或る画家の物語
佐藤山猫
第1話
彼女に初めて会ったのは、友人たちと立ち寄ったカフェだった。
昼下がりのカフェは人で賑わっている。僕たちはテラス席に座って、他愛のない話や芸術論に興じていた。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」
その日、僕たちのテーブルの担当だったのが彼女だ。
陽だまりのような人だった。殆ど黒と言っても良いダークブラウンの髪はひとまとめに括られていて、漆黒の瞳はまるで世界の全てが彼女にとっては初めて見る景色であるかのように、爛々と輝きを放っているようだった。
僕は見惚れてしまっていたらしい。
「アシル? おい、アシル」
後に画商になる友人が小突いたことで硬直が解けた僕は、慌てて何かを注文した。
友人が笑って指摘する。惚れてしまったのかい、と。
僕は、そうかもしれない、と返事をした。同時に、彼女ならば描けるかもしれない、とも思った。
僕はその頃、サロンに出展する作品の構想に悩んでいた。風景画にするべきか、人物画にするべきか。主流であるのは情景の三次元的な変化を二次元に描写する技法だが、僕はどうにも頭打ちを感じていた。僕は様々なアングルで捉えた対象を、一つの画面に再構成する技法をひそかに希求していた。一方で、同門の友人たちは、画風を変えるべきだとアドバイスをしてくれていた。
しかし、それ以前に、根本的な問題として、僕はいったい何を描くべきか、それが分からなかった。キャンバスを前にして、パレットと絵筆を持っても、戸外であれアトリエでの制作であれ、絵筆を用紙に乗せてはビリビリに切り裂いてしまう日が続いていた。
僕は何を描きたいのだろう。
友人たちに合わせて、戸外の、そう、公園辺りの景色を描いてお茶を濁すか。
何かを描かなければ、そういう思いだけが先行していた。
そんな時、彼女に出会った。
彼女を見た瞬間、僕の心は震えた。
ミートパイとコーヒーを胃に運んだところまでは記憶にある。
後の記憶、友人と何を会話し、その日どのようにして帰路に就いたかまでは覚えていない。
その次の日、僕は再びカフェを訪ねていた。
同じテラス席に座る。彼女の姿を見つけた。だがテーブルの担当は別の人間だった。
諦めきれなかった。
次の日も、そのまた次の日も、僕はカフェを訪れていた。
一人で来ることが大半で、2、3回友人たちと食事をしに来た。友人たちは僕と彼女を見比べる。あんな淑やかな美人とはお前みたいな冴えない男はつり合わないだろう、気の毒そうに告げる者も居た。
それでも、カフェに通い続けた。
彼女は大抵の場合出勤しているようだった。彼女の名前はアンナというらしい。
しかし、どちらかと言えば彼女とよりも他の店員と話す機会の方が多かった。
特にカフェのマスター夫妻にとっては、僕は非常に特徴的な客であったようだ。
「へえ、画家なのかい」
「まだ駆け出しなんですけど」
接客をする彼女のデッサンを見せる。夫妻は覗き込んで、へぇとか上手いねえとか言っている。
「描きあげたらうちに飾らせてくれよ」
「いいですよ」
笑ってコーヒーを飲む。アンナは今日は休みらしかった。
マスター夫妻はどちらもダークブラウンの髪に黒い目をしていて、アンナによく似ている。聞けば、縁戚の子で、身寄りがないのを引き取っているらしい。
「俺たちの祖父母世代が東洋の出身でね。血を濃く引いているんだよ」
東洋の島国に、和を旨とする凛とした民族があるらしい。自分たちはその髪色と瞳の色を受け継いでいるのだと、マスターは説明してくれた。
「お客さんは、アンナにホの字なんだろう?」
食器を洗いながら、マスターが髭面のダンディな顔にニィッとニヒルな笑みを浮かばせる。
「うまいこと紹介してやるよ」
三日後には、店じまいをした店内で、佇むアンナをスケッチしていた。
アンナは無邪気で明るく、人を楽しませるのが好きな人だった。
「アシルさん。うまいのねぇ」
「僕には絵しか無いですから」
