2:目立たない日常

「おーい、イタルちゃん? 遅いんじゃね?」

「うわっ、オークかと思っ……」


 目の前に迫ったいかつい顔に思わず声を上げ、慌てて口をつぐむ。相手が誰だか思い出した。

 クラスメイトの加師。クラスの体育会系カーストのトップだ。それに、金魚のフンの代手と津下。ふたり合わせて手下コンビだ。

 異世界とは時間の流れが違うこともあり、向こうに行っていた時間はほとんどカウントされないが、その後の処理に少し時間がかかってしまったのだ。と言っても、5分程度だけど。

 やってきたことは簡単で、再び召喚されないようにこの世界で契約すること。契約――例えば魔王を倒すという契約をすると倒すまで他の世界に行けなくなる。つまり帰れないし、他の世界からの召喚も出来なくなる。だから、この世界で契約をしておくと、再び召喚される心配がなくなるわけだ。というわけで、なるべく長くかかる契約とかあり得なさそうな契約のほうがいい――例えば、アイドルと結婚するとか。

 それはともかく、持ってきた焼きそばパン3つを加師に渡す。


「すみません。混んでたんです」

「そんなのいつもんことだろ? そのために4時間目が終わる前に教室出りゃいいだけだろうが? 頭使えや、イタルちゃん」

「名前通り、グスだな?」

「クズミです」

「はあ? クズだったかぁ?」


 手下コンビまで口を挟んでくる。この高校に入学してから、ずっとこの調子だった。この関係性はずっと変わらない。


「授業中に抜けるなんて出来ませんよ」

「それをするのがイタルちゃんの役目じゃねーの?」

「勘弁してください」

「ああ? 誰に口きいてんの?」


 いきなり加師の蹴りが腹にめり込んだ。いきなりと言っても僕の目からすると、カタツムリが今から走るよーと手を上げたようなもので、避けるどころか蹴りが当たるまでの間にクラスに戻ってペンを取ってきて加師の額に『のろま』と書くくらいの余裕がある。それをしないのは面倒だからだ。

 だから、蹴りは僕の腹にめり込んで、僕はひっくり返って顔をしかめる。


「明日は待たせんなよ、イタルちゃん?」

「は、はい」


 僕は素直に頭を下げると、立ち上がりながら3人に右手を突き出す。


「じゃあ、キミたちはトイレで10分間、僕、葛見至くずみいたるをいたぶって遊んでたことにしてください。あまりはしゃぎすぎて、先生に見つからないように気をつけてね」


 そう言うと、加師たちを置いて歩き出す。


「イタルちゃん、トイレ行こうぜ?」


 そこにはいない僕の肩を組んで、3人はトイレに向かっていく。


「戻って来た途端にこれはきついなぁ」


 力なく嘆息すると、記憶が蘇ってきた。


「初めて召喚された時も加師たちにトイレでいびられてたよな。それで戻って来たら、あれから10分もたってないのにはまいったっけ」


 まるで10年以上時間がたったような遠い目でトイレを見る。


「しかし、姫巫女様が僕を覚えてたなんて思わなかったな」

(しっかり覚えておったのう)


 不意にどこからともなく声が聞こえる。艶やかな女性の声。

 いや、正確には声じゃない。体を震わせて耳に届くような――骨伝導が一番近い。そのせいで他人には聞こえない。

 見る間に、廊下に映った僕の影が伸び上がって、10歳くらいの女の子の姿になる。

 褐色の肌にぴったり貼り付いた衣装が子供らしからぬけしからん体のラインが強調されて、もし他人に目撃されたら警察沙汰になりそうだ。耳はまるでエルフのように長く尖っている。

 ノア――僕、葛見至と契約した闇の精霊だ。だから、人間の感覚で幼女などと言ってはいけないし、ロリコンだなんていうのは禁句だ。


「姫巫女様自身はやっぱり何も知らないみたいだったね」

(だからそう申したであろ?)

「きついことを言ったけど、ノアに調べてもらったことを教えてあげたんだし、それで帳消しにして欲しいよね」

(む? 妾は調べてきた礼を聞いておらぬがのう?)

「言ったろ?」

(聞いておらぬぞ?)

「そうだったかな?」

(契約した精霊といえど、あまり感謝がないと離れてしまうぞ?)


