月に魅せられて

棗颯介

月に魅せられて

 “月が綺麗ですね”。

 その言葉に恋愛的な意味を持たせたのは誰だっただろうか。野口英世だった気もするが、芥川龍之介だと言われれば信じてしまう程度には、僕に文学に対する興味はないし蘊蓄もない。ただ、高校三年生の今はともかく、まだ世間一般で言うところの優等生を名乗っていられていた中学時代に一度だけ期末試験で国語の点数が学年九位になったことは密かな自慢だ。ものの弾みだったんだろうけど。

 ともかく、僕には文学的な才能はないのだけれど、“月が綺麗ですね”という言葉に恋愛的な意味があるということくらいは知っている。才能も興味も蘊蓄もない僕が知っているんだから、ある程度歳のいった人種なら誰でも知っていることなんだと思う。そういうのをきっと世間では“常識”と呼ぶんだろう。


「こんばんは、夏海なつみくん。月が綺麗ですね」


 つまり、夜に自宅付近の自動販売機にドクターペッパーを買いに来た僕が出会った、クラスメイトの常願寺じょうがんじまりあが僕に対してそんな台詞を吐いたのは、彼女が僕に対して好意を持っているということなのではないかと思春期の僕は当然邪推してしまうわけで。だからだろうか、彼女の挨拶に対する僕の返答は、幾分遅れてしまった。常願寺まりあが、頭に疑問符を浮かべるかのように首を傾げる間が生まれてしまうくらい。


「———“私、死んでもいいわ”?」

「?夏海くん、何か悩みでもあるの?」

「いや、常願寺さんが言ったんでしょ?」

「私、そんなネガティブなこと言ってないよ」


 常願寺まりあとこうして会話をしたのは今日が初めてだったが、このわずかな問答の中で、自分の中での常願寺まりあという少女の印象は固まってしまう。


 ———この人、非常識なのかな。


「ほら、見てみなよ夏海くん」


 そう言って常願寺まりあは、缶コーヒーを持った右手を夜空に掲げ、缶コーヒーに回した五本の指の内一本だけを伸ばして暗闇の中にぽっかりと空いた黄色がかった穴を指し示す。よく見てみるとその指は薬指だった。器用なことだ。


「綺麗な弦月げんげつだと思わない?」

「弦月?半月だろ?」

「そうとも呼ぶね。上弦の月とかって、聞いたことない?」

「あいにくだけど」

「月が弦月———夏海くんが言うところの半月だね。それになる周期は一ヵ月に二回あるの。一度目の半月を上弦の月。二度目の半月を下弦の月。弧が右側なのが上弦で、左側なのが下弦ね?」

「ふぅん」


 『月が綺麗ですね』の意味は知らないのに月に関する蘊蓄は良く知っているんだなと、内心僕はそう思った。


「ところで夏海くん、こんなところで何してるの?」

「自販機にドクペを買いに来ただけだよ」

「端的かつ結論から述べているお手本のような回答だね。でも一つ指摘するなら、ドクペって略語を使っているのは知らない人に対して少し不親切じゃないかな」

「国語の教師かお前は。というか、ドクペが略語だって分かるっていうことは、少なくとも常願寺さんはドクターペッパーを知ってるんだろ?ならこの場合略語を使っても百点満点のはずだ」

「あはは、それもそうだね」


 そう言いながら常願寺は席を譲るように自販機の前から数歩後ずさった。入れ替わるように僕は硬貨を押し入れ、ボタンを押す。設計された通りにドクターペッパーの紅色の缶が吐き出された。

