第36話 キス

 イルカ水槽の前まで来ると、予想通りの人混みで中々前には行けそうになかった。

 ただ、水槽が大きいおかげで後ろにいても充分に見ることは出来る。


「イルカ可愛いね〜♪ 目がね? つぶらでクリクリしててずっと見ちゃうよね?」

「ですね。ショーが見れないのは残念でしたけど、これでも充分な気がします」

「ねっ?」


 普通に会話はしているけど、俺の左手と海琴さんの右手は繋いだまま。

 普通に会話って言ったけど、何か話をしていないと手に意識を持っていかれるだけなんだけども。

 ときどき海琴さんがくすぐったそうに指を動かすだけで、俺の意識はそっちに集中してしまう。

 ぶっちゃけイルカよりも、イルカを見てる海琴さんを眺めてた時間の方が長いかもしれない。


「次はなにみよっか?」


 しばらく眺めたあと、海琴さんが隣から覗き込むようにして言ってきた。

 ちゅうしていいですか? だめですよね。はい。


「そうですね……あ、クラゲのライトアップがあるみたいですよ?」

「それ絶対綺麗だよ! 行こいこ!」

「おわっと! 待ってくださいって」

「待たないも〜ん♪」


 そう言って繋いだ俺の手をひっぱる海琴さん。

 も〜んって! ……も〜んって!!

 力抜けて俺がクラゲになっちまいそうなんですけど!?


 ◇◇◇


 そしてやってきたこの部屋は暗く、筒のような水槽が何本も床から天井まで伸びている。

 その水槽の中では、クラゲだけが光り輝いて踊っている。


 そして、ランダムに配置されているせいなのか、どこに立っていても死角になっていて、他の客の姿は見えなかった。まぁ、俺達以外にはほとんど居ないからってのもあるんだろうけど。部屋に入る直前にカワウソの餌やりアナウンスが流れてたから、そっちに行ったんだろうな。


「わぁ……」


 そんなほとんど二人だけの空間で、海琴さんはガラスに張り付くような格好でクラゲを見つめていた。


「綺麗ですね」

「……うん。ずっと見ていられるかも……」


 二人でフヨフヨと上がったり下がったりしているクラゲを見ていると、ちょっと気になる事があった。それは、一体のクラゲだけがずっと俺達の前で上がりも下がりもせずに漂っている事。

 見られてるのに気付いてるのか? まさかな。

 すると海琴さんもそのクラゲに気が付いたみたいで、後ろに立っていた俺に振り返り、手招きしてくる。


「ねぇ杏太郎くん、見てみて? このクラゲだけ動かないよ? なんかこっち見てるみたいだよね?」


 同じ事を考えていたとは……。ちょっと嬉しいな。


「どれですか?」

「これこれ」

「本当だ。ファンサービスですかね?」


 俺はその手招きに従って水槽のすぐ近くまで行く。海琴さんはすぐ隣だ。


「もしそうだったら嬉しいよね♪」

「ですね──っ!?」


 海琴さんの言葉に、どんな可愛い顔をして言ってるのかと思って横を向くと、海琴さんも俺の事を見ていた。


 そしてその距離はほんの僅か。

 お互いに目が合って動きが止まる。

 視線は相手の目を見たまま固まる。


 それだけで終わると思っていた。「あ、ごめんっ」って言って離れて、それから少し意識しちゃったりなんかして、そのまま家に帰って思い出したりなんかするくらいなんだろうと。


 それなのに──


「んっ……」


 そんな小さな吐息と一緒に、俺の唇に何か柔らかいものが触れた。

 俺の視界は目を閉じた海琴さんの顔で埋まり、唇には柔らかさと一緒に少ししっとりとした感触が伝わる。


 だけどそれは本当に一瞬の出来事。

 目を開けた海琴さんは、驚いたような顔をするとすぐに顔を離し、手に持っていた肩掛けポーチで顔を隠しながらしゃがみこんで一言。


「ごめん……なさい……」

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