 ノアは甘えるように僕に頬をこすりつけ、耳元でささやく。


「感謝してるって」

(まあ、妾は主様が死んでも精霊界に連れ去って永劫の抱擁をするつもりじゃがな)

「なんか、さらっと物騒なこと言わなかった?」

(おや、邪魔者が来たようじゃな。しばしの別れじゃ、愛しの主様よ)


 ノアはフフッと小さく笑って頬にキスをすると、ただの影に戻り、気配を消した。闇の精霊の唇は少し冷たい。肌をあわせると、寒いくらいになる。

 ノアが去って代わりに近づいてきたのは、こちらは僕のクラス担任の椚木桜子くぬぎさくらこだ。教師になってまだ3年目。フワッとしたロングヘアーがトレードマークで、お姉さんっぽい飾らない性格が生徒にも人気がある。


「葛見君、今誰かいなかった?」

「いえ、ずっとぼっちですよ」

「そう?」


 桜子先生は首をひねって周囲を見回し、諦めたように至に目を戻す。


「課題はできた?」

「さっきクラスで提出しましたけど?」

「そうじゃなくて、あっちの首尾は? 問題なかった? また所長が無理言ったんでしょ?」

「ああ! 大丈夫……だと思います。勇者様は《ディヴィジョン》に置いてきました。学校サボってゲーセンで遊んでたところを召喚されたみたいなので、問題もないと思います。一応、処理をお願いしておきました」

「よくやったわね。偉い偉い」


 桜子先生が僕の頭に手を伸ばそうとした時、廊下を女生徒が数人歩いてきた。桜子先生は指で何かの紋様を描く。

 女生徒たちは教師がいるというのに、誰も挨拶も会釈もなしにおしゃべりしながら通り過ぎていく。


「認識阻害ですか。鮮やかなものですね」

「これくらいはね。葛見君も出来るんじゃない? 結構スルーされてるじゃない」

「僕は単に存在が目立たないってだけですよ」

「魔法も魔術も不要なら、その方が便利でしょ。私たちの仕事なら」


 桜子先生はそう言って笑うと、真顔になって僕を覗き込んできた。距離が近いんだけど……。


「どう? 仕事は慣れた?」

「まあなんとかですかね」

「このところ続け様に仕事してるけど、大丈夫? 所長の言うことなんか全然聞かなくてもいいのよ?」


 指導者としてどうなんですかと思わず突っ込みたくなったけど、ここは素直に感謝しておく。


「ありがとうございます」

「キミは異例だったから、色々言ってくる人もいるでしょうけど、気にしなくても良いわ。頑張って実績を出せば黙るから」

「言われないくらいにはやりますよ」

「期待してるわ、至クン」

「ありがとうございます」


 頭を下げると、桜子先生は背を向けて歩き去る。かすかに周囲に張られた結界が消え失せる感覚がする。

 桜子先生が消えると、ノアの気配が戻って来た。


(結構やるのう、あの女)

「闇の精霊に褒められたと知ったら喜ぶかな」

(まあ、まだまだじゃがのう。妾のプロポーションに比べれば)

「体の話かよ! 見たことないし」

(おや? 妾のはよく知っているであろ?)

「だから、先生のは見てない」

(あの様子では頼めば見せてくれそうじゃがのう)

「んなことあるか」

(相変わらず初心じゃのう。あの頃から変わっておらぬのは好ましいが)

「放っておいてくれ」

(初めての頃は可愛かったぞ。妾の姿を見て顔を真っ赤にして、もじもじしていたであろう?)

「いきなり全裸の幼女が現れたら誰だってそうなる」

(前に契約しようとした人間は姿を見せた途端、襲いかかってきおったぞ?)

「その人はどうなった?」

(気になるか? 独占欲の強いヤツじゃのう)

「いや、訊いただけだよ」

(あの男、美味しかったぞ。絶倫というヤツかの?)

「やるだけやって食ったのか……」

(主様の精力と魔力には負けるがのう。どちらも妾史上最高に美味じゃ)


 ノアは舌なめずりをして僕の体に闇の触手を這わせた。たまに見せる表情がゾッとするほど艶めかしくて、恐ろしい。厄介なものに魅入られたなという実感はある。

 と、その時、制服の内ポケットに入れたスマホがかすかに震えた。


「うへえ、またか……」


 震動でどこからの連絡かわかった。

 スマホを取り出すと、相手先には《ディヴィジョン》と表示されている。


「仕事だ。召喚が観測された。至急本部に来い」


 通話相手はそれだけ言うと切れた。

 と、その時、午後の始業を知らせるチャイムが鳴り響く。


「こっちは普通の高校生やってるんだけどなぁ」


 ぼやきながら階段の踊り場に行き、人目がないのを確認すると、異世界から脱出した時に使ったアンカーを取り出す。安全装置を弾いて外し、スイッチを押した。


「まったく……。異世界召喚が多すぎるだろ!」


 叫んだ一瞬後、僕は別の場所に飛んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る