どうやら描きあげたスケッチを見て、本気で感心してくれているようだ。
「描きあげたら見せてね」
「もちろんです」
さらにその三日後には、絵を完成させていた。
簡易なものだったので、普段よりも工程をいくつか省いたが、その結果として絵は写実的な作品となった。
客の引けたあと、三人に披露すると、アンナは手を叩いて喜んでくれた。
「本物よりも美人なんじゃないか?」
「あんた、失礼でしょ!!」
マスターの冷やかしに、奥さんが眦を吊り上げる。
僕はどう反応したら良いのか分からなかったが、アンナは笑って「ひどいなぁ」と言っていた。そして戸惑ってオタオタしている僕を見て、また笑いを深めていた。
陽だまりのような人だ、僕はやはりそう思った。
夫妻にその絵を渡し、僕は改めて、アンナに絵のモデルになってくれるよう頼んだ。
二つ返事でアンナは引き受けてくれた。
次の休みの日、アンナと二人で郊外の公園に出かけた。
ボートを借りて池で漕いだり、森の中を散策したりした。
そして目星をつけておいた、木漏れ日の柔らかな絵の背景に相応しい場所で、僕はアンナをスケッチした。違う角度から何度もスケッチした。
「いまここでキャンバスに絵を描くんじゃないのね」
お礼がてらに、最近流行っているというホイップクリームを冷やして変わった形のペイストリーに注いだものを奢る。ベンチに座り、二人で苦労しながら舐めるように食していると、ふと彼女が呟いたのだった。
「そうやって描く画家もいます。逆に、スケッチもせず、完全に記憶とイメージだけで描いてしまう人もいます。僕の知り合いの、才能のある人物が記憶だけで絵を描きます。僕もどちらかと言えば彼に近いです」
僕はエルヴェという友人の名前を挙げた。僕と同門の画家で、僕から見ても絵画の神様に愛された人物だ。彼を見ていると自分が極めて凡人であると思い知らされる。
そう言うと、アンナは顔を曇らせた。
「私はそのエルヴェさんの絵を知らないけど……」
アンナは言葉を滑らかに紡いだ。
「でも、これまで見たどんな絵より、アシルが店で描いてくれた私の絵が好きよ」
「……ありがとう」
僕はいくらか救われた気がした。
「だって私自身をちゃんと表現してくれている気がしたもの」
ダークブラウンの髪に黒の瞳という、シックで大人しい風貌から、アンナは勘違いされ、落ち着きのある大人びた淑女に見られることが多かったのだという。
「写真なんて、そのまま無感情に切り取るだけじゃない? だから、ああいうのは嫌いなの。見た目だけで勝手に勘違いされて、勝手に幻滅されることも多かったし」
アンナは池を泳ぐハクチョウをぼんやりと眺めている。美しい鳥だ。沈まないように必死で水を掻いている。美しい。
「私と初めて話した時のこと、覚えてるかしら? 私、アシルに私の第一印象を訊いたでしょう? アシル、なんて答えたか憶えてる?」
覚えている。記憶力は良い方だ。僕は初めてアンナを見た時から、陽だまりのような、ふれあう人を明るくする人だと思っていた。
「なんとなく、なんとなくなんだけどね、嬉しかった」
僕たちはとうに菓子を食べ終わっていた。プラプラと脚を揺らし、アンナは凛とした横顔に、どこか子どものように純真な表情を浮かべている。
「不思議よね。胸の奥がぽわっとするような。そうね、アロマキャンドルが灯ったような感じ?」
「その比喩は、すいません。よく分かりません」
「うん、よく言われる。話すのはあまり上手じゃないわ」
でも、とにかく──、アンナは言葉を継いだ。
「とにかく、嬉しかったの」
横顔がほんの少し赤かった。夕日のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。
勢いよく立ち上がった
「さ、話は終わり。ねえ、アシル。今日のスケッチを元にして、絵を描くのよね」
「そうです」
「それは見せてくれないの?」
「……サロンに出すつもりなんです」
そう、残念ね。
本当に残念そうにアンナが呟くので、僕は慌てて言った。
