<5> 眼鏡の中身は透けている
『あれ、あれが分からないんですよね。ほら、オープンカフェとかでふたりだけの世界を作ってる恋人たち。
うちの親も年中無休でラブいですけど、外では会釈するだけで、むしろ睨み合いなんて呼ばれて心配されてるらしいですよ。
だから。あ、あー、これは関係ないです。うん』
他愛ない会話が我が身を危機に陥れる。
ラブラブカッポーの気持ちなんてどうでも良いのだ。いや、作家として想像力の及ばない範囲に対して、真摯に努力する姿勢というのが大切であり、実体験に勝る資料などないのである。やはりラブラブカッポーの心持ちをやらねばならん。
あれしかし、イチャイチャラブラブって、ラブラブだからイチャイチャするんであって、ラブラブでない相手とイチャイチャしても何も学べないのでは?
あっれー。前提条件が崩れたから、やっぱりキャンセルで良いかな。他の仕事もあるし。
「約束を違えるのは許されません。気分が乗らないからなんて理由で相手に失礼をすれば、今後どのような関係を持ちたいと願えど二度と見向きしてもらえないでしょう」
断るのならその場で断れた。翌日エコー姐さんに連絡してもらう手もあった。
当然だ。当然の話で、それなりに常識人を自負している私も理解している。
その上で。
「だって。・・・おさげと眼鏡を外せば美少女ってのが出てくる小説あるじゃないですか」
今日一番大切な業務はこれ、と午前の仕事を早めに終えて、私の化粧とヘアセットを施してくれている社長が鏡を睨みながら相槌を打つ。
「それで?」
「ダサい髪形だろうが眼鏡掛けてようが、美人て隠せないんですよ。顔立ちって別に目だけじゃないですから。印象の幾らかはもちろん変わるけど、不美人だと思ってたのが絶世の美女ってお前ら目ン玉ダニに喰われてんのか!って昔じ・・・知り合いがいってました」
「見る目のない者たちの、手の平クルクル物語なんて古今東西幾らでもあるわ。例えば賢母。狐色の髪と瑠璃紺の瞳を持った見栄えのしない第三妃が、息子が賢い王になったことで後世では賢母として崇められている。
貴族庶民問わず人とはいい加減なもの。でも真理の一端でもある」
「どういう?」
「自分は以前から分かっていた、つまり他者が知らない優れたモノを自分だけが知っている、自分だけが所有しているという優越感は、結局のところ、種の保存本能、競争原理に根ざしている」
「人よりも上だと示したい、示した者がより生き残れる・・・」
「こと人に於いては方法など幾らでもあるけれど、見目好い女性を侍らすことによって矮小な自分を少しでも大きく見せようとする事は、別に非難される行為ではない」
「女の人が迷惑してなければ」
「男性の方に多い考え方だけれど、女性にもいるわね。
同等の相手である方が本人たちも周囲も納得しやすい。ただ」
「ただ?」
「結局のところはふたりの問題。ふたりがどのような関係だろうが」
外していた眼鏡を掛けてくれる。
鏡の中にはおさげを解いた私がいる。これだけ時間を掛けてメイクとセットを整えてもらっても、普段より見られるようになったかな程度の本当に目立たない顔。
物語の奇跡は起きていない。
丸眼鏡の奥の濃い紺色も明るい茶色の髪も嫌いではない。もうすぐ十八年一緒にいる私自身の大切な一部分。愛着もあれば、自分では愛嬌もあると思っている。
「他者との比較などに意味はない」
社長の声は幾重にも聞こえた。
よく覚えておきなさい。
何度も教えられた言葉。家族であろうと自身以外との比較により精神的な悪影響があるのならば、それは不必要な行為だ。
しかし、世の真理はまた競争を前提としている。競争と運。走るのが遅ければ、出会う場所に居なければ、産まれることすら叶わない。競争とは他者との比較であり、些細な事柄にすら優劣が発生する。
「堂々巡りの考察でしょう。ルリルーちゃんの表情は読みやすくて助かるわ」
「無意味だとは断じないんですよね、社長は。優しいから」
「意味のない考察などないわ。堂々巡りのひび割れを見つけられるのは、何度も堂々巡りをした人だけ。下手の考え休むに似たりなんて、考えるのを諦めた者の言い訳に過ぎない」
さぁ。立って。
社長の白い手が差し出される。
軽く右手を乗せれば、優しく絡めて引き上げてくれる。
「今からルリルーちゃんは、ルリ、ね。素敵なルリを待ち人に見せたいけれどみせたくない、そんな気分」
今日は眼鏡を置いていく。
世界がぼやけても、私は私ではない誰かを演じよう。
待っている青い目を浮かべて、心臓が高鳴る。
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