しのぶさんと、ちょっと お喋り(仮題)
汐凪 霖 (しおなぎ ながめ)
第1話 とおりゃんせ
「ああ、今日も、ええ顔してはるわ」
嬉しそうに呟く。
しのぶが
「や、これは、どうも、ありがとさん」
小さく拝んでから一気に飲み干した。
「ここに置かしてもらうようになってから、和んではるようやねぇ。ありがたや」
喜色満面に、いまにも拝みかねない様子だ。
預かった画幅に描かれているのは、あの有名な“鳥獣人物戯画”に似た画風の、擬人化された兎だ。白拍子姿で、いまにも立ち上がり、舞い始めようという姿勢でいる。まあ、夜半に舞っているのは間違いないのだが。それは冗談下手な者が口にすべきではない。
「そうなんですかねぇ。ぼくより、
「そうでっか。そりゃ礼をせんとあきまへんな。で、五十鈴はんは、どちらに?」
「お使いに出てるんですが、ちょっと遅いですねぇ」
ふと窓を見やると、
「こりゃあかん。雨でっせ、しのぶはん」
「ああ、本当ですね。
「はいはい、店番しときますよって。はよ行ってあげなはれ」
「有難う御座います」
裏口の鍵が閉まっていることを確認してから、外に出る。
蛇の目傘を手にすると、自分は番傘を開いて担ぐ。太い竹の柄は手に馴染みが良い。
ぽつぽつ、ばらばらと雨粒が跳ねる。
商店街の端も端にある『
雨下駄の高さに戸惑うことはもうないけれど、
「五十鈴」
「あっ、しの兄」
アーケードの端に立ち、紙袋を
「迎えに来てくれたの?」
蛇の目傘を開いて渡すと、五十鈴は嬉しげに柄を握った。
「あのね、あのね。抹茶のクッキーに、試作品の黒糖きなこクッキーを付けてもらったの!」
「それは良かったですねぇ。帰ったら、早速、いただきましょうか」
「うん!」
ふと、立ち止まる。
五十鈴も止まって、前を見た。
この街で和装をしているのは、ほんの数人だ。
全員が顔見知りで、年齢性別と、好みの装いも互いに知っている。
白い鼻緒の草履。
幼い子どもの脚だ。
──“
にわか雨の午後、薄暗く灰色の雲が渦を巻くような日になると、この怪異は出やすくなる。
──五十鈴には蛇の目があるが……。
しまったなと思った。
傘の持つ結界の力は、蛇の目が一番、強い。
そう
──仕方ないな。
眼鏡を外し、袂に入れた。避けるのであれば、見ないのが一番だ。闘うのならば、ともかく。
すっと唇をすぼめた。
ふくよかな音が鳴る。
柔らかく、低く、ゆっくりと昇ってから下がっていく音を歌わせる。
口笛。
力ある者には、神喚びの呪術となるのだという。
霜風の前で口笛を使って、那津女が来てくれたことはない。だが、神喚びをすれば、つまりは魔除けにもなるのだ。番傘に蛇の目傘以上の結界を望めるほどには。
吸うときに音を鳴らさないよう気をつけながら、巧く歌った。流石に霜風を相手に、適当な口笛では対抗できない。
五十鈴は黙って歩く。
わざと、少し離れて。
そうして、口笛を吹きながら店の前まで歩いた。
ここまで来れば、いろいろなものからの加護が勝つ。
眼鏡を取り出して、かける。心配そうな顔で見上げる五十鈴に、微笑みかけた。結局のところ、仕掛けてこなくとも、いつも傍には居るのだ。店舗兼住居である、この建物の中では、何も起きないだけで。
「おかえりやす」
出迎えてくれた妹尾の朗らかな笑顔に、緊張が解けた。
「店の番を有難う御座いました、妹尾さん」
「ええんや、ええんや。やあ、五十鈴はん。いつも舞姫はんのお世話を、ありがとさん」
「こんにちは、妹尾さん! うん、いつも綺麗な舞いを見させてもらってるから!」
「はは! さよか!」
下駄箱から手拭いを出して足と下駄を拭う。ふと、下駄の歯に貼りついていた葉を見て、眉をひそめた。爪で剥がそうとした途端、はらりととれて、土間に落ちる前に消える。
やれやれと、息を吐いた。
身体が冷えてしまったので、熱い茶を淹れた。
三人で茶卓を囲み、クッキーを味わう。
「はぁ、美味しい!」
五十鈴が幸せそうに呟いた。
「そういえば、さっき、しのぶはん、口笛を吹いてらっしゃったやろ」
「聞こえていましたか」
「懐かしなぁ。とおりゃんせ。よう近所の子ぉらと歌ったもんや。ありゃ天神さんの歌ですやろ。七つの人の子となった祝いに御札を納めに参りますって。お礼参りでっしゃろなぁ。行きはよいよい、帰りはこわい〜♪」
「ええ。帰りを行きに、ぐるりと廻せば怖くない」
「は?」
「いえ。暗い雨のときは、つい、思い出されて、吹いてしまうことがあるんです。子どもの頃から。姉が教えてくれたもので」
「はあ、あの別嬪さんやな。今でも会いとうなりますわ。えらい艶っぽい、ええ
はにかんで、茶をすすり、妹尾の長い語りに付き合う。
やがて、五十鈴が
布団に寝かせて吐息を放つ。
背後に気配が立った。
「相変わらずだったわね、妹尾さん」
振り返らない。
「
ふわり、と影が動いて、艶々とした黒髪の切り揃えた先が腕の横をかすめる。すぐ、背後に立たれているようだ。
やわらかい声質だが、その響きには憂いが沈んでいる。
「那津女が怒ってるわよ」
「うん、そうだね」
「でも、なんで那津女には見えないのかしら。それに、名前を知っているのに、害してくるなんて」
「偽名かもしれないね」
「偽名か」
「ねえ、那津女に──」
「自分で言いなさいね、
笑いながら遠ざかっていった。
溜め息しか出ない。
「まあ、とりあえず、蛇の目は欲しいなぁ」
ぽちゃん、と、窓の上の庇から、水滴が落ちる音がした。
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