 その場で缶を開けて一気に飲料を流し込んだ。独特の甘さが受け入れられないという声は万国共通存在するらしいが、慣れるとこのフレーバーが癖になるのだ。


「というか常願寺さん」

「え?」

「どうして下の名前で呼ぶの?」

「だって、夏海くんの名前って夏海だよね。夏の海って書いて」

「いやそうだけどさ、普通は同じクラスになって一ヵ月も経っていない同級生のことを下の名前で呼ぶことなんてあまりないと思うんだけど」

「それはほら、名字で呼ぶと同姓の人が身近にいたとき困っちゃうこと、あるでしょ?」

「下の名前でもあまり変わらないと思うけどな。ところで、常願寺は何してるんだよ」

「何って、何が?」

「質問を質問で返すな」

「いや、何を聞かれたのか分からなかったし」

「夜に女子高生が一人で外にいるなんて、何か理由があってのことだと思うのが自然だと思うけど?」

「見て分からないの夏海くん?」

「いや、考えようによってはいくらでも思い浮かぶし、ある程度予想はできるんだけどさ」


 大方、自分と同じように飲み物を買いに来たんだろう。この伏川ふしかわ夏海が考え得る限りの中で、状況証拠的には最有力候補だ。

 常願寺まりあはふふんと笑い、同学年の女子生徒たちと比べれば少々発育の良い胸を張るようにして答えた。


「夏海くんの予想通り、天体観測だよ」


 予想が外れた。


「一応聞くけど、なんで?」

「だって、こんなに月が綺麗なんだもん。春の夜風を感じながら月見珈琲としゃれこみたいじゃない?」


 ———なんだ、月見珈琲って。


「そっか。じゃあ、邪魔したね」

「うん、また明日ね。夏海くん」


 人となりはあまり知らないけど、どうにもこの常願寺まりあという女子高生は、変わり者らしい。そう察知した僕は、面倒に巻き込まれないように早々に家に戻ることにした。

 ただでさえ、“面倒ごとに巻き込まれやすい体質”なのだから。


***


 常願寺まりあという女子高生は変わっている。

 いや、狂っている。

 狂っていることを、私自身自覚している。

 なぜなら私はどうしようもなく、排他的だから。他人というものに対して。


「…………はぁ」


 やっぱり、これをしないと落ち着かない。心を保てない。安心できない。

 月見珈琲を終えて家に戻った私は、手を洗うよりも先に、親に帰宅を知らせるよりも先に、自室に鍵をかけて使い古した学習机の引き出しの奥に隠した“それ”を引っ張り出して、高校の入学祝いに母に買ってもらった万年筆で、つい先ほどまで外で会話していたクラスメイトの名前を“それ”に書き付けた。何度も何度も。心を込めて。敵意を込めて。殺意を込めて。

 

『伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海伏川夏海』


 四十四回。

 一人につき、名前を書くのは四十四回と決めていた。なんとなく、その方が死に近い気がして。

 

 常願寺まりあが大学ノートに他人の名前を書く“癖”がついたのは、小学校三年生の頃だった。常願寺少女は小学校という小さなコミュニティの中においては、努めて明るく振る舞い、努めて真っ当な人間を演じようと努力していたと言える。

 本来の気弱で照れ屋、それでいて興味のない人種にはとことん興味のない、むしろ自分のこと以外に興味のない、所謂コミュニケーション能力あるいは他人の存在を認められる度量やセンスが決定的に欠如していたことを、親にも教師にも同級生にも隠し通せる程度には、その努力は実っていた。しかし本性から遠い、偽りの仮面を被って他人と過ごす日々の中で、それはゆっくりと、かつ静かに、常願寺少女の心の裏側をどす黒い感情で塗りつぶしていった。

 そんな彼女が見つけたストレスのはけ口が、これである。


「そろそろ、新しいの買い換えないとな」


 同級生や教師、知人の名前で埋め尽くされたノート。

 毎日毎日、しかも一人につき四十四回も名前を書き連ねていれば、一般的なA4キャンパスノートのページすべてが文字の羅列で埋まるペースが尋常ではないのは自明の理。無論、使い切ってしまったノートは特に未練もなくゴミ箱に投げ捨てている。

 「名前を書いた相手が必ず死ぬノート」を題材とした漫画作品が流行した小学生時代、常願寺まりあの身近には気に入らないクラスメイトや評判の悪い教師の名前をノートに書き連ねる遊びが流行していた。

 倫理的に問題はあったかもしれない。だが常願寺まりあにとって、それは生まれて初めて見つけた合法かつ現実的な動作を伴った他人の存在を否定できる行為だった。

 授業中に黒板を見れば自然と視界に入ってしまう、さして興味のない、表面だけ取り繕ってその実友情など信じていない目障りで不愉快なクラスメイト達の名前を、板書するノートの端にひっそりと書くのが快感だった。家に帰った後、右手で宿題のプリントに計算を走らせながら、左手でその日妄想の中で殺したい相手の名前を何度も何度もノートに書きつけるのが習慣になった。両利きで良かったと本当に思う。

 作品のブームが過ぎ去り、身の回りで遊ぶ同級生が誰もいなくなった後も、常願寺まりあはその“行為”を続けた。中学高校と進み、それなりの知識と常識、倫理観を備えた現在であってもやめられないまま、他人の存在を受け入れることが今なおできないまま。

 いや、だからこそだろう。

 この“癖”が染みついてからというもの、自分と同じコミュニティに属している人物のフルネームはすべてチェックするという別の癖ができてしまった。他人に興味がないのに、存在が許せないがゆえに名前をしっかり記憶してしまうというのは、皮肉なものだ。


