季節もの

明日葉叶

第1話

「じゃあ行ってくるよ」

 いつものように玄関をでる私は春のすがすがしい陽気に包まれ、思わず深呼吸をしてしまう。

 あんなに寒かった冬は終わったのだ。思えば去年の年末は大変だった。今季最大の赤字だなんて会議で話を上司からされたが、私はなんとかリストラをされずに済んでこうして今日も仕事にいけるのだから。

 内心ごちりながら、歩きなれた道を歩き出す。それにしても、と再び考え込むのが私の悪い癖だ。

 挨拶をしたのに妻の奴と言ったら返事もない……のも仕方ないか。昨日連日の残業について問いただされ、浮気を疑われたものだからついかっとなって怒鳴りつけてしまった。今日は息子の縋と一緒に温泉にでも行っているはずだ。

 出てくる時にテーブルの上に白い封筒がわざとらしく丁寧においてあった。

 妻のことだ、きっと私に面と向かって謝罪が出来ないものだからこうして書にしたためておいたのだろう。

 私は謝ってほしいわけではなかった。ただ私の仕事に対する思いを理解してほしかっただけだったのだ。だからあの封筒は気持ちだけ受け取ることにして、中身は見ないことにしよう。

 妻のこういう初々しいところを見るとつい、出会った頃の学生の気分になって頬がほころんでしまう。

 いかんいかん。誰とも話をしていないのにも関わらず、急に笑い出すなんて私がまるで不審者か変質者みたいではないか。会議があった日を境に、この近辺で変質者が現れるという噂を聞く。この町に住む善良な一市民としてそういった輩から弱者を保護する立場にあっても、そちら側にいくなどありえない話だ。

 仮にそんなことになってしまったら……などとくだらない考えを反芻しているといつの間にか住宅街を抜けて縋の通う小学校まで来てしまったらしい。フェンス越しに見る学童たちは、体育の授業をしているらしく元気に校庭を走りまわっている。

 私はその学童の姿に、昔の縋を重ねていた。

 ピストルの音とともにスタートを切る我が子。ずいぶん昔の運動会の記憶だ。足が遅いとみんなに馬鹿にされると、早朝私も息子の特訓に付き合ってあげたのに、あの子はもう少しでゴールという肝心なところで転んでしまい、結局後ろからどんどん抜かれてしまって、ビリになってしまったっけ。

 この世界は一度転んでしまったものには誰も手を差し伸べてはくれない。

「何してるんですか」

 気が付くと怪訝そうな表情で私の目の前に女の教師が立っていた。体育の教師なのだろう。動いて熱くなったのかこの時期にしては早い半そで姿にうっすら汗をかいていた。

「あ、……いや……私は、その……」

 急な出来事にたじろいでしまう。

「授業の妨げになります。何か御用でしたら職員室まで来ていただけますか?」

 そう語気を強められると人間どうしていいものか頭が真っ白になってしまう。

 私はただ、我が子の思い出を回想していただけなのに。

「すいません。ちょっと昔を思い出してまして、私もこれから出勤なので、失礼します」

 言うなり、フェンス越しの女教師は私のつま先から頭のてっぺんまで嘗め回すように見てきた。

 不躾な教師だ。私がいったい何をしたというのだ。こういう世代の考えにはほとほと辟易していたところだ。私ぐらいの年代の人間をすぐに老害だと難癖をつけてくる。

 こういう輩には極力関わらないほうがいいことは社内で生き抜くためにも必要な経験だと最近知った。

 こんなに天気は晴れ渡って風に流れる桜の花びらも春らしく朗らかで、とても気持ちのいい出勤日だというのにとんだ災難だ。

 私の勤める会社はバスでここから15分。街の郊外にある雑居ビルの二階。私の座る席はそこの窓からよく外が見える。私はそこから眺めることのできる公園をいつも心のよりどころにしていた。別段理由はない。ただ、人間関係に限界を感じている最近の私の心理を考えると、唯一一人になれるその公園が私のいるべきプライベートルームのように思っていただけだ。

 と、ここで肝心なことに気が付く。そういえば妻と息子は今日は温泉に行っているはずだ。私の昼食がないではないか。どこかで買っていかないと、一時間しかない休憩時間が買い物で少し減ってしまう事になる。

 腕時計で時間を確認し、時間にまだ余裕があることを確かめた私は、いつも利用しているバス停を少しだけ過ぎた先にあるコンビニへと足を延ばした。


「いらっしゃいませー」と言ってるつもりなのだろうが、どこの店に行っても頭の発音がなってない。

 私が社会人の時には一人暮らしのアパートのすぐそばのコンビニでさえ新鮮に感じたものだ。雑誌コーナーでたむろしている十代後半のこの若者もそうなのかもしれないと思うと、なんだか少し懐かしい気分がして声を掛けたくなった。

 ふと、さっきの女教師のあの不遜な態度を思い出して思わず出した手を引っ込める。

 私としたことがどうして同じ失態を二度繰り返す。同じ轍を踏むなど普段の私なら到底あり得ないことだ。そんな事、最近会社に入ってきたろくに世間も知らない新入社員みたいじゃないか。

