22

 *


 その日、私はいつもより30分も早く『水黽堂(あめんぼどう)』に着いて、店を開ける準備をしていた。普段なら、こんなに早く来ることはまずないし、むしろ、遅刻ギリギリの際どい時間に駆け入ることが日常だ。けれど今日、この気持ちの高鳴りのせいで早く目が覚めてしまって、せっかくだからと早々と店に来た。しかし、こういうときに限って河村さんはまだ来ていない。私は既に準備を済ませていて、うずうずとしながら河村さんが来るのを待っていた。

「あ、河村さんっ、随分遅かったですね! おはようございます!」

 ようやく出勤してきた河村さんに食い気味で挨拶をする。そんな私に対して、彼はいつも通り訝しげな顔を向けた。

「いつも遅刻ギリギリのくせに、たまに早く来たからって鼻を高くするな」

「別にそんなんじゃないですよー」

 私はニンマリと口元を緩ませる。憎まれ口も今日はスルーだ。

「なんだよ、朝からニヤニヤして」

「うふふ。実はですね、私、就職が決まったんですっ」

 その私の思わぬ報告に、河村さんが目を丸くした。



 小さなテーブルを4人で囲み、缶ビールを掲げた。

「菜月子ちゃん、改めて就職おめでとう」

「菜月子さん、おめでとうございます」

「皆さん、ありがとうございます」

 私の祝・就職の話題はすぐに『風のはら』の住人に広まり、聞きつけた真奈美さんと快くん、そして、河村さんが私の部屋にお祝いに来てくれた。

「お前を雇う会社があるとは、また随分なもの好きだな」

「河村さん、せっかく就職決まったのに、いきなり非難から入るのやめてくれますか?」

「そうよー、樹くんの意地悪ぅー。そんなんじゃモテないわよー」

「真奈美さん、お酒、得意じゃないんだから、そんな飲まないでください」

 言いながら、河村さんは既に顔が火照っている真奈美さんから缶ビールを取り上げた。

「というか、菜月子さん、料理上手なんですね。あ、これも凄く美味しいです」

「ほんと? ありがと。まだあるから沢山食べてね」

 快くんは、私が作った料理を気持ち良いくらいにどんどん食べてくれる。そんな若い男子の食いっぷりに、私の有り余った母性が大いに喜んでいる。

「それで、決まった会社ってどんなことなんですか?」

「えっとね、個人向けの美容機器とか健康グッズを作ってる会社だよ。規模はそんなに大きくないんだけど、休みはちゃんとあるみたいだし、給料も高くはないけど、まあ妥当な感じで。ほらこれ」

 言って私は、スマホの画面を見せた。そこには、会社のネット販売のサイトが表示されている。

「へえ、可愛い。それに意外とお手頃なのね」

「ですよねっ、私も美容系なら凄く興味あるし」

「サイト名がフローラル・プリンセス・マーケットって、なんか当てつけな名前だな。それに会社名も聴いたことない。大丈夫なのか、そこ」

 言いながら、河村さんはスマホを取り出してなにやら検索し始める。

「だから、私がこれから行く会社を非難しないで下さいよ。あ、なんですか、そのスマホ。凄い古い機種じゃないですか。画面割れてるし」

 部屋が汚い人はモノを捨てられないっていうけれど、河村さんのズボラもなかなかだ。

「うるさい。俺はモノを大切にする主義なんだ。あ、ほら見ろ。サイトの評価、相当悪いぞ」

 見せられた画面には“すぐに壊れた”とか“全然利かない”“二度と買わない”とか書かれてある。

「そ、それは……、評価なんて人それぞれでしょ。気に入らなかった人は悪評を広めたがるんです。良いと思ってくれた人だって沢山いますよ!」

 ……たぶん。

 はぁあ、と河村さんが重たく息を吐く。

「これじゃあ、また、先が思いやられるな」

「まあまあ、入ってみたら凄く良い会社かもしれないし、仕事してみたら凄くやりがいあるかもしれないですし、ねっ」

「快くん……」

 君はやっぱりとてもいい子だ。

「そうだー、そうだー、頑張れー、菜月子ちゃーん。ブラック企業に負けるなぁ」

 真奈美さん……、入社前にブラック企業だと決めつけないで。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る