狼煙 ※


日本では、春は花、秋は月を愛で、季節を楽しんでまいりました。十五夜のお月見は平安時代に中国から伝わり、江戸時代より、中秋の名月を鑑賞する、伝統的な行事となりました。澄み渡る、秋の夜空を昇る月に、人々は収穫の感謝を込めて祈り、来年の豊作を願いました。

わたくしどもにとりましても、まさに……そう、正にこの日は、ねんに一度の収穫を祝う夜なのでございます。

今宵の名月は、黄金色こがねいろに輝く望月は、我が一族には赤く見えるのです。

薔薇の鮮烈な光沢の中に、暗くみだりがましい黄赤を混ぜ込むような、或いは、洋灯にかざした婀娜あだっぽい赭褐色の封蝋ふうろうにも似た、おぞましい血の色をしているのです。

狼煙のろしのごときその淫靡な赤が、一夜限りの狩猟の合図なのでございます。


そろそろ、日が落ちてまいりました。あなた様はお帰りになったほうが良い。

間も無く、年に一度の名月がいず時分じぶんには、私は、今の姿をとどめておくことが出来ないのです。この意識も半分は、闇の彼方に飛んで行ってしまうのです。……こんな話をするのは、あなた様を、只々お慕いしていればこそ。毛むくじゃらの醜悪な姿を、あなた様の前に晒しとうはございません。


さあ、行きやりょれ。


えっ、なぜ行かぬ、恥を忍んで申したものを。


さあ行かぬか……、早よう!


何を、んっ……覚悟がおありか?



そうなのですか。

何もかも、お見通しだったのでごさいますね。私が、大口真神おおぐちのまがみより血を分けた、人を喰らう人狼なのだということを。

神の道より外れた魔狼だと……


えっ、帝国陸軍の密偵?

戸山町、陸軍軍医学校防疫部隷下……

関東軍731部隊。


生体……実験……?

私に近付いたのは、そういうことだったのですか。


生物兵器……

はなからそれが目的で。


では、私をとらえるか?

或いは、退治なさるか……


密命なのでこざいましょ。




・・・




思えばあの御方の、素朴な優しさ、暖かさにすがっていたのかも知れません。


凍えるほどの寒さと言うものは、温度計で計るものとはまた、違った意味をもつのだと、の地……そう、満州で思い知らされたのでございます。

『ふるさとは遠きにありて思ふもの』とは、よく言ったものでございますね。

初夏の湿地を彩るミズバショウやワタスゲ、冬に降り積もる雪の重みで地を這うように、クネクネとうねりながら広がるダケカンバやハイマツは、秋の紅葉ではしっとりと色付いて。


今ならわかる気がします。

山はたおやかだった。あの人の穏やかな言の葉が、木霊のようにいつも響いておりました。

故に、気がつかなかったのですね。


理由ですか……

苦しみから逃れる為?

過去を忘れ去りたかったから?


確かに最初はそうだったのかも知れません。

あの人が教えてくれた故郷の温もり。知らずと気が付いたら、そこにおりました。

暖かくて、嬉しくて、ただ幸せで……

そう、あの日までは。




あの夜、

小川の水面に揺れる赤い月は、



確かに血の色をしていました。




・・・


参考音源

「月と狼」

https://youtu.be/WdW4qz352U0

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る