤続四年目の中堅社員が完成。

「じゃ、行ってきます」

 アパートを出ようとすると、ハルに引き留められた。

「あ、お待ちくださいご主人様! お弁当をお持ちでないですよ!」

「おっと、ごめんよ」

 ハルの手から弁当の包みを受け取ろうと近寄る。その瞬間――

「!?」

 壁を叩く音。否、叩くというよりもはっきり破壊する音だ。間違っても隣人の壁ドンなどではない。次の瞬間には大型トラックの青白いヘッドライトが魁とハルを照らしていた。

 決して事故など起こすはずもない自動運転の輸送車両が、アパートの一階にある魁の部屋に突っ込んできたのだ。疑問に納得いく答えを出す間もなく、魁の意識は消失した。

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