「———夏海って変わった名前ね。女の子みたい」


 伏川夏海というクラスメイトに対して常願寺まりあが抱いた感情のうちの一パーセントはそれで、残り九十九パーセントはその他大勢と同じく憤りや不快感、嫌悪と呼ぶべきものだった。


***


「うわっ!?」

「きゃっ!?」

 

 学校の昼休み。伏川夏海という友達が少ない男子生徒にとって、昼休みというこの時間は決して居心地のいいものではなかった。教室で昼食を落ち着いて食べることができない。一言で言えば、五月蠅い。教室でよく分からない芸能人やテレビ番組の話で盛り上がるクラスメイト達の声が鬱陶しくて、おちおちゆっくりと昼食を摂ることもできなかった。

 だからこそ、今日も僕は静かに食事できる場所を探して校舎をあてもなく彷徨っていたのだが———。


「常願寺。ごめん、大丈夫?」

「あっ、夏海くん。うん、大丈夫。ごめんね急いでたから」

「いいよ、俺もボーっと歩いてたし」


 廊下の曲がり角で常願寺まりあとうっかり衝突してしまった。ぶつかったことに対しては素直に悪かったと思うが、正直彼女に対して良い印象はない。だからこそ安否を確認したら早々にその場を離れようと、そう思っていた。

 しかしふと見ると、廊下で尻餅をついている彼女の周りには、彼女が抱えていたと思われる筆記用具や教科書の類が散乱していた。おそらくぶつかった拍子に落としてしまったのだろう。決して良く思っていない相手とはいえ自分のせいでこうなった以上、拾わないという選択肢は自分の中にはなかった。だからこそ、散らばってしまったそれらを拾ってやろうと手を伸ばしたのだが———。


「———これは……」

「ッ!!こ、これは何でもないの!!」


 常願寺は俺が手を伸ばそうとした、落としてしまった拍子に開いてしまった大学ノートを目にも止まらぬ速さで拾い上げた。

 どうやら見られたら困るものが書いてあったらしいが、僕が目を引かれたのは開いたノートのページの中身ではなかった。


「ご、ごめんね、じゃあ私教室戻るから」

「待てよ常願寺」

「な、なに……?」


 常願寺は関節が錆びたブリキの人形のように、不自然な動作でこちらを振り向く。


「これ、落としたぞ」

「………?なに、これ?」

「お前が落としたんじゃないのか、このタロットカード?」


 俺が拾ったのは、古びた一枚のタロットカードだった。表面には掠れた文字で【THE MOON】の文字が見える。


「え?私、こんなの知らないよ?」

「いや、お前のノートのページに挟まってたから」

「うーん、誰かが間違えて私の鞄にでも入れちゃったのかな。とりあえず、私が預かっておくよ。後で誰かが探しに来るかもしれないし」

「そうか」


 そう言って、彼女は急いで僕が渡したカードを受け取った。まるで、早くこの場から離れたいというかのように。

 まぁ、それは僕も同じことだ。


「じゃあ」

「うん。またね」


 常願寺と別れた後、僕は昼食を食べる場所を求めて彷徨いながら、ポツリと呟いた。


「……“MOON”。月の暗示か」


***


 常願寺まりあと廊下で衝突した数日後。

 端的に言えば、常願寺まりあは周囲から孤立していた。

 自分は直接それに関わったわけではないから、詳しい事情は知らない。だが、噂話というのは経路も分からないままにいつの間にか届いているものだ。

 “常願寺まりあには、クラスメイトの名前をノートに書く奇行癖があるらしい”。

 少しサブカルチャーに明るい人間なら、その行為がどういうモノに由来することかはすぐに察しがつく。友人だと思っていたクラスメイトに本心では死ねばいいと思われていたという事実は、情に厚い人間なら裏切りだと思っても無理はない。

 噂の真偽は僕には分からないし、僕自身は常願寺まりあはのことは至極どうでもいい。むしろ、彼女が“あのカード”に選ばれていた人間だというのなら、なおのこと関わりたくないというのが本音だ。だから、これはあくまで僕の客観的な意見でしかないが。


 ———現代人っていうのは、普通じゃない人間を敵視するもんだしな。善悪は問わず。


 常願寺まりあを変人として遠ざけていた僕自身まさにそうではないか。

 だから彼女を貶めている他のクラスメイトに対しても、僕は特に嫌悪感を抱くこともなければ賛同するつもりもない。ただ、仕方ないと思うだけだ。

 常願寺まりあのことなんて放っておけばいい。授業を終えて昼休みを迎えた僕は早々にクラスメイトの存在を頭の隅に追いやり、今日も昼食を食べる場所を求めて廊下に出ようとしたのだが。