「もし良かったら、見に来てください。……マスターたちと一緒に」
臆病な僕は、そう付け加えてしまった。
「そうするわ」
アンナは頷いた。
「今日は楽しかったわ。ありがとね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
僕は頭を下げた。どこまでも他人行儀なんだから、とアンナが笑う。
「また来ましょ」
「ぜひ。…………また?」
「うん。じゃあね」
アンナが手を振って、通りの向こうへ消えていった。
別れ際に告げられた言葉に、僕は茫然としてしまった。
僕の製作スタイルは、アングルを変えてスケッチした対象を、記憶をもとに画面に収めることだ。どうしても資料を見ながらのデッサンや写実主義は、同時代や過去の画家に比べて劣ってしまう。見ながら描けない、というのは致命的だった。
その代わりに、僕は記憶を頼りに絵を描く。スケッチは思い出すためのトリガーに過ぎない。元にはする。アングルも則る。しかし細部はおろか主役でさえそれをキャンバスにトレースするのではない。
スケッチを元に完成させた絵をサロンに出展する。
僕の絵はよりにもよって、エルヴェの隣に並んだ。
サロンは延べ一週間開催される。最初の二日で、評論家たちが全ての絵を評価し、後の五日間は一般に公開されるのだ。
僕の絵は評論家から酷評を受けた。反対に、エルヴェの絵は大層な好評を受けた。評判を聞いて、エルヴェの絵を扱いたい、高く買いたい、という画商も多く現れたそうだ。一般客も、概ね同じような評価を下していたようだ。僕の心は折れそうだった。
そんなエルヴェは、自分の絵の隣に飾られた僕の絵を見てどう思ったのか。
「女性の絵か。美しい女性だね。淑やかで、光の効果かな、明るさも同居している。この女性は架空のものかい?」
最終日。長身で彫りの深い顔に爽やかな笑みを浮かべたエルヴェが話しかけてくる。僕が何も言わないでエルヴェの絵を見て嘆息し、自分の絵と比べていると、アンナがマスター夫妻と共に絵を見に来てくれた。
「ああ、彼女が」
僕の視線を追って、エルヴェが納得の表情を浮かべる。
「アシルっ!」
「こんにちは」
「よう、見に来たぜアシル」
「こんにちは。来ていただきありがとうございます」
順にアンナ、マスターの奥さん、マスター、僕である。
「紹介します。こちら、同門のエルヴェです」
「エルヴェです。よろしく」
エルヴェはアンナを眺めているようだった。画家の性か癖か、僕はよく、人の表情の観察をしてしまう。エルヴェの表情は、アンナに対する関心が9割といったところだろう。奥さんやマスターをチラチラ見ては、僅かに首を捻ってもいるが、どうかしたのだろうか。
絵を鑑賞している三人をよそに、僕はこの一週間に受けた評論家や客の反応も思い返し、僕はその場を離れたい一心だった。実際、どうしてサロンに来てしまったのだろう。部屋に籠っていてもよかったのに……。僕は激しく後悔していた。
三人が振り向く。皆、何とも言えない微妙な反応を──。
アンナだけは違った。
その目にあるのは、怒りと悲しみ、何よりも失望だった。
「アシル。なんであんな風に描いたの?」
サロンが終わって、カフェを訪ねた僕に、アンナは詰め寄った。
「あれじゃ伝わらない。私がアシルの絵で好きなのは、私の、その──、内面とか、を表現してくれているところだったの。スケッチの絵とか、カフェの壁に飾ってある絵みたいに。あのサロンの絵からは、私は読み取れなかった。ねえ、アシル……」
僕はハッとした。
さまざまなアングルでスケッチしたものを、思い出しながら一つの画面に再構成する過程で、僕は本質を見誤ってしまっていたようだ。
そういえば、とエルヴェや同門の友人に言われたいくつかの言葉を思い出す。画風を変える。抽象から写実の世界へ。
「リベンジを、させてくれないか?」
僕は言った。やるせなさや悔しさで、手ががたがた震えている。
「今度は、ちゃんとアンナの魅力を引き出して見せる。だから……」
だから、またあの公園に行こう。
