第35話 それぞれの痛み

 ……旅行、楽しかったなぁ。


 電車の中で寝ていたからか、私は割とすぐに目を覚ました。


 そして、静かなリビングで一人紅茶を飲む。


 兄さんとのツーショット写真を眺めながら……。


「ふふ、兄さんってば……視線が変だね」


 こんな時、以前だったら……孤独に襲われていた。


 インターホンが鳴れば怖かったし、隣から物音がするとビクビクしていた。


 被害妄想なのはわかってるつもりなんだけど……。


 前のお父さんが、すぐに怒鳴り散らす人だったから……。


 何か言われるんじゃないかとか、何かされるんじゃないとか……。


 誰かに相談しても、自意識過剰だと思われちゃうし……。


「でも……今は怖くない」


 もちろん安いアパートじゃなくて、オートロック付きのマンションなのもあるけど……。


「そこの部屋には兄さんがいるから……」


 それだけで、こんなにも安心するなんて……。

 男の人はすぐに声を荒げるし、目線が……仕方ないのはわかってるけど。


「兄さんは怒鳴ったりしないもんね……優しい人」


 旅行中でテンションが上がってることを良いことに……。


「思いっきり甘えちゃったけど……」


 嫌な顔一つしないで付き合ってくれた。


「水着姿を見せても……うん、凄く見てたよね」


 でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


「つまりは……そういうことなのかも」


 見られても良い相手ってことは……うん。


「好きなのかなぁ……わかんない」


 お父さんが原因で、男の人は苦手になってしまった。

 自己中で横暴で、口で勝てないとなると……すぐに手が出る。


「だから……男の人を好きになったことがない」


 ただ、優しい兄さんに甘えているだけなのかな?


「みんな……どうすれば好きってわかるの?」


 ドキドキするとか、安心するとか……もっとわかりやすかったら良いのに。


「はぁ……色々やってみて……確かめるしかないのかなぁ」


 少し恥ずかしいし……兄さんには迷惑かけちゃうかもだけど。


「よし……決めた。まずは、自分の気持ちを確かめよう……うわぁ……これじゃ、私が自己中だね……」


 それに気づいた私は、少し落ち込んでしまうのでした……。


「そうだね……じゃあ、私なりに兄さんに出来ることを考えなきゃね」


 そうじゃないと対等じゃないもんね。


「まずは……夕飯の支度ね」


 私は席を立って、行動を開始する。








 ◇




 ……あぁ、これか。


「いい、春馬。男の価値はお金を稼げるかどうかなのよ。そして夫は、お金を稼いで妻に尽くすものなのよ。だから、そのためには勉強して、良い高校、良い大学、良い就職をして……お父さんにみたいになっちゃダメよ?」


 そうだ……いつも、こんな感じのことを言っていたな。


「どういうこと? お父さん、優しいよ?」

「口答えしない!」

「ご、ごめんなさい」


 そうだ……何か意見を言うと、いつもヒステリーを起こす人だった。


「全く……良い会社に入ったから、期待してたのに……とんだハズレくじを引かされたわ。これじゃ、周りに自慢できないじゃない」

「………」

「あの人ってば、周りを蹴落とせば良いのに……そうすれば、昇進して良い給料が貰えるのに……! 何がそんなことしたら可哀想よ! 私が一番可哀想じゃない!!」

「ひぃ……」


 そうだ……そして、俺の頬を引っ叩く人だった。

 自分の思い通りにならないと、すぐに手が出る。


「春馬はああなっちゃダメよ? きちんとお勉強して、良い就職をして……お母さんを楽にさせてね」


 まるで呪いのように、最後には……そう言っていた。

 そして……結果的に、俺も期待通りではなかったのだろう。

 ある日、あの人はいなくなった。

 安心するかと思ったが……当時は、自分でも驚くことに悲しかった。

 やはり、あんなのでも母親だったんだと思う。

 もちろん、今では清々しているが……。

 それでも、どこか……心の中に穴が開いている気がする。

 苦しい……誰か——助けてくれ。












 ……あれ? なんだ?


 苦しい気持ちが……消えていく?


「……あっ、起きた?」

「……へっ?」


 何故か、目の前には……立派な山がある。

 そして、そこから静香さんの心配そうな表情も……。


(しかも……何か柔らかいものに頭が乗っかって……っ!)


 それに気づいた俺は、すぐに起き上がろうとして……。


「ダメ!」


 すぐに押さえつけられる!


(ちょっ!? おっぱいが ——顔に当たってる!!)


 良い匂いするし柔らかいし、ドキドキする……だけど、少し安心する?


「あ、あの……」

「わ、わかってるから……じゃあ、起きないって約束する?」

「は、はい」

「なら良いです……」


 そう言って、体を起こす。


「えっと……?」


(なんでここに? なんで膝枕? ……混乱しすぎて、すぐに言葉が出てこない)


「兄さん、全然起きないから……もう四時間も寝てるよ?」

「げっ、まじか……なるほど、それで起こしに来てくれたんだ……ん?」

「そ、それで……兄さんが泣いてたから」


(……泣いてた? あぁ……あの夢を見たからか)


「そっか……心配かけちゃったね」

「うん……それでベットに座って、涙を拭いてあげたら……だ」

「だ?」

「抱きついてきて……はぅ」


 そう言って、頬を赤らめる。


(……俺のバカヤロォォ——!? 何してんの!?)


「ご、ごめん!」

「う、ううん! それだけだったし……聞いても良い?」

「別に面白いことないよ?」

「兄さんは……話したら楽になる?」

「……かもしれない」

「じゃあ、話して。兄さんには迷惑かけちゃってるし」

「別に、迷惑なんて……」


 しかし、強い瞳で見つめられ……それ以上言えなくなる。

 そして……掻い摘んで、夢の内容を伝えるのだった。


「そうなんだ……」

「俺、なんの取り柄もなくてさ……」

「でも、私は……優しい兄さんは素敵だと思う」

「へっ?」

「もちろん、お金がなくて生活には困ってだけど……前のお父さんが優しかったら、それだけで良かった……って、お母さんも言ってたし」

「由美さんが……」

「だから……人それぞれなんじゃないかな?」


(……なんだろう、ありきたりな台詞なのに……心に刺さる)


「そうか……ありがとう、少しスッキリしたかも」

「ふふ、なら良かった。じゃあ、私は戻るね」

「ああ、俺も起きるよ」

「じゃあ、顔洗ってきて。そしたら、飲み物用意しておくから」


 そして、彼女は部屋から出て行こうとして……立ち止まる。


「兄さん……その……兄さんも、私に甘えて良いからね」

「へっ?」

「そ、それだけ!」


 そして今度こそ、部屋から出て行った。


 ……状況は昨日と何も変わらないはずなのに。


 相変わらず彼女は素敵だし、俺の決意を揺らがせる。


 でも、なぜか……俺の胸の痛みは和らいでいた。

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