「伏川くん」

「ん?」


 呼ばれた声に振り向くと、そこには噂の常願寺まりあが立っていた。その声の主に気付くよりも前に僕が振り返ってしまった理由は、彼女が僕のことをいつもの下の名前ではなく、名字で呼んだことにある。

 普段は馴れ馴れしく下の名前で呼んでくる彼女が、名字で自分を呼んでいるという現実に、僕はにわかに背筋に寒いものを感じた。


「ちょっと、来てくれない?」


 こちらの返事を聞くよりも先に、常願寺は僕の手を掴んでいそいそと廊下へ出ていった。


 連れてこられた場所は、校舎裏。

 こういう時は屋上に呼び出されるのがベタな恋愛漫画ではおなじみだが、あいにくうちの高校は屋上には生徒が入れないようになっている。


「伏川くん、どうして呼ばれたか、分かってるよね?」

「いやこれっぽっちも」

「とぼけないで!伏川くんでしょ、私のノートのこと皆に言いふらしたの!」

「……はぁ?」


 まったく身に覚えがない。


「なんで俺がそんなことしなくちゃいけないの?」

「だってあの時見たんでしょ!?私のノート!」

「あの時?……あぁ、廊下でぶつかった時?」


 言われて思い出してみると、そういえばあの時の常願寺はひどく動揺していた。

 僕自身はそんなノートのことよりも彼女が落とした“あのカード”が気になって仕方なかったのだけれど。


「ねぇ、どうしてそんなことするかなぁ?」

「一応、あの噂を流したのは俺じゃないんだけどな。その剣幕を見る限り、そう言っても簡単には信じてくれなさそうだけど」

「そうに決まってるじゃない。だってあのノートを見たのは私が知る限りキミだけだよ」

「はぁ。そもそもそんな人に見られて困るものを学校に持ってくる時点で常願寺、お前やっぱりどうかしてると思うぜ。大方あの時廊下でぶつかったのを他の誰かが見てたとかそんなところだろ。スリルを楽しんでたのかどうか知らないけど、お前の自業自得———」

「あんたに何が分かるのよ!!!」


 僕の言葉は常願寺の一際大きな、ともすれば叫び声にも近いそれによって遮られた。怒りの感情に満ちたその声に、僕はてっきり次の瞬間常願寺が僕の胸倉でも掴みかかってくるのかと内心辟易していたのだが、その予想は幸いにも外れた。

 もっとも、胸倉を掴まれて怒鳴り散らされた方が幾分マシだったかもしれないが。


「うっ、ぅうぅぅう………」


 常願寺はその場に膝から崩れ落ち、両手で顔を隠して泣き始めた。

 

「……怒ったり泣いたり、忙しない奴だな」

「うっ、るさい……あんた、になに、が………っ」

「———別にさ、いいんじゃないの」

「……?」

「死んでほしいって思うくらい他人が嫌いなのに、わざわざ自分に嘘ついて周りに合わせて生きるのって、面倒だろ?むしろ向こうから離れてくれたんだから、万々歳じゃないか」

「そ、れは……」

「僕もそういう生き方を目指してきたから分かるけど、一人で過ごすのもそう悪いもんじゃないよ。気楽だし」

「…………」

「とにかく、僕は変な噂を流したりとかしてないからさ。じゃ、そういうことで」


 僕はそれだけ言い残し、地面に崩れた常願寺をその場に残して校舎に戻った。

 常願寺を可哀想と思う気持ちもなくはない。だがそれ以上に、関わりたくなかった。今の常願寺のような、周囲から注目されているような人種なら尚のこと。


「……疲れるんだよ」


 僕が思わず漏らしたその悪態は、常願寺にも誰の耳にも届くことなく空に吸い込まれた。


***


 常願寺に呼び出された日の放課後。僕は家には帰らず、少し寄り道をしていた。

 町の灯台。今はもう使われていない無人の塔。そこには一人の女性がひっそりと身を潜めるように暮らしている。いや、彼女が果たして生きるための活動と書いて『生活』しているのかは謎だ。

 そもそも、人であるかどうかも怪しい。聞けば数百年生きているらしいし。どこまでが本当かは分からないが。


THE MOON……【アルカナ】シリーズの十八番目じゃな。それが暗示する運命は———」

「“欺瞞”と“脱却”?」

「……少しは教養を身につけたようじゃな」


 そう、うっすらと笑みを浮かべてこちらを見る、金色の瞳。日本人離れしたその目に見つめられるのは今も慣れない。こういうのを、蛇に睨まれた蛙の気分というのだろうか。


「常願寺がああなったのは、やっぱりそのMOONのカードのせいなのか?」

「いいや違うな。その娘の気質は生まれついてのものじゃろう。そうでなければMOONがその娘のところに現れるはずがない」

「常願寺の欺瞞が暴かれたのは、どこからどこまでがMOONの仕業なんだ?」

「さあのぅ。まぁしかし、結果的に常願寺とかいう娘の“欺瞞”は暴かれたわけじゃろう?一度心に溜まった闇を暴いてやれば、その娘も現状から“脱却”できるのではないか?知らんがの」


