濡れた髪

忍野木しか

濡れた髪


 横殴りの雨が住宅街を走った。

 枯れ葉が空へ巻き上がる。

 天野ヒカリは裏返った傘に暫し呆然とした。役に立っていないように思えた傘だった。壊れて初めてそのありがたみを痛感する。

 顔を打ち付ける雨に悲鳴を上げながら、ヒカリは走った。公園に辿り着くと、屋根のあるベンチに逃げ込む。南から吹く風はトイレの壁に遮られ、真新しい木の椅子はしっかりと乾いていた。

 ヒカリはハンカチを取り出した。黒光するローファーは水浸し。制服はびしょ濡れ。長い髪は複雑に絡み合っている。

 ため息をつくヒカリ。人の気配にはっと顔を上げた。

「あれ、ケンジくん?」

「おお! ……えっと、天野か?」

 公衆トイレから出てきた大久保ケンジは、意外そうな表情でヒカリを見た。二人は中学時代の同級生だ。およそ二年ぶりの再開である。

「何よ、その間?」

「いや、済まん、誰かと思って」

 ヒカリは、ケンジを睨みつけた。ボサボサになった自分の髪を撫で付けて、はぁっと息を吐く。

 気まずい沈黙が流れた。ベンチに腰掛けたヒカリは困惑して、ケンジを見上げる。昔のケンジは、相手の気持ちなどお構いなしに喋り続けるような男だった。だが、久しぶりに会った彼はヒカリと目を合わせようとせず、モジモジと濡れた服の裾を絞っている。

「どうしたの? 別にアタシ、怒ってないよ?」

「……いや、ほんと誰かと思ってさ」

「……怒るよ?」

 ヒカリは濡れた髪にハンカチを当てた。この男は髪型でしか人を判断出来ないのか、とムッとする。ケンジも水滴の浮いた短い髪をバサバサと撫でた。

「天野……さんさ、高校生活どう?」

「普通だよ、てゆうか何? さんづけしちゃって、アタシが怒るのって珍しかったっけ?」

「いや、天野はいっつもプンスカ怒ってぞ。はは」

「プンスカ怒らせてたのは誰ですか? もう」

 笑顔でヒカリの目を見たケンジは、すぐに顔を逸らした。ヒカリは少し悲しくなって、壊れた傘を弄り始める。

 寒かった。真っ直ぐ自分を見てくれていた頃のケンジが、急に懐かしく思えた。変わってしまって初めてその暖かみを痛感する。

「あ、のさ、天野、傘貸してやるよ?」

「……いいよ、別に」

 ヒカリはもう帰ろうと立ち上がった。風は強かったが、雨は小降りになっている。

「駄目だって、風邪引いちゃうぞ、ほら!」

 折り畳み傘を差し出すケンジ。ヒカリはその顔を冷ややかに見つめる。

「アタシ、風引いたこと無いけど? 忘れちゃったの?」

「昔はそうだったかもしれないけど……ほら、お前って少し変わったし」

「別に、ちょっと髪が崩れてるだけじゃん」

「髪?」

 ケンジは困惑したように、ヒカリの髪を見つめた。

「髪がぐちゃぐちゃだから、別人に見えたんでしょ?」

「ぐちゃぐちゃ? いや、髪型はそれで良いと思うけど? ……って、何言ってんだ俺!」

 ケンジの頬が真っ赤に染まった。今度はヒカリが困惑する。

「ケンジくん、やっぱり君ってあんまり変わってない?」

「俺は別に変わってないよ、変わったのは天野だって」

 ケンジは下を向いて声を絞り出した。

「意味分かんない。髪型は変わってないのに、私は変わったの?」

「……何でだよ? 天野って髪型でしか人を判断出来ないの?」

「それって私のセリフ!」

「……はあ?」

 首を傾げるケンジ。

 ヒカリは何だか可笑しくなってクスクスと笑った。

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