第92話 不自然な豹変

(怒らせたかな?)


 心臓が冷や汗を流す。

 だが次の瞬間には、執事は皺の刻まれた目尻を下げた。


「それは、わたくしどもも苦心しておりました。ハンナ様は公爵家の跡取り。ですがその実力の程は、あらゆる家庭教師が匙を投げるほどで…………ああこれは、口を滑らせてしまいました。どうかお忘れを」

「あ、はい」


 口にしてはいけないと言いつつ思いっきり話してしまっているのは、単純に本音が漏れたわけではない。

 そんな執事がここに勤めていたならば即首を刎ねられている。もちろん労働者的意味合いだが。


 執事のそれは、家庭教師に匙を投げられるほどハンナが弱かったことについて、他言無用と釘を柔らかく刺しているのだ。

 そして、この程度の腹芸くらいは出来るだろう? とアルトを見定めた結果だろう。


「それで、アルト殿はハンナ様とどのようなご関係をご所望ですか?」

「……良き友人関係であれればと」


 執事は「なにが望みだ?」と聞いている。それに対してアルトは「そんなものはないよ」と答えたつもりだ。


 だが執事はアルトの答えとは別の受け取り方をしたようだ。

 雰囲気が一気に堅くなった。


「農民が公爵家と良き友人関係を望むなど、出来るとお思いですかな?」

「既に友人だと僕は思っております。ハンナさんについては、本人に聞けば一番かと」

「はあ。あなたはやはり、農民だ」


 腹芸では通じぬかこの小童が。

 そんな侮蔑の籠もる言葉に、アルトが僅かに眉根を寄せた。


(農民だから、だからなんだって言うんだ?)


 アルトは、彼の言葉に怒ったわけではない。

 突然の変化が、妙だと感じたのだ。


 この話の流れが、まるでアルトを叱責するために強引に進んでいるように感じられる。

 あまりに不自然だ。


(まさか、前世と別の道を辿っても、同じ結果に至る運命なのか?)


 奇妙な感覚が背筋をなでる。

 まるで目に見えないなにかがこの場にいて、クラインの感情を揺さぶっているかのようだ。


「率直に申しましょう。もう二度とハンナ様に関わらないで頂きたい」


 アルトの疑問が、確信に変わった。

 執事に定められた運命線上では、ハンナとアルトは遠ざかるものとして確定しているのだ。


 たとえアルトがなにを行おうと、幾重に分岐した未来で彼は、『ハンナに関わるな』と必ず口にする。

 それが彼の役割なのだ。


(だとして、僕に何ができる?)


 黙っていれば、前世と同様の結末に向かう。

 ハンナがここに戻るまでに、邸宅を追い出されるに違いない。


(……少し攻めてみるか?)


 荒事にならないよう気を引き締めて、アルトは口を開く。


「それは何故でしょうか?」

「そんなもの決まりきっているではありませんか。ハンナ様は公爵家の一員。アルト殿は農民だ。おまけに格が1ときている。農民のあなたでは想像もできないかもしれませんが、公爵家の人間が農民と関わるということは、家の品位に関わる問題なのです」

「それで? 品位を優先した結果、誰一人ハンナを育てられなかったと」

「少々口が過ぎますな」


 相手の殺気に、アルトの血液がじわじわ温度を上げる。


(体面ばかり守ろうとするから、こいつらは誰一人ハンナを守れなかったんじゃないのか?)

(守れずに、みんな畜生のように死んでしまったんじゃないのか!?)


 荒事にだけはすまいと思った。

 だが、無理だった。

 前世の惨状がフラッシュバックし、執事たちの亡骸が鮮明に蘇った。

 名前の付かない感情が、瞬く間に激情へと変わる。


「そんな対面ばかり優先したせいで、本質的なことが抜け落ちているんじゃありませんかね?」


 言葉を口にする度に、だんだんとアルトの気配が希薄になっていく。

 その気配がある段階を超えたところで、執事の焦点がアルトから外れた。


「二人程、ハンナの訓練を見守りに来ていましたね」

「……気付いていらっしゃったんですね。しかし、残念ですね。見守りは一人でした」


 アルトの感覚では、確かに2人、見張りがいた。

 その気配はマギカも確認していた。


 お互いに、見張りに害意がないことを確かめ、放置を決定した。

 なので、あの場にアルトたち以外の人間が2名いたのは確かだ。


(じゃあ、もう一人は誰だったんだろう……?)


 予想を外したことに、アルトは首を傾げる。

 しかしすぐに首を振り、気持ちを切り替えた。


 いま話のイニシアチブを、相手に奪われてはいけない。


「まあ人数はどうでも良いでしょう。その人達が稽古中に、ハンナを止めなかったことは素晴らしい判断でした。もし途中で誰かが止めていれば、ハンナは弱いままだったでしょう」

「あなたは、一体なにをするおつもりですか……?」

「なにもしませんよ。ただ、もし荒事に発展した場合、あなた方はどうやって僕を止めるんですか? 公爵家の品位とやらで止められますか?」

「…………」


 アルトが投げかけた問いに、執事が困惑した。

 公爵家での惨状を知っているのは、アルトだけなのだから無理もない。


「隠れているのは五人、ですか。おそらく執事の中ではあなたが一番強い。けれど、いまあなたは僕を見失っている。その程度の実力で、一体何が守れるんですか? 品位ですか? それとも体面?

 ハンナが実力を伸ばせないと言うのなら、せめてハンナの盾になれるくらいには鍛えるべきです。それが出来ないなら、それをやってみせた僕に文句を言うのはお門違い。

 何かを変える力もないのに、行動を起こした人間に文句を言う。それこそ、品位の欠落というものでは?」


 アルトはかなり踏み込んで発言をした。

 まかり間違えば、公爵家に害意ありと判断され、逮捕されかねない。


 だが、それでも万が一この執事が、15才の子どもに煽られたことで、やる気を出してくれるのならば……。そんな意図があっての発言だった。


(あの惨劇を切り抜けられるのは、きっとこの人しかいないから……)


 アルトはゆっくりと〈隠密〉を解除していく。

 おそらくこの執事が感知できるレベルは、〈隠密〉の熟練が30前後だ。

 一般人としてはかなり高い《気配察知》能力だ。

 しかし、完璧ではない。


 アルトが強くなったのは、ハンナを救うためだ。

 それと同じように、執事にもハンナを守る役割がある。


 今後アルトがハンナを救えたのなら、その次に必要になるのはアルトの力ではなくて執事の加護だ。

 だからアルトとしては、この執事にはもっともっと強くなってもらわなければ困る。

 アルトに残された時間は、ハンナを守り続けるにはあまりに少なすぎるから……。


 アルトの《気配察知》が、ハンナの気配を捉えた。

 その感覚通り、軽く息の上がったハンナが扉から現れる。


「アルトさん。準備ができましたのでいらしてください」

「うん。それじゃあ、失礼いたします」


 混乱から抜けきれない執事に、アルトは謝罪の意味を込めて頭を下げ、応接間を後にするのだった。

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