そう言うと、アンナは喜んで、と僕の手をそっと握ってくれた。
そうして何度も二人で、いろいろな場所に出かけた。
はじめはスケッチブックと鉛筆を持って。次第に絵のため以外に出かけたり旅行をする機会も増えた。
とはいえ、アンナをモデルにした絵は描き続けていた。アトリエで、自宅の木造アパートの一階で、記憶をなぞってアンナを描いていく。時々アンナがやってきて、マスターから、とミートパイを差し入れてくれた。
サロンは三か月に一度だ。三回とも、きちんとサロンに出展していった。
作風を変えるにあたり試行錯誤を重ねた。破り捨てた失敗作の枚数は、百を超えた時点で数えるのをやめた。
はじめは抽象的な、輪郭を敢えてぼやかした絵を、次は絵の具の種類を増やし、原色のままに重ねて時間経過までも取り込んだ絵を、三度目は写実的な精緻な絵を描いて出展した。どの絵にも、彼女は頷いて、すごい、とか信じてた、とか誉め言葉をくれた。
評論家の評価も以前よりは良くなり、高評価は漸増していっていた。
一方でエルヴェはすっかり売れっ子の画家になっていて、僕の評価がいくらジワジワと上がってこようと、その差は開くばかりだった。
「アシル。私、エルヴェさんに絵のモデルになってくれって言われたの」
次のサロンに向けて作品の構想を練っていたある日のこと。僕のアパートで、ベッドの上で柔らかな白い肌を湛えたアンナは隣で寝る僕に告げた。
僕の心に鈍痛が走った。
「そ、そう。エルヴェならきっと、うまく描いてくれるよ」
エルヴェの甘いマスクが脳裏に浮かんだ。その名声も、アンナを絵のモデルに相応しいと目を付けたことも、頭の中にいくつもの情報が飛び交った。
悪いことをしている訳ではないのに、隠し事でもないのに、僕の心の中に煙のような黒い何かが滞留していた。
約束の日、アンナをエルヴェのアトリエに送り出す。
部屋に帰る途中、なんとなくセンチメンタルな気持ちになって、タバコ屋で久々に一本購入した。マッチで火をつけ、紫煙をくゆらせる。煙っぽくてゲホゲホと咽せた。
そうして、涙目で咳き込んでいる間に、僕は自分の感情に気付いた。
だから僕は、帰ってきたアンナにすぐさま告げたのだ。
僕と結婚してください、と。
サロンの日。一年前と同様に、僕とエルヴェの絵が並んだ。
エルヴェの絵は、アンナをモデルにしたものだった。奇しくも、僕と同じように、アトリエらしき一室の窓辺に座るダークブラウンの髪に黒い瞳の女性を描いているから、すぐにわかった。エルヴェはいつも通り、三次元的な刹那の印象を二次元に表現する作風だ。
僕の絵は、エルヴェとも今までの僕の作風とは異なり、極めて写実的な絵となった。
「私は、アシルの絵の方が好き」
左手の薬指に指輪を嵌めたアンナが、少しむくれた表情で告げた。サロン最終日、連れ立って部屋に帰る途中だった。
「写実的な方が?」
「難しい言葉は分からないけど、今回のは本当に、初めてカフェで描いてもらったのよりも好きかも」
「あはは。でも、エルヴェの方が評価されているんだけど」
「私はアシルが好きなの」
むくれたままのアンナがやはり綺麗で、見ていると明るい気分になってくる。
「アシルのあの絵は、きっと評価されるわ」
「そうだといいな」
僕は笑った。つられてアンナも笑った。
それがなぜかおかしくて、僕たちは笑みを深めた。
僕の絵はエルヴェの絵より高い評価を得た。
徐々に画商からの依頼が増えた。
僕は喜んで絵を描いた。
やがて、僕たちは北の村に引っ越して、自然に囲まれた村で穏やかに暮らした。
僕は家と別にアトリエを借りた。一日の大半をそこで過ごすようになった。
寒さが深まるころ、アンナのお
僕はますます絵を描いた。依頼が入れば、その通りに描く。気付けば、アンナをモデルにした絵はすっかり少なくなっていた。
数少ないアンナを描いた絵も画商によって世に出回り、僕の手元には代わりに金銭しか残らない。
それで不満はなかった。
生まれてくる子どものためにも、僕は稼がないといけない。
