第6話 おじいちゃん
久しぶりに会うおばあちゃんは少しだけちっちゃくなっていた。自分が成長しただけなのかもしれないとも思ったが、それでもやはりちっちゃかった。
くしゃくしゃになった落ち葉のような笑顔で迎えるおばあちゃんの後ろからは、木の彫り物のような笑顔をしたおじいちゃんが迎えてくれた。電話では気がつかなかった静けさと暗さがそこにはあった。
電灯をともしても貫けないどんよりとした厚い雲が家の中に広がっている気がした。
お邪魔します。陽樹の大きな声に救われるように僕も声を出した。
いらっしゃい、と言うおばあちゃんの声は、電話で聞くものと違い、どこか細く乾いていた。僕にとって成長の五年間はおばあちゃん達にとって衰退の五年間なのではないだろうか。そう感じると何だか泣きたくなった。
一通りの挨拶を済ますと八畳の居間に通された。居間からは昔と変わらない庭が見え、隣に連なる八畳の寝室は襖を開けることによって居間と繋がり無駄に広くなった。居間の中心に置かれたテーブルにはどうやっても四人では食べきれないほどの量のおかずが並んでいた。
時がここではただ流れた。
勉強はがんばってるかね。おじいちゃんの五年前と同じ質問に、うん、まあ、と答える。とても今日もサボってここまで来てます。なんて言えず、僕は陽樹との関係を説明し、あまり好きでない奈良漬を口にし、ご飯といっしょに咀嚼した。山葵漬けが嫌いな僕にそれならと言って準備してくれた奈良漬けを食べないわけにはいかなかった。里芋を醤油で付け口に入れ、ほうれん草の胡麻和えを口にしようとした瞬間それは起こった。
ごほごほ、と咳き込む音に反応し、その先を見ると、海老の様に背中を丸め、さらに小さくなったおじいちゃんは口から何かを吐き出していた。吐瀉物の酸味を帯びた匂いが僕の鼻腔にたどり着く。
「おじいちゃん、おじいちゃん」
おばあちゃんが何度も叫ぶ。
反応が弱くなりうなだれるおじいちゃんに向かって身体を揺り動かす。
何が起きたのか全く理解できない僕は一歩も動けず、箸でほうれん草の胡麻和えを宙に浮かせたままだった。
宙に浮かせたまま、おじいちゃんはこのまま死んじゃうのかもしれない。他人事のように冷たく考えていた僕は、おじいちゃんはテレサ・テンが好きだったな。なんてどうでもいい事を思い出していた。みんな死んでいった。おじいちゃんの言葉が頭をよぎる。
「じゅん」
陽樹の声に我に返りようやく何が起きたのか理解し始めた。
「ようき」
呟くように何とか言葉を発した僕に、陽樹は親戚が近くに居るか聞いてきた。ようやく少し落着き、叔父さんに電話をする。今おばあちゃんの家に遊びに来ていたんですけど、そこまで言うと胸から悲しみが込み上げてきた。電話で現状を説明しながら、この間にもおじいちゃんが死んでしまうのかもしれない。そう思うと胸が詰まった。
おばあちゃんがおじいちゃんの傍で泣いている。
電話をしている間に救急車が家の前に止まった。僕は病院に着いたらまた連絡します。と電話を切った。
陽樹はとにかく手際が良かった。救急隊の人に状況を説明しながら、救急車に乗り込んだ。陽樹は基本的におばあちゃんの近くで声をかけていたが、時折僕のほうにも大丈夫かと声をかけてくれた。
救急車を呼んだのは陽樹だった。
ばあちゃんの家の電話近くのメモ帳には、タクシーの会社と家の電話番号、そして住所が書いてあったらしい。いつかこうなることが分かっていたのかもしれない。
病院まで着き叔父さんに病院名を言い、叔父さん達が来るのを待った。僕が出来たのはこれだけだった。ほとんどの事は陽樹がやってくれたし、叔父さんが来てからは全て叔父さん達がやってくれた。
おじいちゃんは早く運ばれたため大きな問題もなく一命を取り留めた。
僕はなんだったのだろうか。うなだれる僕に陽樹は何事も無かったかのように大変だったね。と言葉をかけてくれた。大変だったのはむしろ陽樹のほうだったのに。そう思いながら、僕は小さく首を横に振った。
「ありがとう」
なんとか声を出すと
「何言ってんだよ」
なんて陽樹は答えた。
陽樹がいてくれて良かった。
陽樹はしばらく僕の目を見ると、
「僕のじいちゃんは死んでしまったから」
と言って悲しく笑った。その言葉になぜか少し救われた気がした。でも、その経験がおじいちゃんを助けたのだと思うと、複雑な気持ちになった。
夜の病院はやけに静かで心を沈ませる。月の光すらたまに途切れる雲間から廊下を僅かに照らすだけだった。
「おれ、おじいちゃんっこだったんだ」
叔父さん達から少し離れたソファーで陽樹が話し始めた。
「じいちゃん家は、僕が中学校の頃までずっとおれん家から近くてよく遊びに行ってたんだ」
僕は黙って頷く。
「高校に入ってから、親父の仕事の関係で東京へ来るとなかなか会いに行けなくなっていって、高校二年の夏休み、一年ぶりにおじいちゃん家に家族で行ったんだ。一日目は何てこと無かったんだけど、いや、そういう風に見えただけなのかな。二日目の夜にこれから寝るって時にじいちゃん急に倒れて」
陽樹の顔は暗い廊下でシルエットとなりその影は唇だけ動き、時折瞬きしているのがわかった。視線は前に向けられたままだった。その頬には唯一影を作らず透明な液体が流れていた。
「そのまま僕は何もしないまま立ち尽くして、親父やお袋がばたばたと電話をしたり、呼びかけているのを見ていたんだ。おばあちゃんだけには何となくこうなることが解っていたんだと思う。救急車が来るまでにおじいちゃんは心停止してしまったけれど、その間ばあちゃんはずっとじいちゃんの顔を見て、手を握っていたんだ」
陽樹はそこまで言うと鼻をすすった。
「ばあちゃん、心臓マッサージをしようとする救急隊に、もういいんです。って、俺には何が起きたのか気がつくのにだいぶかかったよ。もういいんですって言葉はじいちゃんが煙になるまで解らなかった」
ふいに陽樹が僕の方を向いた。両目から流れた涙はあごまでの道筋を作っていた。
「そして今日やっと、その時じいちゃんにしてやれなかったことを出来た気がするよ」
陽樹はそう言って微笑んだ。
それにつられて僕も微笑むと、何だか可笑しくなった。声を少しだけ漏らし、堪え泣く様に笑った。陽樹といっしょだったならば、大抵のことなら笑える日を迎えられるような気がした。
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