 そう言って彼女は面倒くさそうに両手を頭の後ろに運び、大きな欠伸を見せた。


「スクルド、あんた一応この【アルカナ】とかいう胡散臭いタロットカードの管理者なんだろ?」

「管理者なら何でも分かると思うな。妾は所詮、運命の傍観者でしかない。運命の道筋は誰にも分からんよ。ましてや運命を変えようとする人間は愚者じゃ」


 スクルドと名乗る運命の傍観者はそこで一度言葉を区切り、どこか挑発するような鋭い視線をこちらに向けた。


「運命は変わるが、変えられない。当然じゃろ?」


 それは、TOWERに迷った俺への最大の皮肉だった。


***


「おはよう、夏海くん」

「……常願寺か、おはよう」


 あくる日の朝、いつも通り学校に登校すると校門前に常願寺まりあが現れた。

 いや、現れたというのは正確ではない。待っていた、が適切だろう。

 常願寺は、あの弦月の日と変わらない愛想のいい笑顔を僕に見せる。その笑顔の真意が読み取れず、僕はにわかに気圧された。

 そのまま流れで二人一緒に肩を並べて昇降口へ歩いていくが、その間も常願寺は絶えず僕に話しかけてきた。


「夏海くん、今日の昼休み、一緒にご飯食べない?」

「は?なんで」

「一緒に食べたいから」

「丁重にお断りさせてもらうよ」

「残念。じゃあ今日の帰り、一緒にお茶でもどう?駅前に最近新しいカフェができたらしいんだ」

「一人で行けばいいじゃん」

「いや。夏海くんと一緒に行きたいの」

「いや、だからなんで?」


 昇降口まで残り二、三メートルというところで僕は立ち止まり、傍らに立つ常願寺を睨みつけた。普段他人をなるべく意識しないよう過ごしている僕が、他人に対して怒りや嫌悪といった感情を見せるのは結構久しぶりな気がする。

 対する常願寺は、にこやかに答えた。


「だって夏海くん、一人でいるのが好きなんでしょ?」

「……まぁ」

「だから、嫌がらせしたくなって」


 嫌がらせ。高校生にもなってそんな子供じみた単語を聞く日が来るとは。

 いや、この常願寺まりあという女子高生に対してそういうモラルとか常識を期待するのは甚だナンセンスか。


「……前にも言ったけど、あの噂流したのは俺じゃないんだけどな」

「うん、きっとそうなんだろうね。よく考えたら夏海くんって、普段全然クラスの人と絡まないし」

「だったらもう———」


 僕に関わるな。そう告げようとした矢先に、横に立っていた常願寺がぴょんと僕の正面に移った。


「夏海くんのこと、なんか気になるようになっちゃった」

「は?」

「嫉妬っていうのかな、こういうの」

「嫉妬?」


 ますます意味が分からない。僕がいつ常願寺に嫉妬されるようなことをした?


「夏海くんがどうして他人を気にせずに生きられるのか、気になるの」

「どうしてもこうしても、気にしてないからだよ」

「だからそれがどうしてかが分からないんだってば。だから、それが分かるまでキミと一緒にいようと思って。嫌がらせも兼ねて」

「…………はぁ」


 やはり、この常願寺まりあという少女は頭がおかしい。こんなのに付きまとわれたりなんてしたら、僕の心の平穏が乱される。

 ただ表情を見るに、先日スクルドが言っていたように一度“欺瞞”を暴かれたことで常願寺はどこか吹っ切れたようだ。ある意味MOONのカードが暗示する通り“脱却”する運命を辿ったとも言えるのかもしれない。


「……“受難”か」


 僕は鞄のポケットに入っていた古びたタロットカードを取り出す。そこに描かれていたのは雷を受けて崩壊する“塔”の絵。表紙には掠れた字で【THE TOWER】の文字がある。

 

 ———それが暗示する運命は、逃れようのない受難。

 ———なるほど、確かにこれは受難だ。


 僕は隣でひっきりなしに話しかけてくる耳障りな同級生をどう諦めさせるか、それだけを考えながら昇降口をくぐった。

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