第10話 根回しと相談
翌日の昼、13時。
『純くん、一つ相談をさせていただきたい。お時間はあるかい?』
「は、はい!? なんでございましょうか」
普段通りに翻訳業に打ち込んでいた俺に一本の電話がかかってきた。
電話番号を見てもピンとはならず、ひとまず手に取ったその相手はまさかまさかの藤原家、大黒柱……。
俺を雇ってもらっている旦那さまだった。
『まあ口調を崩して楽にしておくれ。ゆっくり話そうではないか』
「あ、ありがとうございます。それではお言葉に甘えます」
……正直、怖い。一体どのような要件で電話をかけてきたのか。今のところ仕事でミスはしていないはず。もちろんサボっているつもりもない……。電話をかけられる心当たりもなく、内容も掴めないのだ。
俺には旦那さまに対して一つ感じていることがあるのだ。
『俺のことを敵視しているような気がする……』と。
旧友にもこの件を相談していたからこそ、余計に変なことを勘ぐってしまう。
「……そ、それでどうなさいました?」
『うむ。急なことで本当に申し訳ないのだが、娘の美雨が純くんに英語を教わりたいとお願いをしてきたのだ」
「えっ? そ、それは翻訳業をしていることを理由にですか?」
『ああ。困惑しているところにこんなことを言うのもアレだが、娘のお願いともなれば……父親として叶えてあげたいのだ』
「つ、つまり……」
『単刀直入に、美雨に英語を教えてもらいたい。もちろんそれに見合った報酬は支払わせてもらうつもりだ』
「……」
この内容を聞いて一つ繋がったことがあった。
昨日、連絡先を交換した飛鳥が『仕事内容について余裕があるのか、今の翻訳業について余裕があるのか』、細かに聞いてきた理由を。
全てはこの件に時間を割くことができるのか確認するためのものだったのだと。妹を思った優しい行動だろう……。
しかし、だからと言って気持ち一つで了承できるという問題ではない。
「あの、大変ありがたいお話ではあるんですが、自分が担当するのはあまりオススメできることではないかと……」
『さすがは純くんだ。家庭教師、もしくは塾講師にお任せすることが良いと言いたいのだろう?』
「そ、その通りです。確かに人並みには英語を使うことはできるのですが、相手に教えるスキルは素人の自分ですから」
それを知っていてなぜ……。と、クエスチョンマークが浮かぶが、質問する前に回答が得られた。
『……その提案をしても美雨は言うのだよ。純さんがいいと。純さんじゃなきゃ嫌だと。ずっと首を横に振って。羨ましいぞ……純くん』
「あ、あはは……」
感情がこもりすぎているが故に震えた声が電話から聞こえてくる……。お世辞ではなく、本当に羨んでいるのがわかる声色だけに反応に困った。
『コホン。いかんいかん。話が脱線してしまうところだった……。それで本題についてもう少し詳しく話しても良いだろうか』
「はい、お願いします」
『今考えていることだが、純くんの勤務時間を14時から19時の1時間追加で考えている。まずはお試し期間を作る方がお互いに都合が良いとは思うのだ』
先ほどとは打って変わり、真剣な声が届いてくる。まだ家族を持っていない俺だが、本当に娘さんを愛しているのだろうとわかる。
『もし美雨の手応えが良いとなれば、また改めてこの相談させてもらいたい』
「な、なるほどです」
『では、どうだろうか。一応はこの流れでお願いしたいのだが……』
「んー、えっと……」
即決なんてできない。
勉強を教えたことなんて記憶にあまりない俺が、家庭教師のような役を担っていいのかと。
考えなくともわかる責任の重大さ……。保身に走るなら自信のないことは断るべきだろう……。
それでもわざわざ忙しい中、電話をかけてくれて頼ってくれた。子どものために一生懸命に行動している。そんな父親の姿に……勇気を出すべきことだと思った。
「わ、わかりました。そのお話、喜んでお受けします」
『おおそうか! ありがとう純くん! これで娘も喜ぶはずだ』
「ちなみになんですが、その件はいつからになりますか?」
『……すまない」
いきなり聞こえる謝罪の声。
『ここまで話を進めていてなんだが、それはわからんのだ』
「わ、わからないとおっしゃいますと……? 美雨さまが旦那さまにお願いしてこのお話が届いているとは思っているのですが……」
『これはまだ言っていなかったんだが、引っ込み思案でもある美雨が大きな成長を見せていてな……。パパに頼らず、まずは一人で頑張ってみると』
「はい……?」
『複雑な話、美雨はこの件が純さんに流れていることを知らないのだ』
「つ、つまり、美雨さまが旦那さまに自分に英語を教えて欲しいと頼み、旦那さまから許可をもらって自分にお話するところを——」
『——このように純くんに先に伝えて了承してくれるのか確認させてもらった。との形になる』
「理解しました。もし自分がお断りした場合には美雨さまに諦めさせる方向で動こうとしていたわけですね」
『うむ。せっかく勇気を出して断られたりしたとなれば美雨は傷つくはずだ。それだけは絶対にさせられん……』
穴のない完璧な根回しだろう。これで『絶対に大丈夫だから頑張って!』と促せるようになったわけでもある。
ちょっと手を焼きすぎていると感じはしたが、それほど可愛い存在なのだろう。
『あとはいつ美雨が純くんに声をかけるかによって教える時期は変わってくるのだが、ゆっくり待ってもらえるとありがたい……。迷惑をかけてしまうが、勇気を出すタイミング等もあるだろうから。あと、その際には優しくしてもらえたらと思う……』
「はい、承知しました」
笑みを我慢しながら俺は頷いた。
もちろんあざ笑っているようなことではなく、家族想いだなと改めて感じたから。
本当に暖かな家庭で美雨と飛鳥は育っているのだろう。
『ち、ちなみに念のために言わせてもらうが……いくら可愛い娘だからと言って悪いことはしな……。っと、す、すまない。今のは忘れてほしい』
勉強を教える際には恐らく美雨の自室になる。つまり、一対一の密室ということ。
父親目線、
「いえいえ、心配する気持ちはわかりますので平気です。美雨さまも飛鳥さまも素敵な方ですから」
『ッ! そ、そうだろう!? 素敵な娘たちだろう!?』
「はい。少し関わらせてもらったんですが、立派な娘さまだと思ってます」
『ッ!! そうだろう!! 純くん、今度お酒を飲みながら共に話そうではないか!』
「もちろんその際にはお願いします。あはは」
『ハハハッ、こちらこそよろしく頼むぞ!』
そうして、この約束を交わせばご機嫌のままに電話が終わった。
この出来事が純を気にいるキッカケになったのは間違いなく……。その一方、大好きな美雨を取られてしまうような、純と親密にさせてしまうような根回しを完了させてしまったことも後に気づくことになる。
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