この年の冬は、珍しいことに大寒波が襲来していた。
稀に見る豪雪に、アトリエに閉じ込められることもしばしばあった。
こういう時こそ、アンナの側にいるべきだったのだ。
思い出したくも無い、記憶の地面の下に葬ってしまった出来事。
僕たちの子どもが流れてしまった。
僕もショックを受けたが、アンナはもっとショックだったようで、顔面は蒼白。それ以後もずっと土気色の顔だった。
それでも、アンナは表向きは気丈だった。
さりとて精神は参っている。そこに至って大寒波が来たから、アンナは体調を崩してしまっていた。
僕はといえば、パートナー失格だ。側にいてやることも出来ず、アトリエに雪で閉じ込められた日、やっとの思いで帰宅すると、ベッドの上でアンナは冷たくなっていた。
葬儀を済ませ、すっかり広くなってしまった我が家で、ボソボソしたパンを食べる。
アンナが居れば、どんなに寒々しい空間も、太陽の光を浴びたように明るい空間に変わったことだろうと思う。
出会う前に戻っただけなのに、こんなにも違うなんて。
沈み込んでしまった頃、画商が訪ねてきた。絵の催促だ。
機械のように、重い手足を動かして絵を描く。名声と、身に付けた画風は中々消えないもので、その後も絵は売れ続け、手元には莫大なお金が残った。
そんな生活を何年も続けている中で、ある日、画商から「最愛」をテーマに絵を描いて欲しい、と依頼が来た。
アンナの絵を描こうとして、僕の手は止まった。
アンナはどんな風に佇み、どんな風に笑っていたっけ。
大まかな姿は覚えているが、確立した写実的な画風では納得のいくようにできそうも無かった。
僕は記憶力には自信がある。なのにアンナのイメージだけが霧のように溶けていくようで、僕は恐怖した。激しく恐怖した。
まだ物忘れという歳でもない。
医者に診てもらうと、心理的にショックから身を守るため、無意識下で、アンナのことが思い出せなくなっているのではないか、と言われた。
信じられない。とんだ藪医者に当たったものだと思った。
それでも、これは請負った仕事だ。
完成した僕の作品を見て、画商は少し首を捻ったようだったが、まあいいでしょう、と絵を持って行っていった。
その作品は、アシルの名前が入っていながら、エルヴェの作風に類似していると評されたと風の便りで聞いた。
エルヴェもまた、抽象画の大家として名を上げていた。
その後も、絵の依頼は続いた。
依頼は止まることは無かった。寝る時間も惜しんで製作を続けた。
時々、画商を通じて、絵の購入者から感謝の手紙が届いた。
なぜ感謝されるのだろうか、とは思ったが、嫌な気はしなかった。むしろ、期待されている、多くの人が自分の絵を見たいと思っているのだと実感し、製作に緊張感と責任感が生まれていた。
エルヴェがアトリエに訪ねてきた。
彼は遠い国に拠点を移してしまっていたから、直に会うのはもうすっかり久しぶりのことだった。
アンナはどうしたのか、結婚したんだろう。
エルヴェに問われ、僕はアンナが亡くなったことを伝えた。
エルヴェは驚いた様子だった。
美しい、ダークブラウンの髪と黒い瞳が淑やかな印象を与える人物だった。惜しい人を亡くした。また絵のモデルになってほしかったのに。きっと年齢を重ねてその気品も深まっていたことだろうに。
エルヴェは心底残念そうだった。
君は骨の髄から芸術家なんだな、そんな感想が僕の心の中に反響した。
代わりに僕は首を振った。アンナは淑やかというよりは……明るい人柄だった。
エルヴェは僕に、彼女の絵を描かせてほしい、それを以って弔いとしたい、と申し出た。
僕は仕事場の一部を譲った。
君は描かないのかい。
エルヴェに促され、僕もキャンバスの前に立った。
スケッチブックはまだ残っていた。
初めてのデートの日、公園でスケッチをしたものだ。
ページを開き、思い出す。
ボートを漕いだ。散歩をした。ソフトクリームを食べた。
森の空気。少し鼻を突く水のにおい。冷たいホイップの感触。笑う彼女。
はっきりと思い出せるか?
