59



 ぐうっと腕を伸ばす。疲労した体が、心地の良い満足感に包まれていた。その一仕事を終えて気持ち良く振り返ると、写真のなかの美音が微笑んで俺を見ていた。

 一瞬、凄く驚いた。無我夢中で、こんなにも楽しい気持ちで、なにもかもを忘れて、磁器を作ったのはいったい、いつぶりだろう。

 ――樹。

 ハッとして、心臓が跳ね上がる。俺を呼ぶ美音の声が聞えた。

 いや、きっと、君がいなくなってからは初めてだ――。

 自分がこんなにも晴れた気持ちで、もの作りをしていたことに動揺した。美音の前で茫然として膝をつく。急激な不安が込み上げた。

「美音……俺は……」

 ――良かった。樹がまた、こんなに楽しい気持ちで過ごせる日が来て。

「ごめん、ごめん、俺だけこんな……」

 ――いいのよ。樹が、笑っていてくれるなら、私は凄く嬉しい。

「でも、俺は……」

 ――大丈夫だよ。今まで、私の為に沢山、苦しんでくれてありがとう。でも、私の為に泣くのは今日が最後だよ。これからは、笑顔の樹を沢山見せてね。

 美音から掛けられた言葉。それが自分を救うための都合のいい解釈だということも十分、分かっている。だけれど、俺は美音の言う通り、その日、とてつもなく泣いた。

 10年。恐ろしく長かった。もの凄く怖かった。

 いつか、美音がいない事実を受け止めないといけない日が来る。けれどまだ、俺にはその勇気がない。そして、たぶん、これからもずっと、この恐怖は続いて行くのだろう。

 苦しい。体が沼に沈んでいくみたいだ。先の見えない絶望に、おかしくなりそうだった。もう壊れる寸前だったんだ。

 俺を心配してくれる家族。いっしょに悲嘆を抱えてくれた真奈美さん。背中を押してくれた美音の母親。そして、俺は。

 俺は、いったいどうしたらいいんだ?

 ――別にいいじゃないですか。

 あのとき、掛けられた言葉に全身の力が抜けた。

 でも、もしかしたら、これからは少しだけ楽に生きられるかもしれない。なんて。

 俺は最低だ。そんなことを思ってしまって本当に、ごめん、美音。

 いいんだよ――写真の美音は、ただ優しく笑っている。

 いや、そんなはずない、作り出した美音の言葉に自分の心が葛藤する。

「ごめん、ごめん……」

 でも今日は、今日だけは、こんなに泣いてしまうのを許してほしい。

 俺だって必死だったんだ。これまでの10年、ずっと後悔して、我慢していた、誰にも言えずに堪えてきたんだ。だから今日だけは。

 どくどくと抑えていた感情が溢れ出す。体が芯から熱い。声をあげて泣くたびに、叫ぶたびに、隠していた幼い心が、醜い自分が剥きだしになっていく。でも、もう、隠すのは止めよう。

 ――だって、美音さんは、お墓(ここ)にはいない。だから、ここで苦しまなくていいんですよ。

 そう言う彼女の言葉に気が抜けた。本当に? もう、本当にいいのか? これ以上、苦しまなくても、俺は。

 細くて、なんとも頼りのない彼女の手が伸ばされている。けれど、もし、俺がその手を掴んだなら、彼女は何があっても決して離さないだろう。そういうほとんど確信に近い安心感が俺を誘惑している。

 俺は、このまま、伸ばされた彼女の手を取ってしまって、本当にいいのか? 

 固めていた意志がゆっくりと溶けだして、からだが軽くなっていく。

 くそが。反吐が出る。本当にどうしようもない奴だ、俺はーー。

 声が嗄れる。喉が焼ける。混乱して、脳が破裂しそうだ。それでも、狂ったように叫んで、子供のように泣くことを止めなかった。

 そんな自分の不甲斐なさに、更に絶望的になる。

 ああ、俺は、こんなにも弱かったんだ。でも。

 でもーー、と俺は思う。今にも崩れ落ちそうな感情、飛びそうな感覚の中で、なんとか自分を支えて、踏ん張る。

 崖から落ちる寸前の心中で、伸ばされていた彼女の手を強く掴んだ。

 それは、なんともみっともなくて、甚だ滑稽な姿だろう。

 でも、俺はそんな自分をようやく受け入れられそうな気がした。


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