 目的を見失うな私よ。

 お前はここにこんな若造と話をしに来たわけではない。昼食を買いに来たんだ。もうあまり時間が時間が残っていない、早急に済ませてここを出るんだ。

 不思議そうな目で私を睨むスーツ姿の若造が忌々しい。

 しかし、こんな若造に負ける私ではない。一刻も早く昼食を手に入れて私をリストラ対象から外してくれた上司への御礼とそれに報いる成果を出さねばならんのだ。

 私はそう決意すると、目の前の若造の後ろを悠然と通り抜けてやった。私は貴様に用などないのだ。

 雑誌コーナーを通り過ぎ、その先のペットボトル飲料用の冷蔵庫を眺めるふりをしながら、さらにその横の弁当売り場へと足を運ぶ。この時間帯だ。種類も当然ある。だが私には肝心の財布の中身がない。リストラ対象から外されたといえど、結局のところ今まで通りの使い捨ての駒のように安月給でくたくたになるまで働かせられる。そんな私にのり弁以外の選択肢はない。ひとつ手に取り、迷ったあげく、その陳列棚の上にあった暖かいお茶も購入することにする。

 手にした品物をもってレジに向かう。が、当の店員がそこにはいなかった。私からは見えない後方の方で商品の補填をしているのか、はたまた事務所の方で何か別の仕事をしているのか。

 今日はどうしてこう間が悪いのか……小さくため息を吐いた私は、直後軽く息を吸い込んで言葉を口にする。

「す……す、す、す、す……。すい……すいま、せーん……」

 先ほどの怒りを無理に沈めようとした結果なのだ。仕方のないことなのだ。私は決して恥じなどかいてはいない。私は大手出版会社の一社員なのだ。これまで多くの人材を育成してきた私がコンビニのレジごときで緊張するはずが……。

「……はーい」

 レジカウンター横の通路の方から女性の声が聞こえてきた。

 聞こえているのならさっさと来い。こっちは出勤時間をロスしているんだ。心の声が口からこぼれそうなほど、緊張していることを認めざるをえまい。

 財布を取り出し、中から小銭を取りだした時だった。

「お待たせしましたー」

 20代後半くらいだろうか、背丈は150センチ前後。美しい黒い髪を後ろできれいにまとめた女性は、私にそう笑いかけてくれた。

 心臓が一層高鳴りを覚え、息が止まるかと思った。

「合計で538円になります。お支払いは現金ですか?」

 その言葉の一音一音が私に向けられたプレゼントに思えた。

「こ、こ、ここおこここ、小銭ならさ、ささささ、財布に」冷静さを保とうとすればするほど、手は震え、小銭は手をすり抜けて床へと落ちる。


 女性と言葉を交わすことなど実に数か月ぶりのことであった。

 席に着くなり深くため息をする。私が唯一安心できるのがこの席なのだ。

 結局飯は買わないで来た。手元が震えてどうにも小銭を掴むことができなかった。あれでは周囲に誤解を招いてしまう。

 私は正常なのだ。

「こんにちはお嬢さん。今日はお散歩かな?」

 小さな子供が歩いている。変質者に狙われたらさぞ危ないだろうに。

「ちーちゃんっ、早くおいでっ」

 やれやれ、最近の子供はずいぶんと恥ずかしがりが増えたものだ。

 そうこうしているうちに、私の携帯に着信が入る。

 きっとまた面倒ごとに巻き込まれるんだろう。しばらく充電をしていないスマホを手に取り、そっと耳に当てる。

 私には聞こえるのだ。上司のあの忌々しい声が。私を罵倒するあの声が。

 また通話中に頭を下げてしまった。こういうところが新入社員から舐められるというのに……。幸い、さっきのお嬢さんが足の陰に隠れて私を観察しているだけのようだが。

 ……それにしても、今日はなんという桜日和だ。

 私のいつもの席の頭上には満開の桜が誇らしげに咲いており、時折吹く風に花びらが散り、私に春の到来を教えてくれる。

 軽く息を吸っただけでもここに来たかいがあるというものだ。

 さて、

 今日も忙しくなるだろう。多分あの調子じゃ今日も残業に違いない。潔癖症の上司が到着する前に社内のシャワールームでこれまでの汗を流しておかないと、加齢臭がするだの老害だのと罵られる。

 動きやすい服装で来ていてよかったと心から安堵して、私は上着のジッパーに手をかける。

「もしもし、警察ですか?!」

 遠くで何やら物騒な声が聞こえるが、いくら私でも警察沙汰になるようなミスはしない。

 ためらうこともなく、私は沸き立つシャワーに入っていく。

 おっと、そうそう。

 年を取るとこれだからいかん。

 下のほうを脱ぐのをすっかり忘れていた。

 ふと、思い立つ。

 衣類は普通はシャワーを浴びる前に脱ぐものだ。

 こんなことをしていては、まるで私が普通ではないみたいではないか。

 数百メートル先の交叉点をパトカーがこちらに向かって走ってくるようだった。

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