第186話 努力だけでは埋まらない差

 もう、無理だ。

 膝を突き、シトリーは顔を苦悶に歪める。


 体を綺麗にしたい。

 私服に着替えたい。

 宿に戻りたい。

 寝台で眠りたい。

 もう、戦いたくない。


 こちらの変化にアルトは気づいているのだろう。もうずいぶん前から、シトリーの下に魔物が送られてこない。


 リオンもアルトもまだ動いているのに、自分1人が立ち止まっている。

 罪悪のような感情に、理性が吠える。


 立て! 動け! 負けるな!


「大丈夫ですか、シトリーさん」

「……えっ? ええ、大丈夫――」


 言葉とは裏腹に、感情は必至に体の不調を探していた。

 どこか痛いところはないか? 不具合はないか? 怪我をしていないか?


 けれど、どこも悪くない。

 ただ、完全に心が折れてしまっただけだ。


「――いえ、どうやら少し、調子が悪いようですわ」

「ええ!? じゃあ少し休憩して地上に戻りましょう」

「そんな、アルトの手を煩わせるわけにはいきませんわ!」

「けど……」

「わたくしは大丈夫ですので」


 話を一方的に打ち切って、シトリーは壁際で横になった。

 それとほぼ同時に涙がこみ上げる。


 まさか元ユーフォニア12将の自分が、仮病まで使って稽古から離脱する日が来るとは思わなかった。


 どうして素直についていけないと言えなかったのだろう?

 そう言うことで、自分が弱いと思われるのが嫌なのか。

 アルト達が普通に出来ることが、出来ないと思われるのが嫌なのか。

 能力がないと思われるのが、嫌なのか。


 考えれば考える程、シトリーの目から涙が出てくる。

 唇を強く噛みしめるが、涙を堪えることが出来ない。


(なんて……情けない!!)


 シトリーの心は、たった4日の鍛練で折れてしまっていた。

 意思の力で、そこからさらに3日はアルトの鍛練に付いて行った。

 けれど、7日で限界を向かえた。


 シトリーの心は修復不能なところまで壊れていた。


 倒しても倒しても、次から次へと魔物が押し寄せる。

 魔物に接近する毎に、自分の命も死に接近する感覚。

 身を切り刻まれるような緊張感。

 それに耐えて魔物を倒すと、息を整える間もなく次の魔物が現われる。


 それを、1日に数百匹。

 休めるのは食事と、死んだように眠るときだけである。


 かつては強くなるために努力し、レベルが1つ上がる毎に歓喜していたというのに。

 レベルが5つ上がっても、今は何も感じない。

 逆にレベルが上がる毎に、もうこれで終わっても良いのでは? この辺りで十分じゃないか! という思いが強くなっていくばかり。


 ダンジョンに潜って5日目を越えたあたりから、いっそ死んでしまえば楽になるんじゃないか? という考えが頭を何度も過ぎるようになった。


 実際に、死のうと思った。

 けれど死にそうになる度に、忌々しいことにアルトが死を、完膚無きまでに遠ざけるのだ。

 そうして永劫回帰する恐怖に打ち震える。


 彼らについて来たのは、自分の意思だ。

 だから、自分から離脱することに引け目を感じてしまう。


 特に自尊心の高いシトリーはその引け目も、多くの平民が感じるものよりも強烈だった。


 肉体だけでなく精神も、シトリーはアルトに負けた。


 食料の底が見えたため、ダンジョンでの鍛練はその日のうちに終わった。

 けれどシトリーは、それが自分のせいだと錯覚する。


「……二人の足を引っ張ってしまいましたわね」


 半日かけて地上に出て、宿に戻って体を洗い流し、軽くワインを呷って寝間着に着替えたシトリーは、はしたなく寝台に体を投げ出した。


 すると、なんの前触れもなく嗚咽がこみ上げ、壊れたように涙が溢れ出した。

 気づけばシトリーは大声で泣きわめいていた。


 シトリーは公爵家に生まれたにもかかわらず、さしたる才能に恵まれなかった。

 幼少期の頃など、何度家庭教師の前で失敗し失笑されたことか。


 それが悔しくて、シトリーは誰よりも努力した。


 ユーフォニアで1番厳しい稽古を行っただろう。

 そうでなければ、非才の身であるシトリーが、ユーフォニア12将に成り上がれるわけがない。


 しかしそのシトリーでさえ、アルトの鍛練についていけなかった。


 体力が足りなかったわけではない。実力だって十分間に合っていた。

 足りなかったのは、精神力――あるいはもっと、別のなにかだ。


 どんな稽古にも耐えた。12将を下ろされてから罵詈雑言誹謗中傷を浴びせられても耐えてきた。

 それなのに、アルトの鍛練にだけは、付いていけなかった。

 体は動くのに、心が悲鳴を上げていた。


 ただアルトに付いて行けないだけならば、これほど悔しい思いはしなかった。

 アルトだけではなく、あのリオンでさえ根を上げることなく戦い続けていた事実が、シトリーに追い打ちをかけるのだ。


 自分から努力を取ったら、なにが残るか?

 ――何も残らない。


 仕事もないし、料理もできない。

 殿方に愛されるような性格ではないし、愛されたこともない。


 何度か結婚の話が浮上したこともあるが、それはジャスティス家の令嬢だったから。

 実家と疎遠ないま、結婚の二文字は見る影もない。


 つまりジャスティスの名が無ければ、シトリーのことなど、誰も見向きもしないのだ。


(今のわたくしには、なんの価値もありませんのね)


 このまま眠りたい。

 すべてを忘れたい。

 死んでしまいたい。

 こんなに弱い自分なんて、この世界から消えてしまえば良いのに……。




 泣いているうちにいつしか眠ってしまっていたのだろう。

 目を開けると窓から差し込む朝日が網膜を強く刺激した。

 ずいぶんと久しぶりに大泣きした気がする。瞼が腫れて重い感覚が懐かしい。


「おう、起きたか?」

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