出来上がった絵は、エルヴェをして失敗作であり自分の猿真似だと言わしめるものだった。
エルヴェは言った。君はもっと、写実的な画風で、その中に物事の本質や空気感を閉じ込めるのが上手だったじゃないか、と。
背景だけ瑞々しく、中心の女性だけがひどく滲み、輪郭も覚束ない。
エルヴェに指摘されるまでもなかった。
こんなはずじゃなかったんだ、そう呟いて、僕は作品をびりびりに破いた。
エルヴェが帰るというので、僕は駅まで見送った。
日々の出来事が単調に過ぎていくようだ。僕はそんなことを別れ際に零した。
もう何を描けば良いのかわからなくなった。
エルヴェ・マルキズが亡くなったという知らせを届けるついでに、私は古い友人でもあり取引相手でもある画家を訪ねていた。
彼──アシル・トリスタンが筆を折って十年になる。
アトリエでは、使わなくなった画材がすっかり埃をかぶってしまっていた。
根本的な問題として、彼にはいったい何を描くべきか、それが分からなかったようだ。キャンバスを前にして、パレットと絵筆を持っても、戸外であれアトリエでの制作であれ、絵筆を用紙に乗せてはビリビリに切り裂いてしまう日が続いていた。
十年前、彼は私にそう語って、以来すっぱり筆をおいてしまっていた。
久しぶりだな、と近況を報告しあう。
私が、引退し店を人に譲ったことを告げると、彼はそうか、と重く頷いた。
しばらく会話に花を咲かせ、一息ついたころ、私は本題を切り出した。
私が今日アシルを訪ねたのは、彼の最後の作品──遺作の製作を依頼するためだった。
誰が買うんだ、こんな時代遅れの画家の作品を。
年を経るにつれて神経質さが増した印象の画家は、皺だらけの顔をしかめた。
私が欲しいんだ。久方ぶりに仕事用の口調ではなく、友人としての砕けた口調で話す。アシルは驚いたようだ。
腕には期待しないでくれよ……。
画家は渋ったが、最終的には再び筆を持つことを了承してくれた。
何を描くべきかな、彼の問いに、私は答えた。
君が有名となる
提案を言い終わらないうちから、彼は首を横に振っていた。
描けないんだ。
顔をゆがませ、苦しそうに憎々しげに吐き捨てる。弱弱しい声だった。
スケッチを見ても、会話を思い出せても、場面は精巧に描けるのに。
アンナの姿だけはどうしても描けないんだ。思い出せないんだ。
慟哭するように、嗚咽するように、彼はその提案を拒んだ。
私は苦心して手に入れた絵を取り出した。
彼がまだ若いころに描いた絵だ。ミートパイとコーヒーが売りだったカフェに飾ってあったものだ。十年の歳月は、画家の作品が散逸してしまうには充分な時間だった。苦労の末、ようやく手に入れた品だ。
一目見るなり画家は泣き崩れてしまった。
それは、画家が初めて描いた、彼の妻の絵だったのだ。彼の作風の片鱗の見える、写実的で、アンナ夫人のお気に入りだったという絵。
絵を手に取って縋りつくように泣くアシルに、私は何も声をかけられなかった。
数日後、首都にある私の店に届けられた絵は、長年絵を描いてこなかったとは思えないほど出来の良いものだった。
匂いや音さえ感じられそうな生き生きとした絵筆の運び。小さいが、温もりの感じられる部屋のつくり。机についた女性らしき人物は、ダークブラウンの髪に漆黒の目をしていていた。私はそこに、彼がずっと見てきたような温かさや無邪気さを感じ取った。
或る画家の物語 佐藤山猫 @Yamaneko_Sato
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