<7> でもって冒頭に戻る

「う〜〜ん。羊が一匹・・・」

 眠れないときに数える羊を、眠りながら数えるとはこれ如何に。しかもそれが寝言として口から飛び出したすぐ後に、意識が浮上したとしたら。

 なんじゃこらーと叫ぶのでなければ、まだ寝ているフリをします。ええ、私はそうします。


「ルリ。良かった、気がついたみたいだね」

 上から詰めた息を吐く安堵の声がする。さらっと触れた手の甲が頬をピリピリさせる。

 目を開けなくても目蓋の奥の動きで覚醒が分かるなんて非道だ。諦めて目を開ける。


 近い近い近い他界近い。

 すぐ前に、空を煮込んだ色の瞳があった。少し湿度高めで。

 目と目が否応なく合う。いや近すぎて逆に焦点が合わんし、焦りすぎて昇天しそうだわ。


「あの、お客さん大丈夫ですか?」

 遠慮がちに掛かる女性の声に、覆い被さらんばかりのロディさんは姿勢を戻して振り返った。

 目に入る木製の天井とお洒落なダウンライト。首を巡らせると楕円形の可愛らしいテーブル。

 どうやらカフェの店内、個室のような区切られた場所でソファに寝かされていたらしい。

 身体の上にはロディさんの上着が掛けられている。

 起きようとした身動ぎに、すぐに背中を支えるてくれる大きな手。寄り添う姿は突然倒れた恋人を心配する男性そのもので、私の取材のためにここまでしてくれるロディさんに少し苦しくなった。


「店長、目覚められました」

 白いコック帽を被った男性がやってきた。

「お嬢さん、困るんですよね。うちは貴族のお客様も多いんですから。ケーキを食べて倒れたなんて噂が立ちでもしたら、たまったもんじゃないですよ」

 他のお客さんの手前、大きな声というわけではないが、不機嫌さを隠さないしかめ面だ。

「あ、すみません」

「どうせ男前の彼氏つかまえて有頂天になって眠れなかったとかでしょう?普通のお嬢さんには考えられない上玉ですもんねぇ、分かりますよ。だから・・・って・・」

 店長さんの声がフェイドアウトする。後ろを見て、顔を青くして、口をパクパクさせた。後ろ?

 振り返ると、ロディさんも後ろを向いた。壁?天井?

「あ、お客さん、ちょっと虫が這ってたみたいで。ほら、飲食店なんで。内緒にしておいてくださいネ」

 こっそりと店員さんが教えてくれた。

「えぇ、もちろん。それにしてもとっても美味しいケーキでした。緊張で倒れたみたいなので、だいたい店長さんの仰る通りですし。ご迷惑掛けてすみませんでした」

 立ち上がり頭を下げると、店長さんは何かの玩具みたいな速度で何度も頷いた。上目で私の後ろをチラチラ見るから、やっぱり虫が気になるみたいだ。では、と急ぎ足で戻っていったのはきっと殺虫剤を取りに行ったんだろう。


「はぁ〜もったいなかったです。ひとくちしかまだ食べてなかったのに」

すとんとソファに腰掛けて図々しくも愚痴が出た。私が倒れたのが悪いんだけど。

「そちらにありますよ」

 眼鏡のない寝起きの目でぼやっと気付かなかったが、テーブルの上にはクロッシュが置いてあった。店員さんがそれを除けると。

「ふぁ〜〜。ありがとうございますっ」

ひとくちだけ、フォークで先っちょを切り取ったあとのケーキがあった。

「お茶はまだお持ちしていませんでしたので、今からこちらに準備いたしますね」

にっこり笑顔のすてきな店員さんは厨房に戻っていった。


「わぁ本当に嬉しい。すっごく美味しかったんですよっ。あ、そうだ」

 フォークを持って、小さく切る。突き刺すのは行儀が悪いのかもしれないけれど、乗せるだけだと落ちちゃうから。

「はい、お返しのあーん」

 すぐ横に座るロディさんの口元にケーキを寄せる。何か言おうとした口が鮮やかに両端を上げ、小さな笑窪を作るとすぐに大きく開いた。

 ぱくん。

 閉じた口はまた優しい弧を描いたあと、もぐもぐ楽しそうに動く。何だか心拍数が上がったのはきっと、フォークを刺しやしないかと心配したからで。左の拳をぎゅっと胸に当てた。

 あれ、そういえばこのフォークって、さっき私が食べたヤツじゃ。

 気付いた私の心臓が、太鼓になった。

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