悪魔デスペラティオニスの奸計

白柳

まずは、ご契約

 小さなテーブルの上にいるそれは、良く言えば尻尾が生えた小さな黒いコウモリ。

 正直なところ、薄汚れたぼろ雑巾。

 からだを小刻みにぶるぶる震わせ、落ち着かない様子で、部屋の隅にいる男をちらちらと見ている。


 コンビニ弁当のカラ、チューハイの空き缶、布巾がわりに使ったティッシュ、数か月前の週刊誌。あとでまとめて捨てよう、でいっぱいの、テーブルの真ん中に立っている。

 どこにも遊びに出かけられない日々が続き、独りのアパートで時間を持て余した若い男が、暇つぶしに、もちろん本気で信じているわけでもないのに、もしほんとうにそういうことが起きたら面白いな、くらいのつもりで描いた魔方陣の上に、それは立っている。

 ネットのオカルトサイトをだらだらつまみ食いしていた時にたまたま見つけた、願い事を叶えてくれるという悪魔を呼び出す魔方陣の上に、立っている。

 描いてみたけどやっぱ何も起きないじゃん、という書き込みばかりだった、魔方陣の上に立っている。


 男が畳の上に散らかっていたチラシの裏に、その辺に転がっていたボールペンで魔方陣を描き、そのサイトに書かれていた呪文をむにゃむにゃと唱えると、どこからかぽとりと落ちてきた。

 当然男はその瞬間、部屋の隅まで飛び退いた。


 ぼろ雑巾が、小さく震える声で男に言った。

「早く…していただけると…ここ、寒い…」

 そのぼろ雑巾のあまりにも頼りなさげな姿と、びくびくとおびえたような声に、男は部屋の隅からひとつ深呼吸して、おそるおそる聞いた。

「悪魔?」

 ぼろ雑巾は、悪魔とは思えないヘリ下った口調で答えた。

「はい、その通りで…あの…望み、叶えますんで…終わったら、すぐ、帰りますから…」

 望みを、叶える。

 悪魔のその言葉に、ざぶざぶと波を立てていた男の恐怖が少しずつ凪ぎ、替わりに欲望が波間から顔を出した。

「…ほんとか?」

「はい…でも…わたくし、できることは、ひとつしか、なくて…」

 ぼろ雑巾は、申し訳なさそうに緋色の目を伏せた。

「宝くじ5億円当たるとか」

「無理、です」

「アイドルと結婚できるとか」

「それも、無理…」

「考えたことが現実になるとか」

「とんでもない…」

 男の胸で膨らんでいた期待が、みるみる萎んでいく。

 この風体だ。きっと、悪魔の中でも、おそらく下っ端中の下っ端だ。たいしたことはできないに違いない。せいぜい、冷蔵庫に毎日ビールが補給されます、とか、良くて宝くじが3千円当たります、とか、そんなところだ。

「じゃあ、何ができるんだ」

 ぼろ雑巾は、もじもじしながら一層小さな声で言った。

「それが…そのう…不老不死、しか」

 男は思わず聞き返した。「不老不死ぃ?」

「はい」

「永遠に若いまま生きられるってことか?」

「はい」

 男は思った。嘘だ。こんなにちっちゃくて、ぶるぶる震えてるくせに。

「信じられねえ」

「そう、ですか…」ぼろ雑巾は魔方陣の上で、小さくお辞儀をした。「じゃあ、ごきげんよう…」

「待て待て」

 慌てて引き留める男の声に、ぼろ雑巾のからだがびくり、と固まった。「何か…?」

「望みを叶えるためには、悪魔と取引しなきゃならない、ってサイトに書いてたぞ」

「左様で」

「どんな取引だ?…それ次第で、考えてもいい」

 ぼろ雑巾はその小さなからだの前で、針の先ほどの鉤爪の生えた手をもぞもぞといじりながら、言いにくそうに答えた。

「ええと…ありきたりで申し訳ありません…その…あなたの魂を地獄へ」


 男は考えた。

 やっぱりこの悪魔、だいぶ間抜けだ。

 不老不死、と言うことは、おれは死なない。

 死なないということは、魂だってずっとおれのからだに留まったままだ。

 つまり、こいつはおれの魂を…おれを地獄なんぞに連れて行けない。

 こっちがかなり得をする取引だ。

 …決めた。


「よし。どうすりゃ、いい」

 男の言葉に、ぼろ雑巾は、どこからか黄色味を帯びた紙を取り出した。

「じゃあ…この…えっと、この紙の、ここんとこ、にお名前と…あとちょっぴりでいいので、血でぺたん、って」

 男は、そろそろとテーブルに近づき、ぼろ雑巾が差し出した黒いカラスの羽ペンでさらさらと自分の名前を書き終わると、テレビの横の小さな引き出しをごそごそやって、安全ピンを一本取り出した。

 左手の親指にくっと刺すと、そこにぽつりと血が滲んだ。

 男は、相変わらずおどおどとした様子で自分を見ているぼろ雑巾に向かって、問い詰めるような口調で言った。

「嘘じゃないだろうな」

「まさか…」

「騙してないだろうな」

「…信じていただけないのなら、どうぞ無理なさらず…帰りますんで…」

 ぼろ雑巾は、まるで自分が悪魔と話しているかのような、今にも泣きそうな顔で男を見上げている。

 不老不死、か。

 男は親指を、さっき書いた自分の名前の横にぐい、と押し付けた。

「まいど、どうも…」

 悪魔は紙をまるめると、一回つむじ風が舞うようにくるりと回って、ぱっと消えた。


 男は夢を見終わったような顔で、空っぽになった魔方陣を見た。

 不老不死。話し半分だな。あいつの感じじゃ。

 まあ、そのうちわかるさ。

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